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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2016年08月23日

訳ありから、こだわりへ

ヒット商品応援団日記No655(毎週更新) 2016.8.23.

リオオリンピックでは日本選手の逆転劇に歓声を上げ、夏の甲子園大会でも前評判の高かった3人の好投手が揃う中で、最後は作新学院の今井が見事な投球で優勝した。前回のブログで「ポケモン探しの夏が始まる」と書いたが、いたるところでゲームに熱中する若い世代を見かけた。こう書くと活気あふれる景気を想像してしまうが、それとは真逆の弛緩した景気状態である。
6月の家計支出は前年同月比実質2.2%の減少 、 前月比(季節調整値)実質1.1%の減少。世帯収入も名目0.3%の減少となった。その延長線上にこの夏もあると想像される。
そして、百貨店売り上げも5か月連続のマイナスで、7月は-0.1%とのこと。売り上げの2.6%を占める訪日外国人消費インバウンド売り上げは前年比-21.0%と大きく下げ、既にインバウンドバブルは終わったということである。
しかし、日銀によれば2016年第一四半期の保有する家計金融資産は1706兆円となっている。これも2008年のリーマンショック以降の「現金・預金」の資産構成が伸び、周知の通り株などではない「リスク」を避けた資産保有となっている。

実はこのお盆休みには何回か都心に出向くことがあって、幾つかの商業施設などを見て回った。どの商業施設も家族連れが多く、しかも訪日外国人観光客も多数見受けられた。特に、ターミナル駅や新たにできた新宿のバスタも混雑していた。また、ガソリン代が安いこともあって、報道によれば高速道路も例年通りの混雑を呈していた。
つまり、「人出」は多いが、特筆すべき行動や消費は見られなかったということである。以前であれば、「人出」は移動=消費のバロメーターであったが、長引くデフレ下にあっては特別な消費を引き出すことはできないということである。生活者の多くは、夏休みであれ、休日であれ、どこで何をどのように楽しむか、お金を使わない工夫にどんどん長けてきているということである。

こうした時代にあっては、アッと驚くような消費を期待してはいけないということである。必要なことは「意味ある」消費を創ることに徹するということである。その「意味ある」とは、商業の原点、顧客主義に立ち返るということだ。その顧客は「情報」によって動くものと勝手に決めつけてきた。確かに情報によって消費行動は促されることは事実である。しかし、その情報に翻弄され、時に騙された経験を多くしてきた。見た目ばかりで、内実が伴わず値段だけは高い。行列するほどのことはなかった。・・・・・・・・こうした感想は数多くあるのが消費の現場である。

つまり、消費者は消費のプロ、専門家であるという原点に戻ることに、私は「意味を見出すべき」と考える。このことは消費者におもねることでも、へりくだるサービスのことでもない。今から8年ほど前にエブリデーロープライスをポリシーとしたスーパーのオーケーを取り上げ、その訳あり商品についてブログに書いたことがった。以降、訳あり競争について、その訳あり内容の競争であると何回かブログに書いたことがあった。その主旨に沿うならば、「意味ある訳」の競争とは、消費のプロに負けない専門性、つまりこだわりをしっかりと持つということである。勿論、その「意味」は勝手に決め付けることではない。商売の原則である売り手と買い手の会話によってのみ、「意味」が確認される。安いから売れる訳ではない、高いから売れない訳でもない。長引くデフレは、訳あり」心理を更に内なる心理へと向かわせている。

その心理であるが、今の競争は訳ありから、「こだわり」へと進化している。どんなこだわりか、その意味あるこだわりに納得共感してもらうかの競争である。私の言葉で言えば、「オタク競争」のことである。例えば、B-1グランプリの第一回チャンピオンは「富士宮やきそば」であった。そのこだわりは幾つかあるが、当時私にとって新鮮であったのはイワシの魚粉をかけた焼きそばであった。ありそうでなかった焼きそばである。しかし、その焼きそばもどんどん進化している。最近の焼きそばでは東京神田神保町の焼きそば専門店「みかさ」もその一つである。もちもちした自家製麺、ソースもオリジナル、そして焼きそばの上に乗せるのはお好み焼きの具材である豚肉に卵。まるでこだわり手打ち蕎麦専門店と同じようなこだわりである。そして、焼きそばは日常食べるもので勿論価格も700円とリーズナブルである。このように焼きそば一つとってみても、その「こだわり度」は進化しているということだ。

3ヶ月前のブログにヒット商品は「街場」にあると指摘をした。日常の頻度利用商品である。デフレマインドが横溢する時代にあってヒット商品は小さな街場の専門店、つまりオーナー・店主の意志や思いが、細部にわたって表現されることの中にヒットが生まれていると。日頃利用するパン屋さんであり、中華屋さんということである。そんなこだわりパン屋さんの一つが、私の住む世田谷では東急世田谷線の松陰神社駅前にある「ブーランジェリースドウ」である。ブーランジェリースドウの人気商品は毎日食べる「食パン」で、予約なしでは購入できない。毎日、日常、飽きのこない、明日も食べ続けたいと思わせる「こだわり」商品である。そんな街場のヒット店は数多い。
最近あのユニクロが「ライフウェア」というコンセプトを広告表現に出してきた。値上げによる失敗、間違った価格設定を払拭するための商品戦略である。ヒートテックを始め素材開発にこだわりを見せてきたユニクロが、ある意味原点に戻ったコンセプトによる新商品「ライフウェア」が楽しみである。原点に戻ったとは、ユニクロというネーミングはユニーククロージングであり、創業時のヒット商品であるフリースがそうであったように、どんなユニークさを見せてくれるかという意味である。HPを見た限りではあるが、ユニクロ流のライフスタイル提案となっているが、そこにどんなこだわりの世界、新しさ、珍しさ、面白さが展開されていくのか興味深く見ていくつもりである。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:33Comments(0)新市場創造

2016年08月17日

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)後半 

ヒット商品応援団日記No654(毎週更新) 2016.8.17

文化が経済を牽引する時代になった。その文化はすでに江戸時代に生まれている。それは今日からの「下りもの」として。そうした江戸と京が交差するところに新しい市場が生まれる。今回は「江戸と京」の後半である。

庶民から生まれる文化
ヨーロッパの文化はオペラが代表するように貴族社会や宗教社会から生まれ、それが次第に庶民へと浸透していった。一方江戸文化は庶民から生まれ、武家社会にも浸透していった特異な文化である。そうした江戸文化を代表するのが浮世絵であるが、その誕生は1680年ごろで絵師と呼ばれていた。今日伝わっている浮世絵は娯楽そのもの、遊里や芝居町の遊女や役者を描いたもので、江戸のプロマイドのようなものであった。
そして、売れるために多色刷りになり、江戸土産にまで発展する。こうした出版物はより専門分野化し、現代の紳士録のように大名の家臣の名前や、紋所、系図、給料まで掲載する出版物まで出てくるようになる。地図類や旅行のガイドブックも人気で、名所旧跡、寺院、景勝地など出版文化が発展する。
こうした江戸文化の基礎となったのが、周知の寺子屋教育で江戸市内であれば、ひらかなであればほぼ100%の識字率であったと言われている。こうした背景から絵草紙なども広く読まれ、貸本屋も繁盛した。江戸の貸本屋は店舗を構えたものではなく、行商のように長屋に訪問レンタルしてくれるサービスで、価格は一般購入価格の6分の1程度で皆で回し読みしたと言われている。そして、幕末には江戸市内には800もの貸本屋があったと言われている。


男と女が交差する

そして、こうした出版文化とともに、新しい、珍しい、面白いを生み出す江戸マーケティングで注目しなければならないのはやはり「歌舞伎」であろう。男が女役をするという前代未聞の在り方もさることながら、当時は御法度であった不倫をテーマにした心中ものを始めコンテンツそれ自体もかってないものであった。「既成」とは全く異なるコンテンツを小屋という表舞台に上げたことを含め、新しい、珍しい、面白いものの冴えたるものと言える。
歌舞伎の原語である「斜(かぶ)く」とは、それまでの常識外の異形の様に傾倒することであり、真反対ではあるが宝塚の男装の麗人と同じ心理であろう。勿論、幕府としてはそれまでの武士の精神文化とは全く外れたもの、悪徒として規制を行うが、それは庶民ばかりでなく、次第に武家の奥方や女中衆まで熱狂的な女性フアンをつくり、1泊2日の芝居見物、今日言うところの舞台観光ツアーが組まれ、まさしく文化が経済を引っ張っていった。前回にも触れたが、これも「垣根のない」江戸ならではの消費である。
こうした「既成」から外れた表現は、身近で言うならば1980年代のファッションにも出てきている。女性はそれまでの男性のような肩パッドの入ったスーツを好み、男はといえば逆になぜ型のスーツを着る。DCブランドブームとして若い世代が丸井に行列を作っていた光景も同じである。男性は女性の何かを取り入れ、女性もまた男性の何かを取り入れて楽しむ、そんな第三の市場が江戸にもあったということである。

男の時代

歌舞伎以外にも浄瑠璃や寄席、あるいは講談といった楽しみが広く江戸庶民に広がる成熟した文化都市であった。その文化の中心には男がいた珍しい時代であった。平易に言うならば、旦那の時代、「粋」を求めた文化の時代である。つまり、「こだわり」から「粋」「鯔背(いなせ)」へと、モノからスタイルへの転換が起き始め時代への端緒であるといえよう。モノ消費から時間消費、出来事消費、スタイル消費への移行である。消費の主役である女性から、まだ端緒ではあるが「粋」で「鯔背」な男性が消費という舞台に上がる。フランスのような気障でもなく、ドイツのような野暮でもなく、粋で鯔背な「男文化」が江戸における消費のもう一つの主役であった。
今や家計は緊縮の時代となっており、ワンコインランチ時代にあっては粋で鯔背なスタイル消費は一部の旦那世代・シニア世代のみとなっている。


パラダイム転換から学ぶ


江戸の1極集中・大移動化社会


実は江戸の1極集中から生まれた豊かさについて、参覲交代という大移動化社会との関連から指摘した文献は極めて少ない。
その参覲交代であるが、原則1万石以上の大名は藩邸(駐在屋敷)を江戸に置くということは、政治としての全国統治の仕組みではある。しかし、その経済効果という視点に立てば、1年交代で定期的に「移動」する参覲交代は、ある意味大移動化社会を前提とした都市構造を創らせている。
ちなみにウイキペディアによれば以下のような規模を持っての参勤交代で、五街道を始め江戸と自藩とを結ぶ街道の道路や橋などの整備、あるいは宿泊の宿など周辺経済に及ぼす効果は莫大であった。
・仙台藩伊達家(63万石) 4-9日 2000~3000人規模  経費3000~5000両
・加賀藩前田家(103万石) 13日 2000~4000人規模  経費5333両
・鳥取藩池田家(33万石) 22日 700人規模  経費5500両
*ちなみに、江戸260年の間概ね250~270の藩が存在していた。

この幕藩体制における財政出動は、各藩の財政を苦しめたが、全国の主要幹線道路や港湾などの社会インフラ整備がなされ、その周辺経済を大きく持ち上げた。これは今日の国と地方とが分担しあって公共工事を行うこととほぼ同じようなものである。こうした大規模な列島改造は1970年代の田中角栄による列島改造論と同じように見えるが、田中角栄による列島改造は人とカネと物の流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進することであったのに対し、江戸時代の参覲交代はその逆で江戸へと人とカネと物の流れを作り、一大集積した点にある。江戸の豊かさの背景にはこうした参覲交代の制度によるものが大であった。そして、江戸に住む武士はいわば行政マンであり、その多くは単身赴任者であった。簡単に言うならば、生産することなく消費のみの存在としてある。
その旺盛な消費は、京をはじめとした上方を真似することから始まった江戸であるが、その集積度の大きさは参覲交代という制度によることが大きいが、江戸は上方とは異なるもう一つの魅力ある輝きを見せる。ある意味2つの都市は競争相手としてあった。そして、江戸に豊かさが集中したのは江戸周辺の地域における軽工業の発展と共に、商業が発展したことによる。つまり、それだけ消費市場が大きく、まさに消費都市であり、その豊かさを目指し、人も物もおカネも江戸を目指す。ある意味、こうした好循環によるものだと言えよう。

このように1極集中のように見えるが、その江戸内部にあって競争相手も集中する市場であった。屋台も行商も互いに独自な口上を持ったパフォーマンスの商売をしており、いわば競争市場としてあった。商業の発展とはこうした江戸内競争市場のことで、今日の商業施設の競争と基本は同じである。
例えば、以前未来塾で取り上げたが、江東区の砂町銀座商店街とヨーカドーグループが総力を挙げて出店したアリオ北砂の関係である。アリオ北砂という巨大なショッピングモールが出来たことによって、逆に砂町銀座商店街も生きる術・特徴を見出し活気ある商店街として今日に至っている。
あるいは、横浜興福寺の松原商店街も、お手本は上野のアメ横として、ハマのアメ横と自ら呼び、誕生当初からわけあり激安コンセプト商店街として成長すらしている。今日のマーケティングとして見るならば、競争相手を潰すことではなく、異なる魅力を創造することによる選択肢を顧客に提供すること。つまり、棲みわけ市場のことを競争市場と呼んでいる。

ところでこうした江戸の1極集中から、これからの地方はどうすべきか、何を学ぶかである。勿論、時代を取り巻く諸環境は異なり単純な比較はできないが、現在の地方移住のあり方、特にIターンにおける助成といった施策、更には地方における高齢者移住といった分散化の仕組みだけでは1極集中の波を変えることはできない。
例えば、高齢者の人気移住先はどこかと言えば、NPO法人のふるさと回帰支援センターは「田舎暮らし希望地域ランキング2014」を都道府県別に発表している。1位になったのは山梨県で、長野県が2位、岡山県が3位と続いている。その山梨であるが特に北杜市で八ヶ岳の裾野といった方がわかりやすい。北杜市の特徴はというと、緑が多く水に恵まれ日照時間の多い、つまり明るい田舎暮らしができる環境という魅力があるということである。そして、「空き家バンク」という紹介の仕組みは以前から出来ており、移住実績が次の移住を生むという、ここでも集中現象が生まれているのが事実である。そして、重要なことは東京からのアクセスは中央自動車道を使えば2時間50分ほどで行ける近さにある。勿論、JR中央本線もあれば、高速バスもある。つまり、都市生活に慣れすぎた高齢者にとって、終の住処であっても時には東京に出かけたいということが可能な近さだ。10数年前に「ウイークエンドリゾート・田舎暮らし」が小さなブームになったことがあった。今やその逆も出てきたということである。それを可能にしたのが、自在な移動を可能とするアクセス網が整備されたということである。
そして、北杜市の場合はテーマは「田舎暮らし」であり、あまりマスメディアに載ることはないが島根の山間地では「子育て」がテーマで子育てしやすい環境が整っており、若い世代の移住者が増えている。他にも漁村であれば後継者不足が全国的に日常化しているが、「漁業・漁師」がテーマの町おこしでは島根県沖の隠岐が漁師移住&漁業ビジネスとして成功している。

江戸時代、魅力は江戸には溢れていたが、地方の藩には新しい、珍しい、面白い、そんな魅力を作ることはなかった。しかし、そうしたいわば格差を生んだ参覲交代という大移動化社会は、江戸への1極集中をもたらした。今、1970年代に造られた全国の鉄道や道路といった交通網が都市から地方への逆流ではなく、その逆として人の都市への集中を生んでしまった。
この時代、都市高齢者に対し、福祉や医療の整備といったテーマによる「移住」だけではなく、地方ならではの魅力を掘り起こし、テーマ化し、都市生活者のプレゼンすることによって移住を促せば良い。これも一種の移動を促進するテーマ競争である。まだまだ地方には埋もれた宝物が存在しているということである。そして、宝物とするための「テーマ化」が急務となっているということである。勿論、新しい、珍しい、面白いテーマであることは言うまでもない。

エンターテイメント都市から生まれたクールジャパン



クールジャパンという言葉は数年前に日本のアニメやコミックといったポップカルチャーを指す言葉として使われたが、もともとは外国のフアンが「外」からそのかっこよさ・素敵さを「クール」と表現したことから始まっている。この「外」からの視線の先には実は江戸時代にもあった。
周知のように、ヨーロッパ美術の印象派に多大な影響を与えたのが浮世絵であった。1856年にパリの店で見つけられた北斎の「漫画」はヨーロッパの人々の日本の美術 への興味をふくらませ、明治維新以降広重や歌磨呂などの浮世絵が一大ブームとなる。その影響を「ジャポニズム」と呼んでいた。こうした「外」からの構図は1990年代後半秋葉原にアニメやコミックを求めて集まった外国人オタクと同じである。国内では冷ややかな目でオタクと蔑称さえされていたポップカルチャーが日本の一大コンテンツ産業として今また動き始めている。

江戸の文化は庶民の文化であったと書いたが、それは寄せ集め人間たちが江戸に集まってプロジェクトを作り、新しい、珍しい、面白いこと創りに向かったことによる。それは1980年代の昭和の漫画が1990年代には平成のコミックと呼ばれ、オタクも一般名詞になったのとよく似ている。そして、浮世絵がヨーロッパに知られるきっかけになったのは、当時輸出していた陶器やお茶の包装紙に使われ、一部のアーチストの目に止まったことによる。同じように、アニメやコミックも単なるコンテンツとしてだけではなく、他のメディアとコラボレーションしたり、ゲームやフィギュアにまで多くの商品としてMDされるのと同じである。最近では「ちびまる子ちゃん」などで描写された日本のランドセルが一部の欧米フアンの目に止まり、、誰もが予想もしなかった少子化による右肩下がりのランドセル業界に活況をもたらしている。そして、空港の免税店でもランドセルが売られるようになった。浮世絵もアニメやコミックもそれ自体垣根を超えた強烈なメディアとなって江戸の文化、クールジャパンのインフラを創ってくれているということである。

浮世絵もアニメもコミックも、いわばマイナーなアンダーグランド文化から生まれた産物である。そして、庶民文化とは長屋文化、別な表現を使うとすれば、表ではない横丁路地裏文化ということである。昨年のブログにも訪日外国人旅行は表通り観光から裏通り観光へと変化している事例を挙げ、桜の名所観光の人気がその象徴であると指摘してきた。そして、今年の庶民・裏通り観光は夏の花火大会へと進化してきている。こうした傾向は食であれば、既にラーメン専門店や回転寿司へと向かっている。そして、今ではしゃぶしゃぶをはじめとした「食べ放題」にも続々と進出している。どこか江戸の町の食のエンターテイメントを楽しんでいるかのようである。

2つの生活文化都市

昭和と平成を分けたバブル崩壊は、未来に向かうために立ち止まり「過去」へと向かわせてきた。消費ということでは、その多くは「昭和レトロ」と言ったテーマであるが、更に過去へ江戸へと遡る動きを見せている。日本の場合、そうした気付きは「外」からもたらされることが多い。いわゆる「逆輸入」である。クールジャパンと呼ばれているものの多くがそうであるが、例えば最近では盆栽の輸出が好調である。この盆栽も江戸で流行った園芸ブームのひとつである。
文化が経済を牽引する時代を迎えているが、このように江戸にはまだまだ多くの宝物が眠っている。

千年という歴史ある寺社、あるいは雅な朝廷文化をめぐる観光地京都。周知のように米国の旅行雑誌「Travel + Leisure(トラベル・アンド・レジャー)」の読者投票では数年前からNO1の人気となっており(今年は6位)、平成26年度では年間8400万人もの国内外の観光客を集客している。実は江戸と同じように京についても庶民の生活文化は今なお残っている。特に四季折々の祭りや生活歳時が一種の生活カレンダー化されていて、生活文化が伝承されている。祭りの日をハレ、日常をケと呼ぶが、これほどはっきりとした季節感のある生活文化が残っているのは京都だけである。ハレの日はパッと華やかに、普段は「始末」して暮らす、そうした生活習慣である。例えば4月の今宮神社のやすらい祭りにはさば寿司を食べる、といった具合である。これは推測であるが、今までの京都観光の「次」はと言えば、こうした庶民の生活文化を表舞台に引き上げる工夫が必要になってくるであろう。そうしたことによって、「新・下りもの」として再び江戸・東京へ世界へ提供するということである。但し、その前に急増する訪日外国人に対する諸整備が必要となっている。東京と同様宿泊施設が足りない状況にはあるのだが、違法民泊施設が約18,000軒にも及び、更にはあまりにも酷すぎる「にわか和食の飲食店」も急増している。京の生活文化を守る以前の課題が山積している状況だ。

こうした残すべき財産としての生活文化商品は、江戸と京だけのことではない。広く都市と地方という関係構図としても当てはまる。アンテナショップのビジネスを手伝ったことがあるが、都心の有楽町から新橋にかけて多くの地方のアンテナショップがある。その中心顧客はシニア世代の女性たちであるが、珍しい地方の物産を一種の「下りもの」として買い求めている。
写真はJR秋葉原の高架下に店を構えているB-1グランプリを受賞した「富士宮焼きそば」をはじめとした地方の飲食店食堂である。あるいは東京駅地下のお土産コーナーには東京土産どころか、地方の駅弁を含めた全国の「食」が販売されている。ここにも「外」からの新しい、珍しい、面白いことの集積があり人気となっている。つまり、江戸・東京は地方無くしては、あるいは世界・欧米なくしては成立しないということである。この構図こそがグローバル化の本質を言い当てているということである。東京を見ていけば、世界がわかるということはこうした意味のことである。

課題はそうした「下りもの」の新しさ、珍しさ、面白さも都市生活者の求めるものでなければならない。例えば、あれこれチョットずつに応えられるようなサイズと種類、使い方・食べ方など一定の情報は提供しても、それに固執せず顧客に任せる。そんな選択肢のある売り方・提供の仕方である。そして、現状においては都市生活者のライフスタイル研究が圧倒的に足りないということである。眠っている宝もただの石になってしまうということである。そして、都市生活者に対する課題というと、真っ先に考えるのが洒落たパッケージや包装紙のデザイン開発ということになる。それ自体決して間違いではないが、長続きはしない。デザイン開発に要した費用すら回収できないことが多く見受けられる。当たり前の話であるが、商品への工夫、ちょっとしたアイディアの付与に尽きる。そして、一番重要なことは、その商品が生まれた背景、地域ならではの文化に培われた情報をわかりやすく伝えることである。つまり、商品は物ではあるが、その地域ならではの文化商品としてである。そして、浮世絵もコミックもそうであるが、文化商品は一朝一夕では成しえない。しかし、前述のランドセルのように、知らないところで人気になっている、そんな時代にいる。

江戸時代「下りもの」を含め珍奇な商品が数多く販売されることがあった。勿論、珍奇のまま消化しきれずに終わった商品は多かったと思う。しかし、そうした「珍奇さ」に対しては興味関心が深く、咀嚼の胃腸は丈夫な民族であった。咀嚼できない場合、さまさまな工夫・アイディアが加わり、結果独自な固有商品、世界に輸出するようなクールジャパン商品が生まれている。浮世絵の先にあるコミックだけでなく、寿司や天ぷらといった江戸時代からの和食は日本の代名詞となった。例えば独自な進化を続けているラーメンもそうしたクールジャパン商品としての可能性もある。推測するに和菓子もそうした楽しみな商品であろう。「珍奇」であるという誹りにめげず、まずは江戸がそうであったようにトライしてみることだ。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:13Comments(0)新市場創造

2016年08月11日

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半

ヒット商品応援団日記No654(毎週更新) 2016.8.11

文化が経済を牽引する時代になった。その文化はすでに江戸時代に生まれている。それは今日からの「下りもの」として。そうした江戸と京が交差するところに新しい市場が生まれる。



逆さ地図(環日本海・東アジア諸国図、富山県作成)


「パラダイム転換から学ぶ」

江戸と京

市場は2つ異質の交差から生まれる


上記の地図は日本を中心とした見慣れた世界地図とは異なる地図である。日本は大陸から遠くはなれた閉鎖された島国というイメージが作られてきた。しかし、地図を90°回転させると全く異なる世界が見えてくる。 日本列島が日本海という大きな湖をかこんで、ユーラシア大陸、朝鮮半島とつながる、環(わ)の一部のように見えてくる。
実は古来から日本海は北前船で知られているように交易の重要な海上交通路であり、樺太や朝鮮半島を通って人や物、あるいは文化がもたらされてきたことが、この地図によって一目瞭然となる。勿論、地図の右側には沖縄を通って東南アジアへと繋がっている。

前回「外」からのパラダイム(価値観)転換を迫った最大の出来事は明治維新であったと書いた。以降、どちらかと言えば「外」とは太平洋を越えた先にある欧米諸国となり、明治の文明開化は欧米化でもあった。しかし、それ以前はどうであったかというと、歴史の教科書的には「外」の中心は中国・朝鮮半島であり、ロシア、琉球、東南アジアであった。上記「逆さ地図」のように日本海という大きな湖を渡って、人も物も情報も流通していた。歴史の教科書にも出てくる北前船はまさに海道という中世日本の大動脈であった。
今回は日本の資本主義が誕生した中世から江戸時代にかけてどんな「外」からの変化が庶民の生活価値観の転換を促してきたか、特にこの海道を通じ、江戸時代にあってどんな変化がもたらされたか、日本列島を中心にその変化を見ていくこととする。そして、もちろんのこと、庶民の生活という視点からその受け止め方の変化を考えてみた。

前回の未来塾では「外」からの取り入れ方を衝突ではなくて、交差することによる融和、融合で、まるで渋谷のスクランブル交差点であるかのようだと、日本に於ける新しい価値観の創成を指摘した。実はこの「交差」という構図はいつ頃から、どのような「交差」によって、今日まで続く新しい「市場」として誕生してきたのか。勿論、歴史としての市場創成ではなく、交差という日本固有の市場経済・文化の構図を解き明かしてみたい。その構図とは、今なお課題としてある「都市と地方」という関係であり、より具体的に言うならば、江戸に於ける輸入を始め、「江戸と京」、あるいは「江戸と農村」、その関係の構図は今なお世界の多くを取り入れ、咀嚼し、エネルギーに変えている今日の日本に繋がっている。どこまで解き明かせるかわからないが、現在のライフスタイルの原型は江戸時代に作られており、今回はその序として考えていただきたい。

江戸が今日のライフスタイルの原型を作った

敢えて「江戸」という表現を使ったのは、江戸時代であることの意味と共に、「都市」としての在り方、徳川幕府といういわば中央集権という日本の統治機構が確立し、その上での庶民の生活が豊かさと共に行われた点にある。それは江戸の持つ豊かさに惹かれ多くの人が江戸に集まり、「人返し令」が出るほどであった。しかし、幕府は江戸への流入を押さえようとしたが、疲弊した地方・農村からの流入をとどめることはなかった。人、モノ、金、情報が江戸に集中し、その豊かさは地方の人間にとって極めて魅力的であった。一極集中というと全てその集中に問題があるかのように思われるが、集中することによって新たな魅力もまた生まれてくる。当時の世界都市にあって、パリを凌ぐ120万人もの人が集中したのは何故なのか、そして都市に住む人々、庶民のライフスタイルが作られていく。例えば、それまでの武家社会にあっては、日の出と共に起き、夕に眠ることが基本の日常であり、食事といえば1日の食事は2回であった。しかし、江戸は諸大名を統治する政治都市としてスタートしたが、同時に次第に関西をしのぐ商都として、更には軽工業都市としても発展していく。結果、1日の食事は3回となり、24時間都市の芽さえ出てきた。

封建制を壊した市場経済

江戸時代を封建社会と呼んでいるが、この「封(ほう)」とは領内という意味で、領内での自給自足経済を原則とした社会の仕組みのことである。鎌倉時代からの荘園経済、荘園と荘園との境に生まれた市場の先にある村落共同体をベースとした経済であった。しかし、度重なる飢饉と貨幣経済によって、天保の時代(1800年代)に大きく転換する。その転換を促したのが「問屋株仲間制度」の撤廃であった。今日でいうところの規制緩和で極論を言えば素人も参加できる自由主義経済の推進のようなものである。しかし、幕府は問屋株仲間からの上納金(冥加金)がとれなくなり、10年後に撤廃するのだが、この10年間によって市場経済は大きく変わっていく。

江戸時代の商人は、いわゆる流通としての手数料商売であった。しかし、この天保時代から、商人自ら物を作り、それまでの流通経路とは異なる市場形成が行われるようになる。今日のユニクロや渋谷109のブランドが既成流通という「中抜き」を行ったSPAのようなものである。理屈っぽくいうと、商業資本の産業資本への転換である。
実は、この「封」という閉じられた市場を壊した中心が「京都ブランド」であったことはあまり知られてはいない。この京都ブランドの先駆けとなったのが「京紅」である。従来の京紅の生産流通ルートは現在の山形県で生産された紅花を日本海の海上交通を経て、軽工業都市京都で加工・製造され、京都ブランドとして全国に販売されていた。ところが1800年頃、近江商人(柳屋五郎三郎)は山形から紅花の種を仕入れ、現在のさいたま市付近で栽培し、最大の消費地である江戸の日本橋で製造販売するようになる。柳屋はイコール京都ブランドであり、江戸の人達は喜んでこの「下りもの」を買った。従来の流通時間や経費は当然半減し、近江商人が大きな財をなしたことは周知の通りである。

江戸と京

江戸の人達はそれまでは京ブランド、「下りもの」を珍重していたが、次第に江戸固有、江戸ならではの主張が生まれてくる。前回の未来塾にも書いたが、京という「外」からの取り入れ方として、まず「食」から始まっている。
当時の食の流通は行商人と屋台であった。この流通がそれまで無かった珍奇なものを流通させていた訳だが最初は庶民にとって何を売っているのか分からなかったと言われている。例えば、醤油の煮汁の中に入れた「つみれ」や「ゆで卵」→今日言うところのおでん、小魚を串でさして油で揚げたもの→てんぷら、小さなにぎり飯に安魚をはりつけたもの→握り寿司・・・・・こうした新しい、珍しい、面白い「食」を広めたのは行商人達で「名調子」「口上」という、いわば今日で言うところのイベント販売、バイラルマーケティングと同じ販売手法であった。そして、江戸の人たちを熱狂させた「初物」商品では、「初鰹」が一番の人気で上物の初鰹には現在の価値でいうと20~30万円もの大金を投じたと言われている。”初物を食べると75日寿命がのびる”という言い伝えからで、「旬」が身体に良いことは江戸時代から始まっている。こうした初物人気を懸念して幕府は「初物禁止令」を出すほどであった。やはり、顧客接点である「流通」が新市場創造のリーダーシップを果たしていたということである。

こうした江戸時代の自由な発想、自由な流通も実は「何か」に対しての「違い」を創ることから生まれたものである。今日の類似競争時代と同じで、江戸時代の違い創造の鏡となったのが「上方」であった。「上方」でつくられたものに対し「下りもの」(今日で言うところのくだらないもの)に一工夫、一アイディアを付け加えることにより「新しい、珍しい、面白い」世界の創造をしていた訳である。例えば、よく食べられていた豆腐料理の「田楽」などは、「上方」では股のある2本の竹串で白みそであったものに対し、江戸では1本の竹串で赤みそといった具合に小さな「違い」を創っていた訳である。米国のNYとシカゴのような関係と同じである。そして、前回の未来塾にも書いたように、全くの「新」については海外からの輸入品で、例えば「象」まで輸入していた。

エンターテイメント都市

ところで、当時の江戸は火事が多く、1日3回の食事をしないと力がでなかったためと言われるほどであるが、定かな研究をまだ目にしてはいない。推測するに商工業も発達し経済的豊かさが反映していた結果であろう。その食事回数の増加を促したのが庶民にとっては屋台や行商であった。新たな業態によって新たな市場が生まれた良き事例である。この屋台から今日の寿司や蕎麦などが進化していく、いわゆる今日のファーストフーズである。江戸時代こうした外食が流行ったのも今日とよく似ている点がある。大雑把に言うと、江戸の人口の半分は武士で地方からの単身赴任が多く、庶民も核家族化が進み、独居老人も多かったという背景があった。今日で言うところの個人化社会である。また、「夜鳴きそば」という言葉がまだ落語の世界では残っているように屋台や小料理屋は24時間化し、更には食のエンターテイメント化が進み、大食いコンテストなども行われていたようだ。つまり、生きるための必要に迫られた食から、楽しむ食への転換である。ちょうど生きるための食が楽しむ食へと変化したのは、昭和から平成へと変わるパラダイム転換に酷似している。
ところで江戸の後期には「冬場の焼き大福」「夏の冷水」「既に切ってあるごぼうや冬瓜」といった物にサービスを付加したものが売られ、幕府は自由で便利になりすぎたとして規制するまでになったと言われている。今日でいうところの小さなサービス付加・アイディアが、食ばかりでなくあらゆるところで行われていた。その中でも今なお伝えられているのが周知の越後屋(現三越)のアイディア商法であろう。当時掛け売りであった商売を現金売りにして薄利多売をしたことで成功したことは良く知られている。また、インポート物のさえたる商品である絹製品を反物ではなく、小さく切り売りして大評判を得たことが代表的なアイディアで、それら小さな絹は様々なアクセサリー小物に使われ、それを見た人がまた真似をするといった具合に小売業はアイディア業であることが江戸時代に存在していた訳である。
前回の未来塾で垣根のない「長屋社会」の暮らしについて書いたが、様々な商売の住民が集まっていた。ちなみに冬の間だけ江戸に出稼ぎに来る人々のことを椋鳥(むくどり)と呼ばれ、仕事はまき割りなどの雑用や駕籠かきまでやっており、重宝されていた。こうした多様な長屋住民に対し、生活の多くの物品やサービスを提供していたのが行商であった。売るものはと言えば、勿論鮮魚や農産物はもとより、金魚・こおろぎ・飴・かりんとう・お水・お団子・茶碗・しゃぼん玉・ところてん・ざる・箒・もぐさ・七味唐辛子・・・・・・そして、それぞれ長屋に来る曜日や時間がほぼ決まっており、これで生活するには十分であったようだ。

長屋住民の楽しみ

その代表的な楽しみが今なお続く隅田川の花火大会であろう。周知のように1733年から始まった花火大会であるが、前年は大変な凶作で数百万人もの餓死者が出てしまい。更に江戸市内ではコレラが大流行し、多くの死者が出た。8代将軍吉宗は死者を鎮魂するために水神祭を開催したのが始まりであると言われている。
こうした楽しみの他にも花見に月見、相撲、舟遊び、あるいは行商から購入するコオロギの虫聞きといった風流な遊びまであった。行商からコオロギを買うというのは、それまではどこでも聞けた虫が江戸が都市化されていくにつれ購入せざるをえなくなったということである。今日のカブトムシを買って夏の宿題の研究テーマとしていることと同じである。

そして、今日の楽しみを彷彿とさせるのが旅行である。江戸時代においては五街道というインフラが整備され、お伊勢参りは最大の旅行イベントであった。安全・安心の時代の楽しみは何と言っても観光である。生涯そこで暮らすという「居住」ではなく、自在に移動ができる「滞在」としてのライフスタイルとなる。長屋生活でも少し書いたが、モノはできるだけ持たないようにし、トイレや炊事場所を共同で使う。しかも、循環型社会として、トイレにたまる糞尿ですら近隣の農家の肥料として使う。そんな糞尿が年間で2両にもなったと言われており、町内施設の補修などに使われていた。江戸時代は「レンタル社会」で、貸本屋だけでなく、手ぬぐい1本から墓参りの代行までを引き受ける「損料屋」という商売があった。勿論、犬や猫のペットレンタルもメニューにあった。
現代においてはこうした滞在型、常に移動を繰り返す社会にあっては「向こう三軒両隣」的なコミュニティを形成することは極めて難しい。江戸においても引っ越しが頻繁に行われていたが「長屋コミュニティ」を運営する「人」(大家)と明確なコミュニティのルールがあった。また、趣味という分野においては「連(れん)」という身分・階級を超えて結びついたクラブのようなものが存在していた。今日に於いては、エリア(場)においてはそうした人もいなければルールもない。マンションを始めとしたデベロッパーはその開発コンセプトに”こんな考え方の人たちのマンション・エリア”という思想が欠けているのだ。江戸時代の住まい方では長屋はベッドルーム、銭湯や寄席がバス&リビングで長屋を中心としたエリア(町)が我が「住まい」であった。最近ではやっと「車好き」のタウン開発や「ペット好き」のマンション等が開発され始めたが、コンセプト無きマンション、コンセプト無きエリア開発が多すぎる時代にいる。

浮世という考え方

江戸時代、庶民のライフスタイル全般を表した言葉が「浮世」である。今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。

元禄バブルとその崩壊

今日のライフスタイルの原型は江戸にありその成熟した生活について書いてきたが、江戸時代にも好不況の波は存在していた。未だ記憶に残るリーマンショック以降の大不況について1929年に始まった世界恐慌の事例を持ち出す専門家もいたが、江戸時代の不況事例を持ち出す専門家、歴史研究者は皆無であった。勿論、日本一国の不況と市場が世界に広がる時代の不況とでは参考にならないということだが、当時の幕府(政府)がどんな改革という不況対策を採っていたか、奇妙に符号する点もあった。

江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。NHKの「天地人」ではないが、周知のように戦国の世は終わり、江戸時代は天下泰平の世となった。この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代である。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年~)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。
貨幣経済は地方へと広がり、前述の紅花や木綿なども各地で栽培され、瀬戸内の塩や京都の日本酒が全国各地へと流通する。鉱山(金銀銅)開発が積極的に行われ、それらを基に海外からどんどん舶来品を輸入していった。桜が盛んに植えられお花見が庶民の季節イベントになり始めたのもこの頃である。まさに「消費都市」として爛熟した文化を咲かせた時代であった。

しかし、元禄期の後半にはそうした鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、市場は競争市場となり、米価も下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。翌年行われたのが前述の両国の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。

8代将軍吉宗は老中水野忠之や江戸町奉行大岡忠相というブレーンと共に、江戸市民の声を聞く「目安箱」を置き、民意を生かした行政を行う。この目安箱に町医者が投じた意見書から生まれたのが小石川養生所である。貧しい町民の医療を含めたセーフティネットであるが、山本周五郎が描いた小説「赤ひげ診療譚」の舞台となった施設である。
こうしたセーフティネットの背景には吉宗の改革ポリシーが明確にあってのことであった。一言でいえば、元禄バブルによって、心が荒み、本来もっていた優しさを取り戻したい。財政の赤字改善だけでなく、「こころの優しさ」をもということになる。この吉宗のポリシーは、後の松平定信に引き継がれる。それは、「七分積立金」という寄付制度で、町会費を節約してもらい、その節約分の七分(70%)を小石川療養所の運営費に充当してもらう制度である。おもしろいことに、この制度は明治政府になっても「東京市立養育院」となって続き、水道や道路整備更に築地の埋め立てなどにも使われた。

こうした吉宗による享保の改革はいわば社会福祉政策と呼ばれているが、そこには町民への明確な「権利と義務」を明らかにした上でのことであった。江戸は木造家屋であったことから火事は日常的にあり、安全・安心のための最大課題であった。当時の消防は、武士(行政)によるものであったが、町民自身も消防に参加すべきとし、「町火消し」制度が創られる。町火消しの番所建設費やその運営費は町民の負担とした。つまり、権利と義務を明確にしたのである。この延長線上に、災害時の食料を確保するための「囲い米」を保管する倉庫を作り、これも「七分積立金」の中から拠出させた。ある意味、不況対策は新しい町づくりとして、町単位での経済・社会運営をまかせ、世界に類を見ない都市国家を創ったと言える。

不況時の改革はこのように「町づくり」という市民参加によるものと併行して行われた。それは何よりも、市民の認識を変え行動することによってのみ変革は可能だということだ。そして、ある意味豊かな都市づくりが可能となったのも、江戸の生活が町単位という小さな単位であったからである。当時、江戸は「八百八町」といわれていたが、実際には1000以上あったようで、互いに「隣の町より良い町にしよう」と競い合っていた。お金を持っている人はお金を出し、力のあるものは労力を出す、経験ある者は知恵を出す、そんなことが当たり前のこととして通用する社会が実現していた。(後半へ続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:19Comments(0)新市場創造