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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2012年01月16日

情報革命がもたらしたこと 

ヒット商品応援団日記No523(毎週更新)   2012.1.16.

前回、あらゆるものが過剰となり価値が下落する、そんなデフレ時代に対する着眼について書いた。案の定というか、すぐさま「食べログ」へのやらせ書き込みについて報道されていた。ランキング順位を上げる為の組織立った書き込みが、39業者に及んでいたということであったが、既に5年程前にもブログが急速に浸透拡大した時も、やらせブログを組織的に行なう新会社が出来ていた。やらせとは情報の価値を意図的に上げ、あたかも抜きん出ているかの如く見せることであるが、演出とは全く異なる嘘情報づくりの一つである。少し前には、佐賀県の九電玄海原発に関するやらせメール問題があったが、膨大な情報のなかでビジネスも生活も全てを行なう時代にあって、避けて通ることができない問題である。

以前にも情報革命という言葉を使ってブログにも書いたが、インターネットの普及によってマスメディア(=オピニオンリーダー)からパーソナルメディア(=個人・大衆)へと情報発信者の主人公が劇的に転換してきたと。その顕著な現象として、政治においてはチュニジアを発端とした「アラブの春」と呼ばれた民主化運動がそうであり、消費においては「食べログ」のようなランキングサイトやレシピ投稿サイトであるクックパッドの日常利用、あるいはツイッターによるパーソナルメディアの活用といったネット情報の活用は当たり前のものとなった。
こうした新しいメディアの出現によって過去10年間で流通する情報量が530倍になったと総務省からの報告もある。勿論、インターネット上のメディアによってであり、Googleなどの検索エンジンによって膨大な情報を取捨選択することが可能になったからである。しかし、Googleは玉石混淆情報の整理や情報の真偽まで検索してくれる訳ではない。こうした膨大な情報、個人の判断を超えた情報が行き交う時代にあって生まれてきたのが、判断基準・拠り所となるものへの「やらせ情報」であり、そうしたやらせを組織だっておこなう問題である。

1990年代後半、インターネットの世界は広大な世界へと直接つながる「どこでもドアー」としてその理想が認識され、急激にあらゆる国、人種、性別、年齢、言語といった壁を超えてあらゆるところへ浸透した。こうしたIT革命の浸透は大きな良き変化をもたらしたのだが、同時に消費面においても前述のような問題を引き起こしてきた。こうした問題解決のために、行き過ぎた振り子を反対の極へと向かわせる動きが3〜4年前から始まっている。デジタルからアナログへ、仮想世界(体験)からリアル世界(体験)へ、インターネットという高速道路を下りて一般国道へ、個人から新たな共同体へ、・・・・・・つまり、ここでも「顔の見える関係」への揺れ戻し変化が見られてきた。
その顔の見える関係の象徴がFacebookやTwitterであろう。匿名という無縁空間として広がるインターネットの世界においても小さな単位へとダウンサイジングが起きているということだ。顔の見える小さな単位であれば「やらせ」はほとんど起こりえない。もし、嘘ややらせが発覚すれば、その共同体から退出させられる。

ところでIT革命のもたらした最大のものがグローバリゼーションである。市場が一つであることは、東日本大震災あるいはタイの洪水被害によってサプライチェーンがいかにグローバル化しているかがより鮮明となった。全てがつながっており、その部品一つが災害などによって供給が寸断された時、どんな事態となるか誰の目にも明らかになった。その時盛んに言われたのが、首都機能の分散を始めリスク分散、小単位化であった。
こうした多極分散の傾向はビジネス以外にも何か世界中を覆っているような感がしてならない。例えば、今EUの危機が更に深刻なものなった言われているが、その危機が財政の問題ではあるが、欧州統合の理念を掲げたEUの中で、右派政党が公然と移民の排斥、ユーロ離脱を訴え支持率を伸ばしていると報道されている。あるいは米国も同様であろう。数年程前から、アフガン、イラク戦争による巨大な戦費支出から財政的にも縮小せざるを得なくなり、昨年夏には米国債がデフォルト(債務不履行)寸前までいったことを想起すれば十分である。つまり、一極集中にあった米国もその力を失い、多極のなかの一国となった。意味的に言えば、ギリシャやイタリアと同じような普通の国になったということである。

国単位、あるいは大きな経済世界でITが直接・間接もたらすことを考えていくと、何が問題であるか論点がぼけてしまうが、日本の、あるいは自分のビジネスや生活を考えて行くともう少し情報革命の意味が見えてくる。こうした一種の気づきのようなものが様々なところに実は現れてきている。
その象徴例と考えられるのが、無店舗(ネット通販)と有店舗(百貨店)のクロスマーチャンダイジングで2年程前から積極的に小売り現場に出てきている。簡単に言ってしまえば、ネット上のお取り寄せヒット商品を百貨店で販売するものだが、いわば「顔の見える場」づくりと言える。こうした異なる流通の在り方をクロスさせていくのもITによるものであろう。更に身近な小売り現場では、面倒な試着もサイズやデザインコーディネーションも着せ替え人形のように瞬時に画面確認出来るIT活用も出てきている。しかし、決める為の相談は、やはり現場の専門スタッフとなる。これもデジタルとアナログのクロス活用である。事例をあげればきりがない程であるが、「顔が見える」ためにうまく組み合わせる方向へと向かっている。

話を戻すが、グローバリゼーションという振り子の反対にあるのがローカライゼーションである。このブログにも「今、地方がおもしろい」と、今なお残る埋もれた地方文化、そのビジネスチャンスについて書いてきた。文脈的に言うならば、地方は「顔の見える共同体」、その生活についてである。産土(うぶすな)という言葉があるが、その土地固有の風土から生まれた産物を指す。今や祭りなどの行事のなかにわずかに残っている程度で、日常生活となるとせいぜい京都ぐらいとなる。その京都や沖縄は閉鎖的であると言われるが、「顔の見えない」よそ者にとってはそう映るのである。
IT革命が進行すればするほど、情報量が増えれば増える程、「顔の見える関係」づくりが重要な課題となる。その関係づくりだが、顧客関係の場合ポイントはそのほどよい距離間、いや距離感と言った方が分かりやすい。共同体であれば、そのサイズ・単位となる。このことの大切さを、あの3.11東日本大震災が教えてくれた。

以前ブログにも書いたことがあったが、近江商人の心得に「三方よし」がある。その近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。つまりよそ者がどう信頼をいかに得るかでその心得である。その心得は売り手よし、買い手よし、世間よし、であるが、この「顔の見える」在り方を見事に表現している。売り手と買い手は顧客関係であり、世間とは共同体のことである。この心得で一番大切なことは何か、それは今昔にかかわらず、商人にとって何よりも大切なものは信用である。その信用のもととなるのは正直であると。つまり、情報こそ正直でなければならないということだ。
その共同体が「顔の見える」共同体として再構築が進んでいる。前述のFacebookやTwitterもそうであり、アナログ世界で言えば、地方の街起こしやB1グランプリなどもそうである。過剰な情報に振り回される、わかったつもりがそうではなかった、・・・・こうした経験を踏まえ、新しい共同体の一員としての生活へと向かう。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 11:07Comments(0)新市場創造

2012年01月04日

総デフレ時代の着眼

ヒット商品応援団日記No522(毎週更新)   2012.1.4.

新年明けましておめでとうございます。
例年であると新聞各社の元旦号を斜め読みし、どんな一年となるのか私見をブログに書くのだが、3.11を始めとした日本の危機については多くの専門家によって昨年から語られているのでこのブログには取り上げないこととする。
私の専門領域は消費を通じた生活者研究であり、そこに見られる価値観の変化を見出すことにある。いわば選ばれる理由は何か、を明らかにすることである。そして、5年程前から再三再四ブログに取り上げてきたのが価格戦略、低価格にどう立ち向かうのかであった。

ところでデフレの定義であるが、OECDによると「一般物価水準が継続的に下落する情況」をデフレとしているが、こうした価格価値が下がり続ける経済の問題としてだけではなく、あらゆる面において旧来価値の下落が取り巻いていることを指摘してみたい。
価値の下落によって引き起こされる混乱、あるいは混沌について様々な変化事象が起きている。その象徴である地価は下がることはないとされてきた銀座の地価が下落した。銀座を代表する百貨店とインポートブランドによってつくられてきた街の風景に、ユニクロやH&Mといったファストファッション、カジュアル衣料量販店のフラッグショップが続々と出店し街の風景を一変させた。つまり、グローバル市場の象徴都市である東京銀座は、ある意味世界の主要都市と同様となった。

価値の下落、その価値とは従来価値あるとされてきたものの下落である。その冴えたるものの一つが情報であろう。周知のように、インターネットによるブログやYouTube、あるいはツイッターといった個人情報局の出現によって、既存メディアによる情報価値は総体的に下落した。例えば、その象徴例が既存雑誌が部数を落とし、あるいは廃刊していくなかで、宝島社の付録付き雑誌が部数を伸ばし、他の雑誌社も付録付き雑誌の発売へと追随した。書店は情報販売と共に、多様なグッズの販売をも引き受けることとなった。

実は高度情報化社会とはあらゆるものがメディアとなることが出来、情報を発信することができる社会のことである。街も、人も、ファッションも、勿論商品も、情報発信メディアとなる。そして、一挙にあらゆる世界に情報が押し寄せてくることとなる。ビジネスは勿論のこと、学校にも、家庭やコミュニティにも、人が集まるところに凄まじいスピードで駆け抜ける社会となった。
情報発信者はこうした量的にもスピード的にも、勝ち抜き伝達すべく、更にこれでもかと情報を発信する。過剰な情報、過剰な言葉が行き交い、演出というやらせが多発し、誰よりもどこよりも早く発信するためにメッセージは圧縮され、キーワード化されスピードを競うこととなる。結果、どんなことが生まれてくるか。圧縮されたメッセージ、その内実、深みの無い上滑りなメッセージとして「わかったつもり」となる。
言葉のデフレである。ここ10年程の政治の世界を見れば政治家の言葉の軽さだけではなく、自らメディア足りえる為にTV番組に露出することだけを求めて出演する。つまり、選挙は人気投票になってしまったということだ。そして、選挙民も過剰な期待を政治家に求め、それが過剰であるが故に時間経過と共に支持率は下がり、5年間で6人の総理大臣を誕生させることとなる。

「わかったつもり」が過剰を加速させてしまっているということである、このことに生活者は次第に気づき始めて来た。断捨離の勧めもそうであるし、ヴァーチャルからリアル体験もそうである。つまり暮らしに何が必要か、削ぎ落とし、更に削ぎ落としてなお残るもの、本質を求めるようになってきた。本質という言葉を、例えばこれだけは好きで好きで手放せないもの、これさえあれば他はいらない、そんな消費態度に置き換えてもかまわない。
更に言えば、オリコンによる昨年の音楽ランキングではAKB48が上位5曲を占め、大人にヒットした曲がなく、相変わらずCDは売れない状態が続いている。しかし、音楽そのものの不況ではなく、ライブハウスはどこも一杯であるし、ライブコンサートには多くのフアンが押し寄せている。何故か、音楽の本質はライブにあるという至極当たり前のことに気づいたからである。上位5曲を総なめにしたあのAKB48も会いに行けるアイドルとして秋葉原のビルに常設舞台を持っている。
こうした本質に戻る動きを更に強烈に教えられたのが、3.11である。節電を始めとした「省」のライフスタイルへと向かうのだが、あの被災地の衝撃に対し、豊かで便利な都市生活への原罪意識がどこかにあったことも事実である。

ところで日本には「用の美」という考え、いや美学思想がある。勿体ない精神の根底にある美学、使い続ける美学、生活美学。少し理屈っぽくなるが、使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた顧客の使用価値集積の美学と言った方が分かりやすい。そこには「あっ」と驚くような美はないが、何故かしっくりする、手に馴染む、変わらないけれどそれがうれしい、そんな美への共感である。食で言えば、変わらぬ味、ふっと和む味、何度食べても飽きない味、そんな表現となる。そうした美への共感を元に、実は「信用」が生まれてくる。私たちは、それを「暖簾」と呼んできた。暖簾をブランドに置き換えても同じである。それは大企業であれ、商店街のお惣菜屋でも同じである。大きな価値潮流に置き換えて言うと、トレンドライフから、ロングライフへと価値の転換が起き始めているということだ。3.11はそうした物の本質価値を思い起こさせてくれた。節電を始めとした節約がキーワード化されてきたが、その根底にある価値観は、使い捨て消費文化から、使えば使う程愛着が湧く消費文化への回帰であろう。

この「用の美学」と相通ずるのが「用の技術」である。日本の製造業を支えている中小下町工場の職人技術と言った方が分かりやすい。それは技術を超えた、職人芸に入っている。こうした「技」は製造業だけでなく、農業にも、漁業にもある。農作物の品種改良、高品質な肉牛、・・・・・・・世界に誇れる輸出商品となっているのはこうした技によってだ。あるいは今回の東日本大震災の大津波によって壊滅的になった牡蠣養殖を見ればどれだけの技によってなされているか分かるであろう。豊かな海づくり、その養分であるプランクトンは、まず山に木を植えることから始め豊か栄養豊富な海をつくる、そんな漁業法は日本だけであろう。

日本社会はこうした職人社会によって今日がある。問題は、こうした技や方法を新しい市場へとマーケティングしてこなかったということだ。多くの場合、職人は寡黙である。社会に横溢する過剰な言葉は寡黙を更に進め沈黙へと向かう。そして、ともすると埋もれた宝に気がつかないで通り過ぎてしまう。地方を歩くとわかるが、いくらでも磨けば宝物となる素材はある。
失われた20年と言われるが、その根底にあるのが「成長」という視座である。財テクの失敗を今なお引きずっていたオリンパスを見るにつけ、ガバナンスの問題であると指摘されているが、その根底には成長神話があったと考えている。原発への安全神話だけでなく、既成を取り囲む多くの神話を自ら壊すことが必要な時代である。

以前、潰れない会社の持続力は何か、という内容のブログを書いたことがあった。周知の世界最古の企業金剛組という宮大工の会社についてである。創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている会社である。日本にはこの金剛組を含め、創業200年以上の老舗企業ではだんとつ日本が1位で約3000社、2位がドイツで約800社、3位はオランドの約200社、米国は4位でなんと14社しかない。
当然の如く、「なぜ、日本だけ老舗企業が生き残るのか?」という疑問が湧いてくる。結論から言えば、根底には継承されるに足る「技」と「人」がいたということである。

過剰が取り巻くデフレの時代にあって、取り戻すべきはこうした本質回帰である。本質回帰などと言うと、何か構えてしまいがちだが、好奇心をもって顧客を、市場を観察してみることから始めれば良い。何が見えてきたか、日頃見えてこなかったものもある筈だ。保有する技は役に立つか、役立つためには更にどんな技が必要か、こうした知恵が「次」へとつながる。そこにこそ成長がある。日本に少し前までごく当たり前であった商人・職人の心構えや技に着眼すべきということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:03Comments(0)新市場創造