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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2021年10月10日

未来塾(44) 下山から見える風景 後半  

ヒット商品応援団日記No798毎週更新) 2021.10.10

今回の未来塾は緊急事態宣言が解除され、1年8ヶ月のコロナ禍を通し、どんな価値観の転換が起きているか、その先にあるウイズコロナ、コロナとどう向き合っていくのかを戦後の時代変化を踏まえ考えてみた。特に、バブル崩壊以降大きな時代潮流である「昭和」、特に昭和30年代に注目し、その価値観変化を学ぶこととした。




「コロナ禍の風景」から学ぶ


コロナ禍によって失ってしまったのは人と人との関係でその変容してしまったことの回復であった。その象徴として「温もり」をキーワードに挙げた。それは仕事の関係のみならず、日々の買い物や飲食など社会生活全般に及ぶ変容であった。そして、、こうした人間関係の変容は教育の場における教師と生徒の場合も同様で、「距離」を取ることがいわば強制的された1年8ヶ月であった。
昭和30年代に注目が集まったのもこの「距離」のない、手を伸ばせば触ることのできた時代であったからである。ソーシャルディスタンス、社会的距離を取ることを半ば強制され、会いたくても会えない時間が長く続いた。その象徴が小学校における給食の「黙食」であろう。お喋りしながらの給食は生徒にとって一番楽しい時間であった。アクリル板越しの会話、大人の場合でも同様で仕事を終えての同僚との一杯も無い関係が続いた。休日ともなれば、ゴルフやジョギングなど「密」を避けたオープンエアーなスポーツを選ぶ。移動も自家用車を利用したり、公共交通の場合でも混雑を避けての時間帯に移動する。
そうした中ワクチン接種も進み、経口治療薬の開発も間近のようだ。コロナ禍の出口、ウイズコロナという日常が戻ることとなるが、1年8ヶ月前の「日常」ではない。見えない変化ではあるが、仮説を含め考えてみたい。

新しい「生き方」が生まれた

コロナ禍の1年8ヶ月は否応なくそれまでの「考え」を今一度内省する時間でもあった。人との関係を取るとは自身の心の内へ内へとそれまでの「考え」を問い直し事へと向かう。それは世代を含め育った環境、働く状況によって、100人いれば100通りの答えとなる。
そうした100通りの中に特筆すべき新しく生まれた「人生」がある。その一つはテレワークによってオフィスに出社しなくても済むことから住まいを郊外に移す「動き」である。この動きは当初は都心から少し離れた郊外マンションなどへの移転であったが、現在は東京の三多摩のように過疎化が進む地域への移住である。青梅市のように移住への支援もあり、都心の高い家賃より少々不便でも自然を満喫できるところへの移住である。東日本大震災における原発事故の時は、地方への「避難」であったが、今回のコロナ禍ではネット環境が整備されていれば「田舎暮らし」も楽しめる生き方である。但し、都心にも出かけることができる距離であることが条件である。ちなみに青梅駅から東京駅までの所要時間はJRの快速で1時間半ほどの近さである。
もう一つの人生が『FIRE』と呼ばれるグループである。FIREというのは文字通りFinancial Independence『経済的自立』とRetire Early『早期退職』の造語である。株高を背景に『FIRE』は裾野を広げており、企業・仕事に縛られることなく、自由なライフスタイルを楽しむ、そんな生き方である。若い世代の価値観について貯蓄好きな合理主義者であるとブログにも書いてきたが、コロナ禍によって生まれた進化系で、その代表的な世代がミレニアム世代である。ミレニアル世代は、1980年から1995年の間に生まれた世代と定義されている。現在25歳から40歳を迎える世代で、以前日経新聞が「under30」と呼び、草食世代と揶揄された世代のことである。ちなみに消費において注目されているZET世代はミレニアム世代の下の世代である。

こうした2つの新しい「動き」はいわば登山途中の風景である。昭和が「貧しくても夢があった」時代との比較で言えば、「豊かで自由がある」時代となる。ある意味、個人化社会が進化した一つの風景であろう。こうした傾向は既に社会に広がっている。例えば、上司からの飲み会は断るが仲間とは行くようなことだが、それは会社組織だけではない。例えば、働き盛りの世代、それも既婚男性が仕事を終え自宅にストレートに戻らずに一種の「自由時間」を楽しんでいる人物を「フラリーマン」と呼んでいる。これはNHKが少し前にこのフラリーマンの姿を「おはよう日本」で放送したことから流行った言葉である。
都市においては夫婦共稼ぎは当たり前となり、夕食までの時間を好きな時間として使う、フラリーマンが増えているという。書店や、家電量販店、ゲームセンター、あるいはバッティングセンター…。「自分の時間が欲しい」「仕事のストレスを解消したい」それぞれの思いを抱えながら、夜の街をふらふらと漂う男性たちのことを指してのことである。
実はこうした傾向はすでに数年前から起こっていて、深夜高速道路のSAで停めた車内で一人ギターを弾いたり、一人BARでジャズを聴いたり、勿論前述のサラリーマンの聖地で仲間と飲酒することもあるのだが、単なる時間つぶしでは全くない。逆に、「個人」に一度戻ってみたいとした「時間」である。

求められているのはこの時代の「人生観」

こうした社会現象は個人化社会から生まれたものだが、求められているのは個々人の「生き方」「働き方」である。
企業運営においてはワークライフバランスをとりながら、リーダーへの求心力が求められる、一方テレワークのようにコロナ禍は逆に「拡散」を進めていくこととなった。それまでは企業の持つ目標を共有するために、職場単位のパーティを行ったり、社内運動会といったイベントを行い「気持ち」を一つにすると、つまり求心力を目指す企業運営が行われてきた。創業者がリーダーでいるソフトバンクやユニクロ、あるいは楽天のような企業はリーダー自身が「求心力」となるが、コロナ禍では「集まること」「心を一つにすること」が不可能となってしまった。冒頭でコロナ禍で失ったのは「温もり」であったと書いたが、企業も社員との温もりを失ったということである。
ワクチン接種を2回済ませても、時間の経過と共に十分な抗体が維持できない場合もあり、3回目の接種が検討されている。つまり、以前のようなビジネススタイルには戻らないということだ。新しい「働き方」、生き方が個々人にも企業にも求められているということである。しかも、AIはどんどん進み、単なる「人手」を必要としない時代がすぐそこまで来ている。

江戸時代成熟した元禄バブルを経て、「浮世」という人生観を手に入れた江戸の人達と同じように、平成から令和の時代においても江戸の浮世のような新しい人生観が求められることとなる。
アニメ「となりのトトロ」における「子供にしか会うことができない不思議な生き物」が何であるのかという「問い」である。またその「子供」は誰なのかという問いでもあるが、『FIRE』と呼ばれるグループなのか、ライフスタイルをより合瓜的に送ろうとする移住する人たちなのか、おそらくもっと自由に合理的に生きようとする人もまた出てくるであろう。
そうした中、サントリーの新浪剛史社長が、「45歳定年制」の導入について提言したことが話題となっている。「定年」という言葉は年功序列制から生まれたものであまり良い表現ではないが、その本質は「このままの働き方では企業も個人も共に成長が望めない」ということに他ならない。

実は江戸時代における「浮世」には「自由な生き方」という人生観が中心となっている。浮世と言うと何かふわふわとしたいい加減な生き方を思い浮かべがちであるが、実は真逆な人生観である。江戸の人たちは「人間一生 物見遊山」と考えていた。生まれてきたのは、あちらこちら見聞を広め、友人を作り死んでいけば良い」とした人生観で、そこには「自由」を楽しむ人生と言うことである。但し、そこにはそうした生き方を貫く覚悟があった。例えば、江戸時代の最大の楽しみはお伊勢参りをはじめとした旅行であった。商家の旦那衆のようにお金を使った豪勢な旅行もあれば、ヒッチハイクのような旅、旅籠で働きながらお金を貯めて旅を続けると言った自由な旅もあった。こうした旅に不可欠なのが「通行手形」で日本全国旅することができた時代である。この通行手形には「私が死んだらありあわせの所に埋めてください、亡骸を送り戻す必要はありません。」と書かれているものが多かった。生きるも死ぬも自分の判断、他人のせいにはしない。「物見遊山という自由な生き方」とはこうした明快な人生観である。
いずれにせよ、令和の時代の「浮世」が求められているということだ。

「温もり」食堂という「生活文化」

最も日常を感じさせてくれるのは「食」である。家計調査の支出を見ても分かるように、長引く巣ごもり生活の「食」は仕事を持つ場合は「デリバリー」を利用したり、子供のいる家庭では3度の食事を作ることに苦労した。当然、冷凍食品やレトルト食品などの利用が加速する。しかも、変化をつけるためにご当地のレトルト食品が人気で都心にあるアンテナショップに多くの人が訪れている。こうした現象は「外食」への規制によるものであるが、それは極めて自然な心理的反応である。
そうした中、巣ごもり生活の一番のヒット商品はホットプレートで、その簡便さと共に「手作り」の楽しさに共感したからである。また、キャンピング人気で使われるキッチン用品も人気だ。100円ショップのダイソーもアウトドア商品が充実されており、手軽に室内のテーブル上で料理できるグッズがよく売れている。特に、ソロキャンプ用のキンチン用品の活用など単身者には好評のようだ。
求められているのが「手作り」の楽しさであり、外食の基本中の基本、外食の存在理由である「温もり料理」であることは間違いない。
一方、コロナ禍によって時短営業や酒類の提供ができないことから「外食」、特にチェーンビジネスは大きな痛手を被っている。回転寿司のスシローのように本業である回転寿司業態の他に駅などでの小型持ち帰り店舗による売り上げが貢献し業績は好調である。こうした好調な外食はマクドナルトを筆頭にごく一部であって、多くのチェーンビジネスは非採算店舗の閉鎖によってなんとか生き延びているのが現状である。




ところで「温もり」を感じさせてくれる業態と言えば、なんと言っても家族で切り盛りしているような「食堂」であろう。家庭の味、おふくろの味、なぜか懐かしさを感じてしまうのが食堂である。チェーンストアに押され、特に後継者がいないことからどんどん少なくなっているのが現状である。
そうした中、青森には「100年食堂」と呼ばれる大衆食堂が数多くある。地域の人たちが100年かけて育てた食堂である。店の人たちだけでなく、顧客もまた受け継いで行くもので、そうした感じる「何か」を生活文化と呼ぶ。
実はここ数年沖縄に行っていないが、1990年代後半からは沖縄の街の横丁路地裏歩きを目的に年に数回は訪れていた。そのきっかけになったのは観光客が必ず訪れる牧志公設市場から先、市場本通り奥を歩いた時、2人のお年寄り、おばあおじいの会話を聞いた時であった。まるで会話内容が分からない、単なる方言の分かりにくさでは全く無い外国に来ている感がした。国際通りという観光客向けのお土産通りから一歩路地に入るとそこには「沖縄」があった。その不思議な生活に魅せられた。その不思議さはライブハウスにおける琉球民謡とOldaysというある意味異質な音楽の魅力もあって那覇を中心に北は嘉手納、南は糸満。観光の島であることから一通りの観光地にも行ってみた。その観光地も沖縄らしさがあって北は巨大なジンベエサメのいる美ら海水族館、南は琉球の創世神話に登場する「斎場御嶽(せーふぁうたき)」のように奇妙な観光地にも興味があった。
しかし、中でも一番こころ動かされたのは沖縄の「食」であった。その食は至る所にある「食堂」で、沖縄の人たちの胃袋を満たしていた。都市にある天ぷらやうなぎ、あるいはとんかつといった専門店はほとんどなく、食堂には沖縄そばをはじめゴーヤなどのチャンプルー類といった炒め物があって、どの店にも必ず「ポークたまご」というメニューがあった。その多くは焼いたSPAMと目玉焼きといった単純なものである。中でも「ちゃんぽん」というメニューがあって、勿論長崎ちゃんぽんではなく、SPAMの入った野菜炒めを沖縄そばのスープで蒸し煮したものに卵をとじた物をライスに載せたものである。一時期このちゃんぽんを食べ歩いたが、ある時ふと思ったのは食堂は沖縄のファストフードなのだと。行列など全くしない沖縄人の気質に沿った早い、うまい、安い、しかも米軍文化をも取り入れたまさにゴチャ混ぜ文化、チャンプルー文化の象徴であると変な納得をしたことがあった。

そして、その生活文化の中心には必ず「あるもの」がある。それは使命感であり、それまで精進してきたこだわりで、もう少しビジネス的に言うならば、ポリシーとコンセプトということになる。使命感やこだわりは必ず「表」に出てくるものである。いや、表に出てこないものには使命感もこだわりもないということだ。「外見」は一番外側の「中身」であり、それは一つの「スタイル」となって、私たちに迫ってくる筈である。
「文化」は極めて感覚的な言葉である。ある人にとっては感じ取れるが、別の人にとっては異なる。そんな「感覚」が長く続いていくが、継承されていくには様式化されていくことが必要となる。
そんな様式化された「食」の一つが幕の内弁当であろう。江戸時代の芝居文化から生まれたと言われているが、コロナ禍の初期東京歌舞伎座前の弁当店「木挽町辨松」が152年の歴史を閉じ廃業したことが話題となった。これも芝居観劇には欠かせない、芝居好きが育てた一つの「様式」「スタイル」として続いたものである。
コロナ禍の1年8ヶ月は間違いなくこの「文化」を思い起こさせるものと考える。それは温もりを感じさせてくれるメニューであり、スタイルであり、それまでの「日常」を想起させてくれるものだ。

「旬」への気づき

そして、文化と共に気付かされるのが久方忘れていた季節・旬であろう。日常の取り戻しの第一歩は季節であり、旬である。人と人との距離だけでなく、コロナウイルスによって季節との距離もまた大きく遠ざかってしまった。
本来二十四節気は中国の暦であるが、日本ではそうした旧暦は既に暦としてはないが、ある意味季節を感じさせてくれる「季語」のような役割を果たしてくれている。そして、季節の気候に即して、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。このように季節と生活とが一体となった生活歳時が行われてきた。こうした歳時が残っているのは京都が代表的な街であるが、地方にもこうした歳時は前述の季節の地産地消「津軽百年食堂」にも当てはまる。

これからの消費行動を考えていくと、この季節・旬を求めたものとなるが、まずは「過去」の消費を辿ることから始まるであろう。思い出消費としての旬である。周知のように季節の境目がなくなり、「旬」が」いつであったか思い出す時代となった。更に、物流を始め冷凍あるいは冷蔵技術の発達によって、1年中旬を体感できるようになった。ある意味「旬」は思い出の中にしか存在しなくなっている。その思い出を辿ることができるのは「老舗」である。つまり、「文化食」ということになる。

思い出を辿る旅

緊急事態宣言解除によってこれ方したことは何かと多くの調査が行われているが、この1年8ヶ月失ってしまった旅行と人に会いにいくと6割状が人が答えている。ワクチン接種も2回済ませた人も60%になり、Gotoトラベルなど支援をしなくても若い世代もシニア世代も旅行の目的や内容は異なるものの「旅」へと向かう。江戸時代の旅は通行手形を必要としたが、コロナ禍においてはワクチン接種書と陰性証明書となる。
この1年8ヶ月会いたくても会えなかった両親や父母、あるいは仲間との出会いの旅、故郷を訪ねる旅が始まる。勿論、「温もり」を求めての旅であるが、実は1年8ヶ月という「過去」を辿る旅である。恐らく大きくは「思い出」を辿る旅がこれから始まる。
これから始まる旅は100人いれば100の旅がある。登山・下山という視座で旅行を見ていくと、若い世代にとっての思い出旅行は新しい、面白い、珍しい旅行、そんな登山の旅行となる。シニア世代の場合はどうかと言えば下山の旅行、私の言葉で言えば「人生旅行」となる。

若い世代、その象徴としてミレニアム世代をあげたが、感染症の専門家あるいは行政もマスメディア特にTVメディアは間違った理解をしてきた。1年以上前から指摘をしてきたので繰り返し書くことはしないが、今回の急激な感染者の減少にも大きく関わっていると考えている。多くの感染症専門家もこの減少理由をまともに答えることができないでいる。9月28日のブログで次のようにその減少理由を書いた。

『今回の第五波においては「8月上旬感染者数が5000人を超え、入院できない状態、自宅療養者が急増、入院すらできない状態」というシグナルによって強く「行動の自制」が働いた結果であると。もう一つの理由があるとすれば、高齢者へのワクチン接種効果により感染者が減少しているという事実であろう。つまり、生活者・個人はこれまで1年8ヶ月の学習から明確に行動を抑制したり、緩めたりしているということだ。つまり「シグナル」に反応してハンマー&ダンスを自身で行った結果であるということである。』

その生活者・個人の中心にはこの若い世代、ミレニアム世代も含まれている。リスクある行動を強く「自制」に向かわせた証拠としてお盆以降渋谷や新宿歌舞伎町の「路上飲み」は無くなっていく。その後東京都は予約無しでもワクチン摂取ができるとし先着順という考えられない計画を実施する。結果、深夜から並ぶ若者が出る始末。翌日は抽選方式に変更するのだが、隣の駅の原宿にまで行列が続く。・・・・・こうした若い世代の行動に対し、誰一人まともなコメントをする人物・メディアはいない。
さて本題に戻るが、「新しい、面白い、珍しい旅行」に向かうと書いたが、私の言葉で表現するならば、「都市観光」旅行となる。宣言が解除され「東京」いう街は動き始める。そこには「変化」が次々と起こるであろう、その変化を求めての旅である。友人・仲間を連れ立って街へと出かけるのだ。その中には昭和レトロな喫茶店でクリームソーダを飲むこともあるだろう。おしゃれ欲求も動き始め、やっとファッション関連商品の消費も活況を見せるであろう。オンライン授業から以前のような対面授業も始まり、同時にアルバイトにも精を出すであろう。ミレニアム世代は草食世代と揶揄された世代である。情報にも精通し、注意深く社会を見るであろう。つまりリスクある行動はこれからもとらないということだ。これが登山途中の若い世代のハンマー&ダンスであり、「日常」の取り戻しである。




さてシニア世代の旅を「人生旅行」と呼んだ。今一度下山途中の尾根からこれまでの登山を振り返る、そんな旅行である。シニア世代がよく聞いた歌手井上陽水に「人生が二度あれば」という曲がある。亡き父を想い「次なる人生を楽しんでもらいたかった」とする曲である。二度目の人生を送ることはできないが、記憶を辿り追来県する旅もある。ある意味、人生を振り返り追想するする旅である。やり残したことはないか、少しでもこれからできることはないか、と考える修行の旅と言えなくはない。
ところで周知のように厳しい修行を行うことで功徳を得るとされる修験道によって開かれている四国遍路。空海の修行の足跡を巡る巡礼の旅には10万人とも20万人とも言われ、そのうち歩き遍路が約5~6千人、マイカーが約3万人から4万人、残りの11万人ほどが巡拝バスによると推測されている。若い時代と比べ体力は落ち自由奔放に動くことはできないが、少なくとも思い出旅行はできる。65歳以上の高齢者のワクチン摂取率が報告されているが、9月末現在2回目の接種済みはどの地域も90%前後で、東京都の場合は86.82%である。「自制」を解き、慎重に旅へと向かう。
この世代の特徴は小学校の時に体験した給食世代と言われるように、「空腹」を実感してきたことから「食」への執着は大きい。そうしたことから「食」の思い出を辿ることとなる。まずは近くにある馴染みの「食堂」に足が向かうであろう。

夢中になれた時代

「昭和」という時代を一言で語るとすれば、それは夢中になれた時代であったと言えよう。その夢中さとは生きることに必死であった。「何」も持たない荒廃した日本もまた生きるに必死であった。なかでもエネルギー源を持たない日本にとって石油メジャーが支配する産油国とのパイプを作ることはまさに必死であった。昭和28年出光は石油を国有化し英国と抗争中のイランへ日章丸を極秘裏に差し向けガソリン、軽油約2万2千キロℓを輸入する。後に日章丸事件と呼ばれるように画期的なことであった。
今回取り上げたホンダは創業者本田宗一郎はまだ創業8年バイクの販売で急成長している時のインタビューで次のように答えていた。
「乏しい金を有効に活かすためには、まず何より、時を稼ぐこと」「うちのセールスマンは、給料を出さないお客さんなんです。このセールスマンを育てるには、品物を育てなければならぬということです」「エンジン屋はエンジンばかり、オートバイ屋だからおまえはオートバイしかできないというような考え方が、そもそも間違っているんだ」と。(「東洋経済新報」1954年11月13日号より)
まさに「物づくり日本」の原点・ポリシーを語っている。その後のホンダの成長は周知の通りである。前述のように国産ジェット機の開発販売という「夢」は今もなお継承されているということだ。成長と共に、人も増え、組織も複雑化する。更に技術革新という専門化が進み、しかも創造性が全てに問われる時代となった。そんな転換期にあって、ホンダには「となりのトトロ」における「子供にしか会うことができない不思議な生き物トトロ」が住んでいるということだ。

つまり、「トトロ」は今もなお生きているということである。少し飛躍してしまうが、コロナ禍によって苦しんでいる多くの企業、いや生活者・個人にもトトロはいるということである。作詞家阿久悠は「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と語り歌づくりを断念したが、「昭和」に住むトトロは世代を超えて、企業に、街に、生活者のこころの中に脈々と住み続けている。今回のコロナ危機はそうしたトトロの存在を広く表舞台へと浮かび上がらせてくれた。








  


Posted by ヒット商品応援団 at 10:47Comments(0)新市場創造

2021年10月08日

未来塾(44) 下山から見える風景 前半  

ヒット商品応援団日記No798毎週更新) 2021.10.8

今回の未来塾は緊急事態宣言が解除され、1年8ヶ月のコロナ禍を通し、どんな価値観の転換が起きているか。その先にあるウイズコロナ、コロナとどう向き合っていくのかを戦後の時代変化を踏まえ考えてみた。特に、バブリ崩壊以降大きな時代潮流である「昭和」、特に昭和30年代に注目し、その価値観変化を学ぶこととした。



  コロナ禍を超える(1)

「下山から見える風景」


価値観の転換が迫られる時代の
コロナ危機。
注目される「昭和30年代」の意味。


失われたものを求めて

1年8ヶ月前、「未知」のウイルス、新型コロナウイルスという感染症に向き合ったが、それは「未知」であるが故、疑問への答えは留保してきた。留保と言うより、疑問を心の中に押し殺していったと言うのが本音であろう。
そして、コロナ禍を経験して、多くの経験の中、問題・課題があらわになった。生活実感から見ていくと、給付金支給の混乱と遅れに見られたように、いかにIT化、デジタル化・システム化があらゆるところで遅れていたか。国民皆保険という誇るべき制度を持ち病床数も世界で有数の医療を持っていると言われてきた日本であるが、残念ながら感染症には対応できなかったこと。こうしたことは個々の専門家にその評価を任せることとし、私の専門分野はやはり「消費」を中心とした生活者のライフスタイル変化にある。
感染症によって失った生活実感の第一は、人と会うことができなくなったことである。その象徴がソーシャルデイスタンス、人との距離を保つことであり、不要不急といった行動の制限となった。テレワーク、リモートによる会議といったビジネス変容から始まり、「多人数による会食」の制限、・・・・・・・つまり、人間が本来持っていた人と人との「つながり」、単なる通信としての繋がりではなく、人が持つ「温もり」の交感を失ってしまったことであろう。しかも、強制としてのそれだけではなく、「自制」によるものであり、自らの精神世界に大きな影響を及ぼした。
その精神世界であるが、2018年のベストセラーに「漫画 君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)があった。80年前の児童小説の漫画化である。10年ほど前からエンディングテーマである「終活」が静かなブームになり、最近ではTV番組「ポツンと一軒家」のような人生コンセプトに注目が集まる時代となっている。不確かな時代、不安の時代にあっては、世代に関係なく「どう生きたら良いのか」という人生の時代になったということである。背景にあるのは個人化社会が進めば進むほど、「生き方」が求められるということだ。

コロナ禍が始まって1年半、ワクチン接種も50%を超えるまで進んできた。一方、デルタ株という新たな敵によって7月下旬以降感染が急激に拡大し8月13日には5300名を超える。しかし、お盆休み以降「人流」は増加しているのに感染者は急激に減少する。人流の増加が感染拡大を促すと言っていた感染症の専門家は誰一人真逆の結果である減少理由を説明することができないでいる。私に言わせれば、ワクチン効果もあるが、最大の理由は個々人の「自制」によるもので、その自制を促したのは感染者数と共に「膨大な自宅療養者数」、そのシグナルによるものである。「セルフダウン」という自己管理を再び始めたということだ。そこでこれからはタイトルにある「下山から見える風景」として、まだまだ続くある意味でポストコロナ・ウイズコロナのライフスタイル変化を見据えた分析の第一歩を踏み出すこととした。

「下山」という視座

タイトルにある「下山」とは作家五木寛之の「下山の思想」からのものである。「下山」とは戦後日本の時代変化を表現したもので、簡略化して言えば、荒廃した日本から周知のように成長を果たし、今日に至っている時代の変化を「登山」に喩えて今はどんな時代にいるのかを俯瞰して見せた著作である。五木寛之はその著書の冒頭で「いま 未曾有の時代が始まろうとしている」と書き、いや既に始まっているとも書いている。私の言葉で表現するとすれば、「いま またパラダイムチェンジ(価値観の転換)が始まろうとしている」と言うことになる。実はこの「パラダイムチェンジ」と言うキーワードが社会へと広く浸透したのは1990年代初頭のバブル崩壊後であった。今回のコロナ禍はバブル崩壊に匹敵するようなものではないと思うが、少なくとも価値観の転換を促したことは事実であろう。
今回のテーマは「下山」から見える生活者の風景、戦後の成長結果を「成熟」として見ていくならば、ある意味停滞、いや立ち止まったままの社会経済にあって、「次」への着眼を見出せるのではないかと言う仮説のもとでのテーマ設定である。
コロナ禍によって疲弊したのは日本の社会経済ばかりでなく、一人ひとりのこころが壊れてしまう寸前の状態にいる。壊れてしまった飲食事業、観光産業、・・・・・・・・そうした社会経済の前に、まずは一人ひとり生活者個人の「こころ」を立て直さなければならない。つまり、医療をはじめ多くの「危機」が指摘されてきたが、実はコロナとの戦い方を改めて問い直すことが問われている。どのように危機に立ち向かうかを下山という視座で乗り越えるという試みである。下山とは既に登山を終え山を降り日常に向かう途中のことである。登山途中にも多くの危機に出くわし乗り越えてきた。下山とはその危機に立ち向かう知恵や経験に学ぼうということである。

「過去のなかに未来を見る



”過去に向かう「遠いまなざし」という。人間だけに見られる表情であろう。”と、三木成夫はその著書「胎児の世界」(中公新書)の「まえがき」に書いている。記憶とは回想とは無縁の場で、「生命」の深層の出来事で、遠い過去が、突如、一つのきっかけでよみがえってくると。三木成夫は人類の生命記憶、胎児の世界を書いたものであるが、数十億年という生命誕生の過去を遡ることはできないが、人は時に立ち止まり、過去へと想いは向かうものである。
ところで2005年度の日本アカデミー賞を受賞した映画に「ALWAYS三丁目の夕日」があった。西岸良平さんのコミックを原作にした昭和30年代の東京を舞台にした映画である。ここに描かれている生活風景は単なるノスタルジックな想いを想起させるだけではない。そこには物質的には貧しくても豊かな生活、母性・父性が描かれ忘れてしまった優しさがあり、そうした心象風景で泣かせる映画である。おそらく潜在的には既にあったものと思うが、昭和回帰という回想としての社会現象が一斉に表へと出てきたその先駆けの一つであった。
そして、もう一つが冒頭の画像、宮崎駿監督のジブリ作品「となりのトトロ」であろう。ストーリーは「ALWAYS三丁目の夕日」とは異なるが、同じ昭和30年代前半の日本を舞台にしたファンタジーアニメである。田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ・メイ姉妹と、子どもの時にしか会えないと言われる不思議な生き物・トトロとの交流を描いた作品である。ジブリ作品の中では初期のアニメ映画であるが、大ヒット作となる「千と千尋の神隠し」(観客動員数2350万人)や「もののけ姫」(1420万人)などと比較すると、わずか80万人であった。しかし、同じ昭和30年代と言う「時代」をテーマとし、そこに生きる人間を描いた点は共通している。「となりのトトロ」における子供にしか会うことができない不思議な生き物トトロとは「大人」が失ってしまった「何か」のことであり、宮崎駿監督の言葉に変えれば工業化、都市化、世界化・・・・・・・経済成長という豊かさと引き換えに失ってしまった「何か」のことである。つまり、今なお大きな潮流となっている昭和レトロ、その中心である昭和30年代の「何か」を描こうとしたかである。
それは、「となりのトトロ」をはじめとした初期作品には以降のジブリ作品の「原型」がある。多くの映画制作がそうであるように、時代の変化と共に観客が求める「多様なテーマ」を取り入れていくこととなる。それは危機の時に常に言われる「創業の精神に立ち返る」ではないが、企業の場合も同様実は立ち返るべき「何か」が語られているからだ。

昭和30年代という時代

昭和という元号の時代は戦前からであるが、昭和レトロのように広く使われるようになったのは戦後であり、平成の時代との比較において使われ、特にバブル崩壊の意味を問う場合が多かった。バブル崩壊以降は失われた30年とも言われるように戦後昭和の高度経済成長期と比べ平成は低成長期・沈滞の時代と言われる。そんな表現をされる戦後昭和の活力、物質的には貧しくても多くの人が生き生きとした時代の象徴として「昭和30年代」があった。つまり、敗戦、荒廃した社会経済、勿論そうした混乱の中生活する人々の「こころ」はどうであったか。まさに日本の登山が始まった時期であった。
1965年11月からのいざなぎ景気と比較される2002年からの平成景気との違いは数字上だけでなく、例えば昭和のいざなぎ景気時代は「Always三丁目の夕日」のような集団就職の時代と就職氷河期を終えた売り手市場の平成就職時代との比較。いや、そもそも比較の前提であるが、昭和の団塊世代は大学卒は全体の15%で中高卒が85%であったのに対し、平成・令和の今はほとんど短大を含め大学全入時代である。年々給料が増えていった1億総中流時代の団塊世代に対し、安定を求める平成・令和の若者の幸福感とは決定的に異なる。昭和30年代とは貧しさを脱却するためのスタートの時期であり、それは以降の競争社会の幕開きの時期でもあった。後に「格差」という言葉が生まれてくるが、昭和30年代には格差も何もない、多くの人が等しくスタートラインに立った競争であった。それは人も企業も同様で、自動車のホンダもソニーも皆町工場であった。「Always三丁目の夕日」の舞台も東京下町の町工場、自転車工場に集団就職する「金の卵」と受け入れる暖かい家族の物語であるが、実は自動車工場への就職であるとばかり思って上京したのだが、自転車工場であったという互いの勘違いから物語は始まる映画である。



とこで町工場かスタートしたホンダは創業者の夢 であったビジネスジェット機まで開発販売すまでに なった。その世界企業の土台となったのがスーパー カブというまったく新しい使い勝手とスタイリングのバ イクであった。このスーパーカブの開発も昭和30年 代、1957年であった。 今日の名だた企業の多くはこの時代に生また。 その誕生の本質はベンチャーであ、今でいうとこ のワークライフバランスとは真逆の生き方であった。 町工場か始まったホンダは、社長も社員もなく昼夜 なく、油まみで働いた時代であった。創業者本田宗 一郎は社員を家族と思い、社員もまた宗一郎を「オヤジ」と呼んだ、日本全国小さな家族が至所にあっ た。そはまさに「Always三丁目の夕日」が描いた世界であ。実の家族と共に、もう一つの「家族」があっ たということだ。そして、この時代こそ「登山」の時代であ、企業も生活者も皆ベンチャーの一員であった。 後に成長と共に、「家族経営」かの脱却と揶揄さたが、今日のベンチャー企業同様あ面では労働分 配率は大きく、社長も社員も報酬面でもそほど大きくはなかった。


昭和を駆け抜けた 「時代おく」

とこであのヒットメーカーであ作詞家阿久悠は亡くな前のインタビューに答えて、昭和と平成の時代 の違いについて次のうに語ってい。 「昭和という時代は私を超えた何かがあった時代です。平成は私そのものの時代です」と。「私を超えた何 か」を志しと言っても間違いではないと思うが、時代が求めた大いな何か、と考えことができ。。一 方、「私そのもの」とは個人価値、私がそう思うことを第一義の価値とす時代のことであう。阿久悠が作 詞した中に「時代おく」という曲があ。1986年に河島英五が歌った曲であ。 「・・・はしゃがぬうに、似合わぬことは無理をせず、人の心を見つめ続け時代おくの男になたい」と いうフレーズは、50代以上の人だと、あの歌かと思い起こすことだう。昭和という時代を走ってきて、今立 ち止まって振返、何か大切なことを無くしてしまったのではないかと、自問し探しに出うな内容の曲 であ。 昭和男の素の世界、寡黙でシャイな男の姿であが、ごく普通の人間模様を描いた曲であ。晩年、阿久 悠は「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語、「心が 無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げことはできない」と歌づくを断 念す。歌が痩せていくとは、心が痩せていくということであ。 また、昭和の匂いのす俳優と言えば、やは高倉健とな。「網走番外地」などの任侠映画か「幸福の 黄色いハンカチ」を転換点に「鉄道員」や遺作となった「あなたへ」を通底すものがあとすば、そは「時 代との向き合い方が不器用で寡黙な男」とな。全てが過剰な時代であが故に、この寡黙さのなかにざ わめく言葉、無くしかけていものに気づかさ。そを昭和という時代おくを通し、日本人とか男と いったアイデンティティを、いや「生き様」といった生きき人生を想起させてくた俳優の一人であ。まさ に「時代おくの一人」であった。

記憶の再生産 もう一つの昭和30年代

記憶を呼び起こしてくものは東京という都市においても至所で見ことができ。今なお再開発の途 上にあ都市であが、戦後の商店街の歴史を見ていくとわかが、その誕生は上野アメ横のうに闇市 という市場かのスタートがほとんどであ。サラリーマンの街新橋にも闇市はあ、駅前の再開発にって 収容先となったのが駅前ビルであ。吉祥寺のうに駅北口の一角、ハモニカ横丁などはその昭和の世 界を逆に集積すことにって若者の観光地にな、また新宿西口の思い出横丁も戦後の市場跡の名残
であ。現在はコロナ禍にインバウンド需要がないため外国人観光客はほとんどいないが、そまでは まさにインバウンド観光地の一つであった。


実は記憶の中にしかない上野駅を見ていくと、その「記憶」のもつ意味が見えてくる。昭和30年代「金の卵」たちが夜行列車に乗って上京した駅が上野駅であった。北海道新幹線開業に向けた再開発で旧上野駅の雰囲気を一部残しながらも、明るい都市型ショッピングセンターを併設した駅へと変わっていく。実はこの上野駅を舞台にあのミュージシャン中島みゆきが「ホームにて」という曲を書いている。
実は大ヒットした「わかれうた」のB面に入っていた歌であるが、中島みゆきフアンには良く知られた歌である。
 
ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
・・・・・・・・・・”
“・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
走りだせば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる
 
中島みゆきの出身地は北海道で、上京し降り立ったであろう上野駅を舞台にした歌であると思う。こころの機微を歌う中島みゆきのことだから、「故郷に帰ろう、でも・・・」と迷い躊躇する気持ちを歌ったもので、やさしい駅長さんを通じて”乗れる人は 急ぎなさい(がんばりなさい)”という応援歌である。
東京は多くの地方出身者の寄せ集め都市である。故郷を後にしたが、失くしたわけではない。そんなこころの中にある「故郷」の応援歌は数多くヒットした。時代おくれのシニア世代も、こころの中でこうした応援歌を口ずさんでいる。

豊かさと引き換えにした「何か」




バブル崩壊後の1990年代、戦後の経済成長によって得られた「豊かさ」とは何であったのか、そんな議論が社会に提示されたことがあった。例えば、それまで生きるために必要であった「食」が家計支出に占める比率、既に死語となってしまったエンゲル係数が支出の50%を大きく下回り、レジャーやファッションといった支出が大きくなった。その「食」の変化であるが、1990年代ダイエットブームによって大きく変化していく。ある意味でそうした支出を豊かさの表現であるとした時期があった。昭和30年代の「空腹」を満たす食から、痩せてスマートになるための食への価値観の転換であった。「豊かさ」の意味合いもまた変化してきたということだ。ちなみに、学校給食が本格的に始まったのは昭和31年であった。団塊の世代にとっては懐かしいコッペパンと脱脂粉乳、それに時々出される鯨肉の竜田揚げ・・・・・今食べるとなると決して美味しいとは言えない給食であるが、貧しくても「空腹」を満たしてくれた食であった。
少し前こうした変化を未来塾で「転換期から学ぶ」と言うテーマで「モノ不足から健康時代へ」として描いたことがあった。そうした「変化」の事例として、1日あたりのカロリー摂取量の推移を調べたことがあった。グラフはその時のもので「健康」と言う新しい価値へと転換したことを見事に表している。つまり、豊かさ、幸福感は大きく転換したということである。



しかし、数年前から「昭和レトロ」というテーマが静かなブームとなっている。最近ではリニューアルした西武園ゆうえんちは「昭和の熱気あふれる1日の遊び方」という昭和コンセプトの遊園地である。中にある商店街は「夕日の丘商店街」とネーミングされ、まさに映画「ALWAYS三丁目の夕日」の世界となっている。
あるいはこれも静かなブームの一つとなっているのが、喫茶店である。勿論、当時のメニューであるクリームソーダにプリン、軽食にはナポリタンといった具合である。
10年ほど前から若い世代の一種の観光地にもなっている吉祥寺だが、最近はカフェブームが起きていると書いたことがあった。この吉祥寺に詳しい知人に聞いたところ昭和レトロな喫茶店にも若い世代の行列ができているとのこと。聞いてみると吉祥寺駅南口近くの喫茶店「ゆりあぺむぺる」。宮沢賢治の詩集『春と修羅』に登場する名前からつけた喫茶店である。変化の激しい吉祥寺にあって、実は1976年にオープンして以来ずっと変わらずこの場所にあり、地元の人に愛されている老舗喫茶店である。勿論、クリームソーダも人気のようだが、他にもチキンカレーなどフードメニューもあるとのこと。
余談になるが、吉祥寺が魅力ある街であるのは新旧の店が個々の魅力を発揮集積しているからに他ならない。ハモニカ横丁の飲食街のみならず、古くから地元住民に愛されてきたメンチカツの精肉店「サトウ」や孤独のグルメにも紹介されたユニークな喫茶店「カヤシマ」など「ゆりあぺむぺる」もそうした個性溢れる店の一つである。「昭和」は記憶だけでなく東京の街の至る所に残っている。(後半に続く)」
  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:06Comments(0)新市場創造