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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2008年05月28日

付加価値という幻想

ヒット商品応援団日記No269(毎週2回更新)  2008.5.28.

過去「付加価値」というキーワードを使ってきた私であるが、この半年ほどいや1年ほどほとんど使わなくなった。ここで使っている「付加」の多くは、新しい、面白い、珍しい、といった情報としての価値である。つまり、新しい、面白い、珍しい、これらも一度経験すればそれで終ってしまうという一過的な価値でしかなくなったという背景からだ。しかも、その終わるスピードは極めて早いという時代である。以前、クリスピー・クリーム・ドーナツの限定戦略について触れたが、価値を認める顧客だけを継続させるためにも「限定」は必要となる。誰も彼もが利用してしまえば、新しい、面白い、珍しいという「情報鮮度」は一挙に喪失してしまうということだ。ベストセラーではなく、ロングセラーの時代にあっては、情報鮮度を保つためにも限定が必要ということである。

ところで、少し前までは付加価値の多くは「こだわり」という「訳あり」によって支えられてきた。しかし、そうした情報はすぐ競争相手に伝わり、「類似したこだわり」が生まれる。結果、「こだわり」の再生産がなされ、市場に充満していくこととなる。こだわりは文化という固有性にまで時間をかけて昇華されないかぎり常に一般化してしまうということだ。確か4年半ほど前だと思うが、別件でサントリーを訪問した時、伊衛門のプロジェクトリーダーが話してくれたことを思い出す。飲料においては、缶コーヒーや烏龍茶ではシェアーNO1を維持していているサントリーであったが、お茶は伊藤園に対し連戦連敗でほとんど最後のつもりで開発したという。私は京都の老舗福寿園との共同開発に触れ、よく口説き落としましたねと言ったところ、彼は老舗の文化を引き受けることは並大抵ではないと語っていた。伊衛門という福寿園の創業者の名前を商品のネーミングしたこともあり、今まであった製造ラインを全て変えること(莫大な投資)から始めたと。文化価値を引き受けるとは、単に名前を貸してもらいデザインを変える程度のコラボレーションではないということだ。(このテーマはブランディングにもつながるので後日私見を書きたいと考えている)

ちょうどこのブログを書いている最中にTV朝日の番組で「OKストア」の急成長が取り上げられていた。TVというメディア特性からその低価格とオネスト(正直)コンセプトに焦点を当てた取材であったが、このエブリデーロープライスも一朝一夕に出来上がったものではない。詳しくは私が書いたブログを参照していただきたい。(「エブリデーロープライス」/2008/05/04)この時にも触れたがOKストアでは徹底した情報公開がなされている。価格が高い理由、安い理由という価格に着目しているのがOKストアであり、例えばエコロジーに着目し全ての情報を公開しているのがカタログハウス(通販生活)である。両社共に、「情報」に対し、誠実に真摯である点が共通している。いくらでも簡単に嘘をつくことができるのが情報の時代である。であればこそ、「情報は重たい」、と強い意志をもって向き合っている良き事例だ。

もう一つ事例を挙げるとすれば、やはり一昨年春オープンした「ららぽ〜と横浜」のフードコートであろう。通常、デベロッパーは手のかかることはしたがらないものであった。フードコートは1社にまかせ、専門店の組み合わせ編集などしないことがほとんどであった。つまり、顧客が食べ終わった後片付けからクリーンアップまでのオペレーションの在り方を決めていくことは煩雑で難しい。しかし、「ららぽ〜と横浜」では、顧客が求めていることを実行しなければならないと強く考えている。その専門店の一つに老舗の鰻店「宮川」があるが、通常では煙の出る鰻等は排煙設備を必要とし、フードコートには導入しないのが常であったが、そうした設備を用意し、出店要請をしたと聞いている。顧客が求める価値を追求するとは、このように煩雑さと投資を引き受けるということだ。

少し前に、新しいスタンダードが模索されていると私は書いた。価値が価格を決める、次の新しい価値時代を迎えるということである。それはデベロッパーも、流通も、メーカーもである。最早、付加価値などといった幻想に踊る顧客はいないと考えなければならない。もし、これからどんな価値かと問われれば、当面は「本質価値」と答えることにしたいと思う。まだ、良いキーワードを定めることができないというのが本音である。その本質とは、食べ慣れた、使い慣れた、着慣れた、住み慣れた、といったある意味戻っていく価値のようなものである。これからの時代は、一枚一枚「付加」という衣をはがして戻っていくと思う。らっきょでは困るが、はがして最後に残るもの、それが本質価値ということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:49Comments(0)新市場創造

2008年05月25日

精神的コスプレ時代

ヒット商品応援団日記No268(毎週2回更新)  2008.5.25.

奈良県の「平城遷都1300年祭」のキャラクター・せんとくんを始め、街起こしからイベントまで全国至る所にキャラクターが氾濫している。その多くは単なるシンボルマークといった記号の意味合いだけであるが、本来はディズニーのミッキーマウスやゲゲゲの鬼太郎のようにアニメや漫画の作中人物のことを指した言葉であった。つまり、一つの人格をもったものとして使われる言葉である。情報の時代は、この人格を好きなように創る遊びが盛んである。周知のアバダーがそうであるが、ブログやオンラインゲームあるいはセカンドライフなどでハンドルネームと共に使われている。変身願望と言ってしまえばそれで終わりであるが、インターネット上ではいとも簡単に多重人格的ないくつもの「私」を手に入れる、いや虚構世界を生きることができる。(オンラインゲームでのアバターと現実ユーザーとの比較が出ていたのでご覧いただきたい。Gigazine/http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070621_netgame_avatar_player/

私はよく市場は「心理化」しているとこのブログでも書いているが、心理化とは情報によって購買の決定要因に心理的「何か」が深くかかわっているということである。誰も分析していないのでなんとも言えないが、不況期にはこうしたキャラクターが出現し、広く流布するという専門家もいる。1970年代の第一次オイルショック後の不況期にはあのキティちゃんが生まれ、この平成不況期にもキャラクターブームが起こるというものだ。つまり、不況という不安心理を背景にした個人化の進行。つまり、バラバラになった「私」、そう感じている「私」の逃避先=変身先がキャラクターであるという説である。勿論、変身先とは仮想現実、虚構の世界である。そして、既に始まっていると指摘する人もいる。

今、出版業界で唯一好況なのが中高生を対象としたライトノベルである。周知の元祖的存在である「スレイヤーズ!」(神坂一/かみさかはじめ)は、累計販売部数は1200万部とも1500万部とも言われている。内容は一言でいうと、中世ヨーロッパを基調とした仮想の物語で魔族と神々が抗争するファンタジー世界を描いたものだ。大人の私たちにとっては、「なんのことか?」と理解不可能とはいわないが、異質な世界観で創られた物語である。この「スレイヤーズ!」がそうであるかどうかは分からないが、細かく分解された物語の要素はデータベース化されており、この組み立てによってライトノベルが創られていると聞く。このライトノベルは主人公も脇役もキャラクター化されており、物語の組み立てはこのキャラクター次第である。小説も創造ではなく、断片化された要素=情報を構成して物語をつくる時代になったということだ。

断片化された物語情報を身にまとう居場所の一つが携帯によるサイト「学校裏サイト」だ。文科省の発表ではネットいじめが横行し、時としてそれは現実世界にもまたがる。こうした情報の時代では前回も書いたが、一つの通過儀礼として考えなければならない。通過儀礼をはしかのように一過的なものにするには、あのキッザニアのような「体験」が必要となる。ここ一年ほど偽装事件が相次ぐこともあり、商品・メニューの多くが「体験型」となっている。今年も都市の百貨店ではカブトムシやクワガタが売られることと思う。カブトムシやクワガタを虚構とは言わないが、これからは昆虫ウオッチングツアーが売られる時代だ。

現在のオンラインゲームにおけるアバダーのようにわきまえた遊びはかまわないと思う。しかし、情報の時代である以上、分身となるキャラクターは再生産されていく。キャラクターという精神的コスプレをまとう虚構世界はこれからも様々なところで増殖し続ける。そして、その都度<虚構→現実体験>という新たな市場が生まれてくる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:06Comments(0)新市場創造

2008年05月21日

非競争という視座

ヒット商品応援団日記No267(毎週2回更新)  2008.5.21.

書店に並ぶ書籍や雑誌の特集テーマの多くは、「脳力」とか、「知力」といった「力」に関する言葉が並んでいる。あらゆるものが停滞している情況に対し、力をもって突破したいという一種の悲鳴のような感がする。十数年前に「自分探し」というキーワードが流行ったことがあったが、そんな自分など実はないことが分かり、今や「自分づくり」の時代になった。これも個人化が進展する社会なのだと思う。

マーケティングやビジネス書には必ず出てくるのが市場競争下におけるその戦略着眼の理屈である。私もその多くを学習し、経験もしてきた。決して間違った方法ではないが、最近そうした発想や認識とは異なる世界もあると感じている。それは鳥取や沖縄といった地方の人達との話の中で、うまく表現できないがチョット違うなということが多々あったせいかもしれない。東京という市場は極論ではあるが、何でもありの殴り合いをやっているような市場である。勿論、顧客のためになることを追求するのではあるが、競争相手の急所をいかにお金をかけずに殴って倒すかといったことばかり考えていることからだと思う。

「何か違うな」と思ったきっかけは1年ほど前に読んだ「千年、働いてきました」(野村進著/角川書店)の取材先である世界最古の会社金剛組に対する著者の驚きに通じるものであった。この本は「なぜ、日本だけ老舗企業が生き残るのか?」という疑問を解き明かした本である。その中で世界最古1400年続く金剛組を取材する中で、「千三百年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に今なお追いつかない」。また、法隆寺の修復に参加する宮大工は「俺たちの仕事は二百年後、三百年後に、いずれわかる仕事だ」との答えを著者は聞き書きしている。外側からは見えない、解体してみないと分からない仕事とは何か、ということである。

情報の時代の競争は、誰よりも早くが基本だとビジネス教科書に書かれ、実際のビジネス現場もそのように動いている。ヘッジファンドのジョージソロスではないが、「いずれ誰かがやるであろうから、そうであれば私が先にやる」という世界である。それを先行者利益として享受する。それ自体決して間違ってはいないと思うが、どこか違う世界もあると考えてきた。飛鳥の工人は何のために法隆寺を作ったのであろうかという単純な疑問である。そして、千三百年後の私たちが追いつくことが出来ない技術とは何か、ということでもある。

先日、鳥取での会議を終え、古くからの知人に会いに大阪へと向かった。鳥取の応援団のメンバーから、未だ食べていないと思うのでとお菓子のお土産をいただいた。鳥取を代表する和菓子ですと手渡されたのが、明治元年創業の「ふろしきまんじゅう」という商品であった。賞味期限は3日という生菓子なので大阪の知人と共に食べたのだが、田舎まんじゅうとあるが品のある極めて美味しいお菓子であった。鳥取県人、和菓子業界の人にとってはよく知られた商品と思うが、東京の人間にとってはほとんど知られてはいない商品だ。企業理念には「変わらぬこと。変えないこと。」とある。変化の時代にあって、まさに逆行したような在り方である。いや、逆行というより、そうした競争至上主義的世界から超然としたビジネスとしてあるといった方が正解であろう。

冒頭の話ではないが、個人も企業も市場競争に勝ち抜くために新たな「力」を必要としている。従来のビジネス手法を否定する訳ではないが、「非競争」という「力」、外側からは見えない、何百年後かには分かってもらえる、そんな視座が必要ではないかと思う。非競争というと、オリジナリティやオンリーワンといったキーワードを思い浮かべると思うが、何のためにビジネスするのかといった原初的なことだ。変化を追い求め、わずか1年半ほどで数百店舗にまで急成長した和菓子屋は、既にその臨界点を超え、急速に売上を落としている。これは変化市場で生き抜くために通らなければならない壁である。しかし、非競争市場にあっては、こうした壁はない。あるのは「変わらぬ何かであり、変えない何か」である。それを真剣さ、誠実さ、品質、・・・・日本に少し前までごく当たり前であった商人、職人の心構えといってもかまわないと思う。少し前に取り上げたエブリデーロープライスのOKストアにおける「オネスト(正直)」にもつながる世界だ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造

2008年05月18日

個族と家族

ヒット商品応援団日記No266(毎週2回更新)  2008.5.18.

昨年夏に「個族の居場所」というテーマで、「個人化」という視座はあらゆるビジネスに不可欠であると書いた。バブル崩壊以降の中流消滅意識は個人の自立へと向かうこととなる。社会の単位も家族から個人へと変化する。そうした中での、社会現象や新たに生まれる市場について書いたものである。まだ入り口しか書いていなかったので、「中流消滅」という視点から個族市場の変化推移を考えてみたい。

バブル崩壊以降も1997年までは世帯収入は増え続ける。しかし、その裏側ではそれまでの慣習や常識といった多くの神話や価値認識が崩壊していく。大企業、終身雇用、・・・・その一番根底にあった家族神話が崩壊し始めていたのだ。私が「人力経営」という本の中で書いたカリスマ経営の渋谷109エゴイストの主要顧客は、まさにそうした既成概念崩壊、神話崩壊という混沌の中で漂流する若い10代の子供達であった。時代の変わり目に敏感なのはいつの世も若い世代である。既成に飽き足らない若い世代は、山姥、ガングロといった無秩序、無法のような姿に大人には見える。しかし、混沌とした時代を映し出しているのも、また彼女達である。

個族と名前をつけたのは私であるが、1990年代後半渋谷に集まってきたティーンこそこの個族の芽であったと思う。大人にとって一種異様にも感じられる渋谷という街は、彼女達にとっては居心地の良い自由な舞台空間、学校にも家庭にもない「居場所」である。そして、何よりも「大人」になるための学習体験の場であった。私はそうした社会体験の場の象徴として渋谷109を「大人の学校」と呼んだ。それは時に、援助交際や薬物中毒といった、大人の罠にはまってしまうという社会問題も引き起こすのであるが。そうした清濁、善悪混在した一種の通過儀礼の空間としてあった。これはインターネット上の出会い系サイトを含め子供達の多くが通過しなければならない儀礼と同様である。

社会の単位は住生活の変化に表れてくるように、1990年代単身的生活世帯は50%を超えた。
豊かさと引き換えに新たな問題も生まれてくる。周知のような家族の崩壊である。夫婦共稼ぎは当たり前のこととなり、離婚率は上昇、家族団らんという言葉は既に死語となっていた。一方、自己防衛意識は急速に高まり、その延長線上には「私生活防衛的」暮らしとなっていく。それらの極端な在り方の象徴が「ゴミ屋敷」といった「公」の欠如である。勿論、成熟した「個」からはエコロジーを踏まえたマイ箸に見られるようなマイブームも起こってくる。

しかし、こうした問題に敏感に反応したのが「家族の再構築」といった取り戻しである。その第一が「家族の居場所」で、確か三井ホームの戸建住宅は、リビングでもない学習スペースでもない、家族が個々自由に使える、いわばファミリーパブリックスペースを組み込んだスペースが作られている。飲食施設にはファミリー用の個室が作られ、ホテルや旅館も三世代旅行までを含めたプログラム対応をはかっている。勿論、前回取り上げた新富裕層市場を形成する有職女性の「ヒトリッチ」と表現されるような「お一人様歓迎」旅行やデザイナーズマンションの売れ行きも好調である。こうした家族の取り戻しと個族固有のライフスタイルとが混在しているのが「今」であろう。

日本のマスメディア、ジャーナリストは、「家族」に注目は集まるとそれまでの「個族」は全て忘れ去り、一斉にニュースを集中させる。しかし、「個族」固有の消費は厳然としてあり、新たに「個族」へと向かっている独身団塊ジュニアはそれまでの「ヒトリッチ」といわれている消費とは少し異なる。元々「セレクトショップ」市場を創ってきた世代であり、ブランドへの執着はない。また、団塊世代の母娘消費に見られるように仲良し家族である。母親からの影響でエコロジー意識は強く、従来のような「ヒトリッチ」市場とは異なる市場を創っていくと思う。私がそんな独身団塊ジュニア市場にネーミングするならば、「セレクトリッチ」とでも呼ぶ。それからこれから更に大きくなるのがシニア世代の個族である。この市場はいつか本格的に取り上げてみた。いずれにせよ、「個族」市場は世代を含めそれぞれ異なる市場を形成しており、ますます顧客は誰かが重要な時代だ。(続く)  


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2008年05月14日

新富裕層市場

ヒット商品応援団日記No265(毎週2回更新)  2008.5.14.

ここ数回「価格」について触れることが多かったが、その背景となる市場構造の変化について考えてみたい。今から6年ほど前に市場の構造変化を調べたことがあった。簡略化して言うと、バブル崩壊前は「一億総中流時代」と呼ばれたように、マス市場を形成していた。まだまだ物不足の時代にあって、極論ではあるがマス生産、マス販売、マス消費という市場の構造であった。しかし、周知のようにこうした構造はバブルと共に瓦解し、二極化と呼ばれるような構造へと変化してきた。この二極化の最大ポイントは、中流と言われてきた圧倒的な大市場の崩壊で、その多くは「下流」市場へと向かい、その一部は2001年以降の「勝ち組」と言われた市場と共にいわゆる新富裕層へと新たに流入し、今日へと至っている。

流通の変化を見ると、この市場構造の変化を物の見事に映し出している。いわゆる「中流の上」を中心顧客に据えた百貨店はバブル崩壊と共に苦戦し、統合再編を繰り返す。一方、量販専門店やディスカウンター、あるいはデフレの旗手といわれたような専門店業態が1990年代後半から大きく成長してくる。最近では、前々回取り上げた「エブリデーロープライス」を都市部において実現したOKストアのようなスーパー業態である。

ところで女性市場をていねいに見ていくと、この中流市場が崩壊し、二極化しているのがよく分かる。例えば、数年前「ヒトリッチ市場」と呼ばれた有職独身女性市場は明確に存在している。年齢は30歳以上で、住居は都心の3Aエリアという赤坂、青山、麻布に住む、会計士や弁護士といった専門職、あるいは総合職の女性、外資系企業に勤めるといったキャリア女性市場は新富裕層市場を形成している。また、40代のDINKS(子供を持たない夫婦世帯)市場も、その可処分所得の大きさから新富裕層と言えるであろう。こうした女性市場が高級ブランドの主要購買層となり、都市ホテルのエステ顧客やオーナーシェフの料理を楽しむ隠れ家的オーベルジュの中心顧客となっている。ある意味、この新富裕層が都市市場を牽引してきたと言えるであろう。

「中流」市場は無くなったのかというとそうではない。東京において中流市場を形成していると言えば、東急田園都市線の沿線、二子玉川やたまぷらーざ周辺が代表エリアである。いわゆるニコタマ族と呼ばれている層であるが、消費というより様々な投資・利殖が旺盛である。例えば、都心のワンルームマンションへの投資を始めとした不動産投資であったり、外貨預金といった利回りの良いものへの利殖である。この層は新富裕層を目指しており、日常的には質素であるように見える。しかし、食を中心にそれなりにこだわった「質素」である。

新富裕層の代表的市場であるキャリア女性達は収入もさることながら消費は極めて旺盛である。しかし、成果主義の世界を生き抜いており、「何か」に助けを求めてもいる。その「何か」の一つが健康や美容であれば、サプリメントに頼り、それが進行すればサプリメント依存症となる。最近では、強いストレスからと思われるが、抗鬱薬リタリンの服用から薬物中毒になる女性患者が増え、社会問題化し始めている。全国的に産婦人科や小児科の医師不足が叫ばれているが、都市においてはその需要増を背景に心療内科や精神科への鞍替え医師が多いといわれている。

この新富裕層は東京に集中している。ある意味、都市が産み出した市場であり、NYでもロンドンでも同じ構造をもっている。おそらくブランドの再生や新たなブランド創造のオピニオン的役割を果たすと思う。新しい市場もこの新f富裕層からも生まれてくるだろう。いずれにせよ、市場は階層化し始めている。誰を顧客とするのか、ビジネスの第一歩が更に重要な時代となった。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 11:24Comments(0)新市場創造

2008年05月11日

スタイル消費の創造

ヒット商品応援団日記No264(毎週2回更新)  2008.5.11.

前回スタグフレーション下の「やせがまん消費」について蕎麦を例に挙げ、粗食を豊かにしてきた先人の工夫について書いた。その続きであるが、蕎麦は江戸っ子固有のスタイルと言われているが、質素ではあるが美意識に裏打ちされた豊かな消費スタイルである。着眼すべきは美意識に裏打ちされた一つのスタイルにまで創り上げたことである。周知のように屋台によって急激に広まったのが蕎麦であるが、それまではお米の代用食として雑炊や蕎麦掻きにして食していた。屋台という流通にのってブームを引き起こした新メニューが蕎麦切りという麺状にしたものであった。以前このブログにも書いたと思うが、この蕎麦切りは上方の麦きり(うどん)から着眼したもので、上方文化に対抗した江戸の代表スタイル食であった。

「江戸前」という言葉には鮨を思い浮かべる人が多いと思うが、鮨、蕎麦、天麩羅、鰻を「四大江戸前」と呼び、最初に江戸前と呼ばれたのが鰻で「鰻の大蒲焼き」であった。鮨では江戸の前にある東京湾でとれた子魚を寿司ネタにしたことから東京湾を指す言葉の意味だと思っているが多いと思うがそうではない。男前や腕前といったように一つのスタイルを指す言葉だ。江戸前は江戸スタイルのことで、好みや趣味の世界で理屈っぽく言えば江戸文化スタイルである。つまり、お腹が減って必要に迫られて蕎麦を食べにいくのではなく、暇があるからチョットそば屋へ行くかという趣味食ということである。

このように江戸は上方に対抗、つまり負けず嫌いから次々に新しいスタイルを創っていく。ある意味で良きライバル関係にあったからこそ新しい市場が生まれた訳である。その対抗エネルギーは、やせがまん、負けず嫌い、といった気質が市場を支えていたが、現代においてはこのような大きな市場構図にはないように見える。しかし、よくよく考えれば、江戸時代もそのほとんどが地方出身者であり、今日の東京はあらゆるものが集積されてはいるが、元はイタリアからであったり、時に地方からのものである。つまり、都市とは寄せ集め国家のようなものだ。

昨年秋、「ミシュランガイド東京」が発売され話題を集めたが、来年には日本の観光ガイド本を発売すると発表があった。昨年、外国人の日本への観光は800万人を優に超えており、今年には1000万人を超えると予測されている。ミシュランがレストランガイドではなく、観光ガイド本をつくるのはうなずける話だ。発売されればまた話題になると思うが、飲食店と同様に日本人の知らない日本ガイドになると思う。食も観光もその根っこには日本文化があり、多くの外国人を惹き付ける。海外での日本食ブームもそうであるが、例えば供される和食には箸が使われる。外国人にとって食べやすい道具ではないが、箸は和のスタイルであり、日本文化そのものと感じるからである。

私が「今、地方がおもしろい」と考えるのも、こうしたスタイルが地方にはまだ残っているからだ、コラムニストの天野祐吉さんが「気質の方言地図」を作っている(まだ半分のようであるが)。私が好きな沖縄の代表的な方言は「なんくるないさあ〜」である。投げやりな意味ではなく、やせがまんでもなく、少しだけ前向きな肩肘のはらない「なんとかなるさ」という明るい気質である。東京で生まれ育った私にとって、一晩眠ればまた違った明日をむかえられる、そんなくったくのない感がする。だから、未だ手つかずの自然が残る亜熱帯地域として、こころもからだも和むリゾートとして観光客が訪れるのだ。例えば、全てを否定する訳ではないが、万座ビーチホテルの海辺の白砂は他の場所から持ってきて作られた人工ビーチである。好きで何回も訪れる観光客は次第に人工か自然なものか見極められるようになる。スタイルは文化であり、意図を持って作れば一過性のブームに終わる。それが時を重ねた文化というものだ。

さて、このスタイルづくりをどう着眼するかである。勿論、都市生活者に対してであるが、江戸時代の庶民を喜ばした着眼点は「奇」「珍」「怪」と言われている。言葉通りに言えば、奇をてらった珍しいチョット怪しげなものと言えよう。但し、ここ2年ほど前からの様々な情報偽装体験を踏まえており、上滑りな「奇」「珍」「怪」ではない。既に、しっかりとした文化という履歴のあるもの、地物に注目が集まっている。地の水から始まり、酒、塩、醤油、ソース、更には地魚、地野菜・・・・・ただ、まだまだ物レベルでスタイルにまで達してはいない。沖縄にも沖縄スタイルという雑誌や土産物店はあるが、スタイルとは言い難い。逆に言うと、新しい市場創造は始まったばかりということだ。(続く)  


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2008年05月07日

やせがまん美学消費

ヒット商品応援団日記No263(毎週2回更新)  2008.5.7.

以前「経済格差」について東京ほど格差の激しい地域はないと書いたことがあった。その象徴例として足立区と港区などとの比較をいくつかの指標をもって行ったことがあった。その時使ったキーワードが「まだら模様」である。そして、顧客は誰か、誰を顧客とするかを今以上に鮮明にしなければならないとも書いた。前回、OKストアを例に挙げ、顧客が求める新しい基準、スタンダートになるのではないかと書いた。ある意味、食品という日常消費を扱っているスーパー業態であり、一つの基礎消費概念としての指摘であった。勿論、同じ生活者は時には百貨店の食品も購入するであろうし、コンビニ利用もである。つまり、OKストアに使い分けの基礎ベースを見出したということである。

何故こうした指摘をしたかであるが、足立区と港区の比較とは都市と地方との比較でもあり、今年度から周知の『地方財政再建促進特別措置法』や『地方公共団体の財政の健全化に関する法律』、いわゆる「健全化法」の適用が始まり、破綻した夕張市と同様の市町村が40〜50カ所出てくると推測されている。もしくは、既にその予兆としてこの4月から公共サービスの縮小、あるいは値上げが実行へと移された自治体も出てきているようである。
つまり、一般的平均的な景気から、明確な生活実感としての景気へと全国レベルに波及し、まだら模様が明確に浮き上がるということだ。地方自治体に倒産はない。民事再生法や会社更生法といった法的在り方は認められず、つまり貸し出し銀行などの債務放棄などは認められず、長期にわたって返済し続けなければならないということだ。

ところで夕張市はその後どうなったであろうか。結果、多くの暖かい支援はあったものの人口流出に歯止めはかからず、予定された歳入に届かず、再建計画すら頓挫しつつある。仕事という場は既になく、都市へと向かう人達は増え続けるであろう。
ちょうど日経MJ(5/5)に原材料高によるマクドナルドの再値上げの記事が載っていた。いち早く、地域価格を導入したマクドナルドであるが、最低価格地域を5県から12県に増やすとの発表であった。再建団体になってしまうことを想定した価格改定とは思わないが、地方との格差が拡大していくことは間違いない。

分かりやすくするために都市と地方という表現を使ったが、厳密にいうと中心と周辺ということである。今回のガソリン税の再値上げにより郊外のファミレスが苦戦しているという。右肩下がりのファミレス業態にガソリン税という逆風が吹いた訳であるが、コトの本質は「中心化現象」、サービス集積度の高い中心に顧客が動いているということだ。今、アウトレットに注目が集まっているが、その価格サービスの集積度が高く、郊外であっても集客できるということである。一方、中心という言い方をすれば、エリアの中心は駅である。駅商業施設、特にJRの駅中は全体としては好調であるが、その個別内容を子細に見ていくと、行列が出来る店と閑散とした店とに明確に分かれている。情報に踊らされない、学習体験を積んだ成熟した顧客がいるということだ。

さてこうしたまだら模様の景気にあって、どんな新しい消費スタイルが生まれてくるであろうか。誰もが新たな付加価値を探り、回数減となるビジネスをなんとか客単価を上げる工夫をと。あるいは自己防衛の周辺市場である、自給自足的セルフ市場に着眼することも必要であろう。勿論そうした努力は必要であるが、私は新しいライフスタイル市場が生まれてくるような気がしている。シンプルスタイル、素の魅力、過剰さを削ぎ落とした美学。質素であるがそこに豊かさを見出したスタイル。今日のライフスタイルの原型である江戸時代のライフスタイルで、一種の「やせがまん美学」である町人文化、粋(いき)や鯔背(いなせ)といったスタイルである。

そうした江戸町人文化の一つが蕎麦である。もともと蕎麦は稲作に適しない貧しい土地で栽培された代用食であった。この粗食を粋な江戸文化にまで高めたのが「やせがまん美学」である。一昨年ほど前から注目され定着した商品に「卵かけご飯用醤油」がある。蕎麦文化にまで高められるような芽にはならないが、どこか似ていると私は思っている。LOHASでもない、スローライフでもない、うまく表現できないが、「やせがまん」から生まれた新しい消費スタイルが出てくる予感がしてならない。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:04Comments(0)新市場創造

2008年05月04日

エブリデーロープライス

ヒット商品応援団日記No262(毎週2回更新)  2008.5.4.

昨年から価格は超えなければならない一つの壁であると繰り返しこのブログでも書いてきた。そうした延長線上だと思うが、私にとって懐かしいスーパーマーケットをマスメディアもやっとテーマに取り上げるようになった。そのスーパーはOKストア(http://rikunabi2009.yahoo.co.jp/bin/KDBG00100.cgi?KOKYAKU_ID=0026018001&MAGIC=)という店で、首都圏を中心に約50数店舗、売上1700億円ほどの中堅スーパーである。生活者にとっては激安、地域で一番安い店で知られているスーパーでエブリデーロープライスの本家であるウオルマートを見に行かなくてもOKストアを見れば済むと言われている。

私が懐かしいと表現したのも、1970年代外資系広告代理店に在籍していた当時、同じビルにOKストアの本社もあって、新しい取り組みのパートナーとして要請があったからである。その新しい取り組みとは無人店舗スーパー、100%セルフ形式のスーパー業態であった。その着眼発想の一つがローコスト経営であり、セルフスタイルの可能性であった。つまり、ローコストの極限が「無人店舗」ということだ。私は直接の担当ではなかったが、当時テーマそれ自体斬新で社内でも注目されていた。店頭で手に取って見比べることのできない無人店舗での課題は、「いかに鮮度品質を実感させるか」であった。TVCMも作ったのだが、ステーキ肉を焼く絵に、ジューっと焼ける音が重なる広告で、出来としては良かったと思う。しかし、やはり広告だけで解決できるものではなく、無人店舗業態から撤退することとなる。

この無人店舗業態へのチャレンジを見ても分かるように、とにかく時代が求めるものをどこよりも早くトライしている企業である。レジ袋の有料化もそうであるし、この有料化を杉並区が取り入れたと言われている。現場では廃棄される段ボール箱は無料で顧客につかってもらう。とにかく徹底して無駄を省いたビジネスだ。ウイキペディアで労働環境の実態、いかに人件費を抑えるかについて書かれており、その実態について判断はできないが、いずれにせよどれだけ生産性を上げローコスト経営を行っているかが分かる。その典型が自動発注システムであろう。米国ウオルマートを支えているシステムを学習し取り入れていると推測されるが、人が関わっていた作業を極力削減する仕組みが用意されている。

もう一つの特徴が情報公開であろう。以前、「訳あり商品」について書いたことがあるが、OKストアも徹底している。例えば、「日照時間が少ないため少し糖度が低い」といった従来では表現しなかった情報を店頭POPで明確に表示している。安い訳を全て公開しているということだ。この情報公開の裏側には、いわゆるサービスコンセプトとしてオネスト(正直)を掲げている。良いことも、悪いことも正直に伝え、顧客に判断してもらおうということだ。エブリデーロープライスという顧客への約束をシステムとして実行し始めたのは2000年以降のようであるが、それは特売というセール設定を無くすことでもある。このことによって、特売の折り込みチラシといった経費を無くすこととなり、これもローコスト経営へとつながる。オーケーの経営の原点は「売上高総経費率を15%以下に抑える」というローコスト経営にある。業界で話題となるのがこの経費率だ。国内のスーパーでは困難にも思われる高い経営目標を掲げており、無人店舗スーパーの試みもそうした背景からであった。

前回、新たなパラダイムへと変わってきつつあると書いた。流通におけるOKストアの生き方も、新しい基準、新しいスタンダードのビジネスモデルの一つだと思う。収入は増えず景気は低迷し物価高にあって、価格に顧客の注目が集まる。こうしたスタグフレーションという追い風の意味もあるが、ここ数年出店スピードを上げている。このビジネスモデルも明快な顧客主義に立脚したものだ。単なる安さだけでなく、小さな単位でていねいに売る日本的な小売りの良さを併せ持った業態である。ある意味、日本版でありながら世界に通用する独自なエブリデーロープライス業態である。日本の流通は再編がほぼ終わったといわれているが、それは資本関係といった器であって中身ではない。生活者が流通に求める中身の一つがOKストアであり、今後は中身、内実の競争となる。(続く)  


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2008年05月01日

パラダイムシフトの予兆 

ヒット商品応援団日記No261(毎週2回更新)  2008.5.1.

1990年代半ばから後半にかけて、その当時大きな変化が押し寄せてくるなという変な感覚をもったことがあった。それは氷河期を終えて次の段階に進んだインターネットの世界であり、その先行モデルに楽天市場があった。また、バリュー価格というキャッチフレーズのもと、デフレの旗手としてマクドナルドやユニクロに注目が集まった。そして、「顧客満足」というキーワードと共に、次の世紀に向けた顧客研究が盛んに行われた時期である。
当時は日本経済、というより日本人の生活価値観の多くを欧米、特に米国から取り入れたものが中心となっており、マーケティングにおいてもパラダイムシフト、価値観変化が盛んにスタディされた。マーケティングも民俗学からはじまり、心理学、更には脳科学へと進んできた。

この十年間ほどを振り返りどんな変化があったかというと、一つだけ挙げるとするならば「過剰さ」を削ぎ落としてきた十年であったと思う。周知の通り企業であれば統合再編が行われ、ヒト、モノ、カネの見直しが行われた。生活者レベルにおいても、生活の過剰さを削ぎ落としてきた。所有という価値から、厳選して使用することへの価値変化として。個性という名の一過的消費から、本当に好きな厳選されたお気に入りを末永く使う消費へ。また、ここ数年、情報についてもその過剰さの陰にあった偽装を体験し、自らの体験価値による消費へとシフトしてきた。
また、グローバリズムは企業の問題としてだけではなく、原材料高騰による値上げや中国製冷凍餃子事件によって、生活そのものがグローバリズムの仕組みに組み込まれていることを実感した。

さてこうした経験、学習から「何」が生まれてくるのであろうか。ここ1〜2年「時代の踊り場」という表現を私はしてきた。一言でいうと、次へのパラダイムへと移行する踊り場にいるとの認識である。この踊り場に新たな芽がでてきている。その芽とは大量生産大量販売という経済における「既成の基準」から外れたものへの着目である。大きく言えば生産における基準、流通における基準だ。例えば、農業における基準の多くは「農協基準」であり、その基準、規格から外れた商品をどう生かしていくかということだ。先日、TV番組で特集されていたが、小さな規格外みかん、従来であればジュースにするのだが、その美味しい小さなみかんを安く流通にのせる試みであった。見回せば、そうした既成、基準ばかりに埋もれている。以前少し触れたことがあるが、既成、基準との「境界」に新しい芽が生まれる。

全てを小さな単位で見ていく、これは私の持論であるが、そのことによって既成や基準による市場、顧客とは異なる新しい市場、顧客が見えてくるということだ。経済合理性という名の下で、捨てられ、外されてきたものを今一度見直してみようということでもある。一方では、削ぎ落としてきた「過剰」についての見直しもある。統廃合による学校の校舎、借り手のいないビルや工場、店舗、廃屋、無駄づかいによって生まれた各種施設。こうした建物ばかりでなく、人もお金も、過剰といわれるメディアについてもだ。少し前に「答え」のない試験問題について書いたが、大きな課題を一挙に解決するのではなく、一つひとつ、小さな単位で「答え」を出していけば良いのだ。それは新しい経済合理性に基づくパラダイムへとつながっていく。

P.ドラッカーではないが、「既に起こっていた未来」という芽は至る所に出始めている。それが大きな潮流になるのは、技術力と人をつなぐネットワーク力が重なり合った時だ。そして、それは既成や基準にしばられない若い世代によって可能となる。(続く)  


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