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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2013年02月25日

昭和と平成、その狭間に見えるもの

ヒット商品応援団日記No546(毎週更新)   2013.2.25.

平成世代と団塊世代の消費観比較について書くとなると、どうしても一般的な世代論になってしまう。そこで消費を含め、その時々の社会事象やその裏側に潜む価値観を対比させることによって、どこまでうまく表現できるか分からないが、新たな市場創造への着眼を点浮かび上がらせてみることにする。
そうしたことから「昭和と平成、その狭間に見えるもの 」とした。実はこの視座の重要性、いや生きざまを変える程の価値観の転換を感じ、後半人生にはその転換故に書くことができなくなったと語ったのがあの作詞家阿久悠さんであった。阿久悠さんは、薄くなってしまった歌謡曲の存在、昭和について次のように書いている。

『昭和と平成の間に歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っているということである。それを私の時代と言うのかもしれないが、ぼくは「私を超えた時代」の昭和の歌の方が面白いし、愛するということである。』(「歌謡曲の時代」阿久悠 新潮社刊より)

◆ブランドとランキング
昭和と平成の商品を買う時の購買指針・方法の違いである。昭和においてはまだまだモノが不足していた時代の差別化手法として、モノの卓越性、名声、贅沢さといったプレステージ感を創造するために「ブランド化」がマーケティングの中心となった。
例えば広告をうまく多用するサントリーでいうと、サラリーマンの飲むウイスキーはまず「トリス」か「サントリーレッド」であった。次に「サントリーホワイト」、そして「角」、目標は「サントリーオールド」。勤続年数と共に所得も増え、次のクラスの目標としてのブランド=自己確認でもあり、社会的な見られ方もまたあった時代である。素直な気持ちで言えば”早くオールドを飲みたいな”という所得=価格=一種のプレステージがあった時代と言えよう。価格もそうしたマーケットポジションを踏まえた価格帯となっていた。阿久悠さんのいうところの世間がそうしたプレステージを認めていたということである。サントリーのウイスキーの例のように、1960年代からの顧客設定は所得&デモグラフィック的属性を踏まえた「マス顧客」であった。
一方、平成においてはモノは溢れ、購買の指針となるべき情報も過剰で、ランキング情報を指針として活用することとなる。ランキングを上位とするための「やらせ」が横行することから、信頼できる口コミやお試し体験などを併用する。
昭和から平成への変化は、「マス(塊)」→「分衆・小衆」→「個人/私」、今や「one to one」マーケティングへと移行してきた。こうした変化の予兆は既に1980年代後半に起っていた。当時、郷ひろみと結婚した二谷百合江の「愛される理由」が100万部を超えるベストセラーになった。そこにはモノ不足への飢餓感は全くなく、あるのは精神的飢餓感が至る所に見られた本であった。一言でいうならば「モノ充足」を終え、「心の充足」へ、次へと移行した時期であり一つの転換点としてあった。そして、その後1990年代後半から本格的なインターネット時代を迎える。過去10年間で流通する情報量は500倍以上と言われているが、昭和と比較したとすれば、恐らく1000倍以上もの過剰情報時代の購買となった。販売手法もマスメディアを主としたブランドマーケティングとネットメディアであるSNSといった人と人とのつながりを活用したマーケティングの違いとなる。
阿久悠さんが言う「私を超えた時代」を別な表現をするとすれば、誰もが同じ時代の雰囲気、空気感のようなものを共有できた時代であったということである。例えば、幼年〜少年少女期に刻み込まれた原風景、心像風景は、「Always三丁目の夕日」に描かれているような集団就職、路面電車、ミゼット、フラフープ、横丁路地裏、他にも月光仮面、力道山、テレビ、メンコやビー玉それら全てを含めた生活風景である。
一方、平成は「私」そのものを第一義とした時代である。渋谷109ではないが、「かわいい〜」は世界のファッションのキーワードとなった。よく使う「かわいい」という表現、”これってかわいい”は「かわいい私よね!」という自己確認であり、他に対する確認であるとは小売業にとって良く知られていることである。10数年前からのマイブームもそうであるが、「私のお気に入りのモノ」「私のお気に入りの場所」「私のお気に入りの時間」・・・・・大仰に言えば、全て「私」の世界へと豊かさを求めてきた戦後60年であり、消費も「私」に沿うようにビジネスされてきた。
その「私」の購買は昭和が世間が認めたブランドとは異なり、過剰な情報社会のなかでランキングという世間化された情報によって指針とする。結果、どういうことが起きるか、昭和の顧客はフアンとして長い付き合い、ロングセラーとなるが、平成の顧客はランキング上位に位置づけされれば急速に集中的に売上を伸ばすベストセラーとなる。しかし、ランキングが落ちれば売上はぱたっと止まることとなる。こうした極端から極端への急激な変化、商品だけでなく、行ってみたいエリア、活用したい情報、あるいは会いたい人物への集中化現象が多発することとなる。

◆2つの思い出消費
思い出は人生時間が長い団塊世代だけのものではない。平成世代にとっても短い時間ではあるが思い出はあり、それらを消費することはある。例えば、平成世代の両親は夫婦共稼ぎが一般標準となり、「おふくろの味」は家庭での手作り食ではなく学校給食とコンビニとなった。10年程前から「食育」が子育ての大きなテーマとなっているが、その中のメニューには郷土食がある。その郷土食とは本来家庭でつくる日常食のことである。それらは家庭ではなく学校給食として提供され、卒業数年後にはコンビニのヒット商品にもなる。平成世代はコンビニで「おふくろの味」を買い求め、思い出を消費するのである。そうした思い出消費のヒット商品の一つが学校給食で出された揚げパンであろう。
もう一つ着眼すべきがOLD NEW、昭和にとっては懐かしい過去であるが、「古(いにしえ)が新しい」と若い世代にとっても新鮮な興味関心を喚起し、新しいマーケットを創造している消費である。その代表的ヒット商品が「角ハイボール」であろう。団塊世代にとっては懐かしいアルコール飲料であるが、今また飲むかと言うと頻度多く飲むことは無い。アルコール離れが進んでいる若い世代にとってすら、まさに「古(いにしえ)が新しい」飲み物として急速に浸透した。
また、最近のこうした事例としては、なんといってもナポリタンであろう。昭和世代ではスパゲッテイ、平成世代にとってはパスタであるが、東京新橋にある洋食の「むさしや」には年齢を問わずサラリーマンが行列をしてでも食べにくる店となっている。このナポリタン人気を含めB級グルメ下町の洋食屋が見直され、更にはナポリタン専門店も新規出店し始めている。
ところで昭和を思い出消費市場としたブログは以下のようなキーワードとしてブログに書いた。

・人生コンセプトへ(2006年6月7日)
・少年少女回帰(2006年7月9日)
・現代隠居文化(2006年8月9日)
・好きは未来の入り口(2006年8月13日)
・団塊世代の心象風景(2006年8月16日)
・ふるさと回帰市場(2006年9月713日)
・世代文化の衝突(2007年3月14日)
・昭和と平成の段差(2007年5月72日)
・時代おくれ(2008年3月13日)
・個族と家族(2008年5月18日)
・「過去」の中の未来(2008年7月30日)
・昭和がまた一人亡くなってしまった(2009年5月6日)
・また君に恋してる(20108年5月27日)
・昭和と平成のアイドル(2011年1月17日)

ブログを書き始めてから約7年半ほどになるが、上記ブログは団塊世代がどんな時代を送ったのか、そしてどんな市場を形成してきたかを、平成世代と比較しながら、時には阿久悠さんの歌謡曲を借りたり、忌野清志郎さんの追悼文のなかに「世代像」や「時代風景」の断片を書いてきたものである。どんな内容かは、タイトルをある程度キーワード化しているので推測され読んでいただきたい。
昭和は「Always 三丁目の夕日」以降、レトロテーマパークから昭和の街並、駄菓子屋、今なお残る下町の商店街、あるいはナポリタンと同じような意味でジャガイモカレー等至る所に商品化されている。
こうした記憶を辿った再商品化、再商店街化する動きは東京のみならず青森の「津軽百年食堂」のように全国へと広がっている。キーワードとして言うならば、おふくろ回帰であり、ふるさと回帰である。そして、それらは、横丁、路地裏、そして食堂に今なお残っている。国民食ラーメンの場合は全国に100カ所ほどテーマパークがあり、そのなかでも横浜のラーメン博物館や東京駅のラーメン横丁が注目されているが、全国の食堂をテーマパーク化した食堂街は未だ無い。食堂こそその土地ならではの食文化の集積場所、平成世代にとってOLD NEWとなる。昭和世代にとっては懐かしいものであるが、平成世代にとっては文化体験楽習する良き場所になるということだ。そして、現在のビジネス課題はいかに初期投資を軽くできるかである。居抜きは店舗だけではない。裏通りにある街並も居抜きとして活用できる。エリア全体としてマーケティングするのであれば、そうした知られていない路地裏食堂を含め「昭和」をテーマに街コンでもやればよいのだ。まだまだ市場はあるということである。

◆消費増税へ、共通する着眼は「Reの発想」
昨年9月のブログに消費増税前に、しかも金利の安いことから住宅購入が盛んになると書いた。TV局を含めマスメディアはやっと最近になって住宅展示場やマンションショールームの来場者急増を報じているが、生活者はいち早く購入予定を早め昨年後半ぐらいから購入へと向かっている。つまり、生活計画を立て、多くの物件や金利動向などの情報を集め、現段階では具体的な検討に入るキョロキョロ消費の最終段階ということである。駆け込み需要としての住宅ビジネスとしては半分以上勝負がついてしまったということだ。
世代を超えた消費心理として、5%と8%の税率の差は買物が大きい順に検討に入り決断していく。これもどれだけ合理的なお得を得るかというコスパ型生活の知恵である。この延長線上にあるのがスマートハウスであり、スマートマンションということだ。そして、昭和世代が頭金を出し、平成世代がその後のローンを支払っていくというパターンが基本となり、家族への再認識と共に2世代住宅、3世代住宅も増えていく。
そして、購入予定ということもあるが、次なる大きな買物は何か、それは自動車ということになる。順次家電等の耐久消費財から日常商品へと移っていく。ちょうど1年後の今頃には食品が買いだめのタイミングとなる。
こうした大きな消費の動きとは別に昭和世代と平成世代の消費増税への向き合い方は異なるものとなる。この向き合い方の背景・根底にあるのが個人化社会の進行である。日本における人口構造上の問題で一言でいえば少子高齢化社会である。平成世代は少子化であり、昭和世代は高齢化である。
多くの問題指摘があるが、ここでは消費という日常での出来事についてどうあるべきか問題提起をしてみたい。2つの異なる世代にとって共通することは「居場所」の在り方である。昭和世代の孤立死を始め買物難民は地方だけでなく都市に於いても同様である。最近では団地内コミュニティに100円カフェをつくったり交流を深める居場所づくりが始まったが、それまではゲームセンターやカラオケがシニア世代の居場所となっていた。
一方、平成の若い世代にとっての居場所であるが、スマートライフというコスパ型生活となる。その代表的な居場所がLINEのような仲間内世界である。また、住居では現代版下宿であるシェアーハウスということになる。
私は年齢を超えてバラバラとなった個人を個族と呼んできた。こうした個族の増加と比例するかのように空家が増加している。少し古い2008年のデータであるが、全国の住宅約5759万戸の中で空家は約756万戸、空家率は13.1%となっている。空家率が最も高いのが山梨県の20%で次いで長野県の19%となっている。首都圏ですら11%にまで上昇してきた。東京では古くなった多摩ニュータウンのような団地再生、新たなコミュニティづくりが始まったが、住宅ローン減税の拡充も必要とは思うが、こうしたコミュニティづくりへの税制を含めた支援も必要だと思う。
こうした世代による消費増税への向かい合い方の違いはあるが、人口構造の変化に伴い「既にあるものを生かし切る」という共通した対応、そうした芽が数年前から出てきている。その象徴であるが、住宅の空家を生かすだけでなく、例えば東京千代田区では少子化から児童数が減り廃校となった学校を若いビジネスアーチストのオフィスへと開放している。過疎地の廃校となった小学校をオフィスに転用するといった発想以外にも、生ハム製造工場や魚の養殖にも活用されている。都市周辺の工場跡地には野菜工場が作られたり、商店街の空き店舗は保育園になったりしているが、全ての発想・アイディアの根底にはReがある。消費増税への対応の基本はキーワードとして言うならば、Reの発想ということになる。既にあるものを、再び、生かし切る、復活、復元、再生、再使用、勿体ない、といった日本文化固有の価値観である。消費価値観の変化にも潮目があるとすれば消費増税であり、その潮目の先にはReの世界があるということだ。そして、企業も、生活者も、見直し着眼の第一はReであり、このメガ潮流は加速する。
より具体的に言うと、リメイク、リデザイン、リサイクル、リフォーム、リノベーション、リコンストラクション、リヴァース、勿論リバイバルもそうである。間違ってはならないのは、それら全て「既にある」元の延長線上にあるReではない。全く別ものとして、新しいコンセプトの下でのReである。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:46Comments(0)新市場創造

2013年02月17日

オタクと草食系

ヒット商品応援団日記No545(毎週更新)   2013.2.17.

平成世代と団塊世代の消費について、その異なる価値観を対比させることによって、時代そのものが要請する共通するものと世代ならではの違いについて書く予定であった。ところがあの誤認逮捕の原因となったPCの遠隔操作事件の容疑者が逮捕されたというニュースが飛び込んできた。Torという名前は知らなかったが、インターネットの接続経路の匿名化が可能なソフトがあるということだけは知っていた。興味をひいたのはそうしたソフトではなく、容疑者の年齢とその生い立ちについてであった。報道によれば過去8年前にも2ちゃんねるに書き込みをした「のまねこ事件」の犯人であったという。その裁判を傍聴した人物によると高校時代には陰惨ないじめにあい、大学でも空気の読めない奴と言われ中退したという。更には、警察によって自宅から押収された2台のPCは自作のもので、秋葉原のねこカフェもよく利用していたと。そして、容疑者の年齢は30才であると。

これだけの情報ではあるが、アキバに集まる多様なオタクのなかの技術系オタク、典型的なオタクの一人である。5年半程前に真性オタクは既に秋葉原にはいないとブログに書いたことがあった。モノマネだけのメイドカフェなどのブーム消費地、観光地化した秋葉原、そんなアキバを嫌ってオタクがいなくなったという指摘であった。
しかし、今回の「なりすまし事件」は勿論やってはならない犯罪ではあるが、固有なサブカルチャーを産み出す土壌はこうしたオタク達によってである。このオタクという呼称は、例えばアニメの世界でいうと、微妙に違う美少女の色合いにまで注視する、一種の「過剰さ」に対してである。私が興味深くニュースに接したのはこの「過剰さ」についてであった。

この事件の容疑者の年齢は30才。2年程前「under30」という名称で若い世代の価値観、欲望喪失世代として指摘をしたのが日経新聞であった。私の場合は平成生まれからunder30ぐらいまでの世代を平成世代と読んでその消費を分析することにしている。
ところでこの平成世代の特徴を草食系と呼び、あたかも欲望を喪失してしまったかのように見える世代である。草食系男女のライフスタイル特徴と言えば、車離れ、アルコール離れ、ゴルフ離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、・・・・多くの「離れ現象」が見られるからである。
つまり、オタク的世界から見ていくと、「過剰さ」「過激さ」の対極にある「バランス」や「ゆるさ」への志向をはかってきた世代で、1980年代から始まった仮想現実物語の終焉世代と私は位置づけをしている。ところが、今回の事件から見えてくるのは、この仮想世界への過剰なのめり込みである。その根底にはいじめや「のまねこ事件」による警察への恨みががあったのかもしれない。ああ、まだ真性オタクはいたんだというのが素直な感想であった。

一方、「バランス」よく誰とでもうまく付き合うゆるい関係、空気の読める仲間社会を指し「だよね世代」と呼ばれている。最近のヒット商品であるスマホの無料通話ソフトLINEの一番の愛用者である。そもそもLINEは「だよね」という差し障りの無い世界、空気感の交換のようなものである。オシャレも、食も、旅も、一様に平均的一般的な世界に準じることとなる。他者と競い合うような強い自己主張はない。結果、大きな消費ブームを起こすことはなく、そこそこ消費になる。こうした関係消費のヒット商品がLINEであり、「だよね」コミュニケーションの延長線上にある。そして、学生から社会へと、いわゆる競争世界に身を置き、それまで友達といったゆるいフラットな世界から否応なく勝者敗者の関係、あるいは上下関係や得意先関係といった複雑な社会を生きる時、そうした仲間内から外れたのが今回の遠隔操作事件の容疑者であろう。その避難場所として現実世界のどこかではなく、ネット世界とねこカフェという仮想世界を選んだということだ。

ところで特徴のない、というより強い消費欲望が現れてこない世代ではあるが、ここ1〜2年で新しい価値観の下での消費が見え始めてきた。前述のLINEもそうであるが、あるいはこの世代にとって話題&注目され人気となっている昨年のヒット商品「俺のフレンチ」のように独自なコストパフォーマンスへの考えが見て取れる。そして、一皿1000円以下の本格フレンチを立って食べるのもコスパスタイルということである。
そして、このコスパ志向の新価値を1年前私は「スマートライフ」と名づけた。以降、ハウジングメーカーを始め、続々と「スマート」というキーワードが使われるようになった。一言でいうと、新しい合理性を追求した価値世界であるが、スマホやスマートハウスだけでなく、既に市場にある新しい合理的商品、例えば車の場合はHV車であり、ガソリン車ではあるがリッター30キロを走る軽自動車も購入価格や燃費を考えたスマート商品として加わるかもしれない。

さてこの新しい合理主義的価値観は広がっていくであろうか。勿論、世代を超えた時代が求める基本価値として生活の隅々まで浸透していく。つまり、「何が合理であるか」が、あらゆる消費の最大キーワードになっていくということだ。数年前キーワードとなったわけあり商品もこうした合理的商品の一つであり、ライフスタイルを考えていくとより鮮明な消費スタイルが浮かび上がってくる。例えば大家族の場合は業務用食品ストアで大量に買うことが合理主義となり、単身者やDINKSのような場合は小単位、食べ切りサイズが合理主義となる。1980年代から始まった個性化の時代、好き嫌いが消費の第一義であった時代を終え、価格認識に基づくライフスタイルサイズの合理主義の時代に入ったということである。

団塊世代と平成世代の価値観を対比させながら、その消費価値観の違いと共通するものを浮かび上がらせようと思ったのだが、遠隔操作事件の容疑者が逮捕されたとのニュースが頭の隅にこびりついていて、平成世代における2つの価値観について書くことになった。消費を含め、欲望を喪失してしまったかの如き世代ばかりではなく、過剰さが溢れ出たオタク達もまた浮遊し存在していたということだ。
世界からクールジャパンのシンボル的存在としてアニメやマンガが見られてきたが、そもそもその発祥の経緯を考えても分かるが、サブカルチャーではなくカウンター(アンチ)カルチャーであった。既存、既成へのアンチ、反というエネルギーを内在させたものであり、過剰さこそがその証しでもあった。注視されてきたのは日本の精神文化であったということだ。容疑を否認しているので確定的なことは言えないが、遠隔操作事件の容疑者のような技術系オタク、道を外れなければホワイトハッカーにもなり得たオタクである。また周知のAKBオタクも既成カルチャー、音楽業界を席巻してしまった。このAKB48が現実空間、アナログ空間のアイドルであるのに対し、周知の初音ミクはネット上のアイドルとして多くのユーザー、オタク達によって仮想空間で育てられた。

話が少し横道にそれたが、こうしたオタク達は過剰さこそが「居場所」となり、バランスの取れたゆるい関係の草食系とは反対の極に位置している。非合理的であり、スマートではない世界である。しかし、過剰さという土壌から産まれたAKB48はオタク達の手を離れ既成音楽産業へとマスプロダクト化の道へと進んできた。一方、初音ミクも同様にネット上で育てられ、仮想世界から演劇やコンサートへとマスプロダクト化の道へと歩き始めた。一見非消費的世界に見えるが、決してそうではない。今後オタク文化ビジネスは様々なところに生まれてくる。
次回は当初のテーマである平成世代と団塊世代の消費について、その異なる価値観を対比させることによって、時代そのものが要請する共通するものと世代ならではの違いについて書いてみたい。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:50Comments(0)新市場創造

2013年02月10日

加速するキョロキョロ消費

ヒット商品応援団日記No544(毎週更新)   2013.2.10.

2008年9月のリーマンショック1ヶ月半後、「ねじれ現象」というテーマでブログを書いたことがあった。その「ねじれ」とは資源を持たない日本の場合、川上(輸入価格)ではインフレ、川下(消費接点)ではデフレというねじれた構造的問題についてであった。そして、今また円安で輸出企業はトヨタを始め良い決算となるようだが、原材料を輸入に頼る内需関連企業はその狭間で更に苦悩することとなる。興味深いことに、そのリーマンショック翌年2009年上期の日経MJによるヒット商品番付は東西横綱には「インサイト、プリウス」及び「ファストファッション(H&Mやフォーエバー21等)」となっているが、その根底にあるのは「安さ」であった。大関の「gu(990円ジーンズ)」や「下取りセール」以下、そのほとんどが価格の「安さ」がヒットの背景・理由となっている。横綱にランクされた「インサイト、プリウス」も価格設定のうまさとエコカー減税が販売を後押ししていたからである。

そして、更に注目すべき点としては、従来の番付けには必ず入っていた美容・健康関連商品が入っていないという事実である。勿論、全く生活者の消費から無くなったわけではない。その多くは自身で行なう「セルフ式」で、美容関連で言うならば、自宅でできる美顔器のようなホームケア商品や半身浴といった「美容方法」へと移行した。また、健康分野においても同様で、最大のヒット商品はウオーキングであった。亡くなられた地井散歩のような路地裏散歩から、歴史が刻まれた建造物や寺社巡り、テーマを持ったウオーキングであれば鳥や昆虫、植物のウオッチング。こうした軽いウオーキングと共に、山登りやトレッキングといった本格的なものまで幅広く、奥行きもある。ヒット商品には「山ガール」といったファッションスタイルも注目されたが、共通していることは興味テーマをもったウオーキング、しかもお金もかからないということであった。消費者は明確に不要不急商品の在り方に知恵とアイディアをもって対応しているということだ。

更に象徴的な消費として「わけあり商品」がほとんどの消費世界に浸透、マスプロダクト化したということであろう。以前から「たらこの切れこ」などTV通販でヒットしていたが、規格外といったわけあり商品をいち早く取り入れ急成長したのが中堅スーパーのOKストアであった。大手スーパーも次々とOKストアと同様のエブリデーロープライス業態を出店し、PB商品の開発を拡大していく。この延長線上に、従来はプロ用と言われてきた卸売り市場や業務用スーパーにまで、一般生活者が買い物に出かける現象も生まれた。これら全て生活者が望む「価格観」を表している。
こうした流通の他にも、「わけあって安く仕入れ提供」する世界は寿司チェーン店を急成長させ、和牛一頭買いによる焼肉チェーン店にまで広がり、更には旅館やホテルにも波及した。

というのも今回「ねじれ」が再度表面化するのも、日銀が更なる金融緩和を実施するであろうとの予測のもとで市場が円安へと反応したわけであり、2008年の時のような投機マネーによる世界的な石油価格の高騰による「ねじれ」とはその背景が異なる。しかし、「ねじれ」という構造問題はそのままとなっていて、既に原油価格が上がり始め、ガソリン価格だけでなく、温室栽培農家にも影響が出始めている。このまま推移すれば遅かれ早かれ重油等を使用する漁業関係にも影響が出てくることが予測される。
そして、今回のねじれは「円安」ということから、石油製品だけではなく、輸入品目全体への影響となる。つまり、こうしたデフレ下にあって、輸入に頼る商品群、ある意味インフレ商品群が混在する消費はどのような市場変化、特に消費価格を見せるかである。

この変化には2つの視点からの価格予測及び需要分析が必要となる。一つは円安による輸出入に関する主要国(中国&米国)との変化、特に輸入に頼る原価の変化である。そして、それらを含めた消費現場、つまりメーカーや流通による原価低減のための工夫、メニュー戦略の変化ということになる。どの商品が円安の影響によって高くなるのか、それを安く買う工夫にはどうしればよいのか、以前から指摘してきたように巣ごもりから頭だけを出し、どんな「キョロキョロ消費」を見せるかである。またそうした消費心理を考えたメニュー業態、ビジネス業態が必ず出てくる。
もう一つの視点がインフレの進行に伴う購買行動の変化についてである。特に、インフレ体験を知らないデフレが日常化しそれがあたり前であると考える若い平成世代と50歳代以上のインフレ体験、物価も上がるが給与も上がりバブル体験を含め活発な消費を見せた世代とではインフレとデフレへの消費態度は異なるという視点である。

まず前者についてであるが、早速輸入ブランドのルイヴィトンは2月15日から平均12%値上げすると発表があった。こうした輸入ブランド商品については分かりやすいが、食料自給率が40%程度の日本では輸入依存率も高く、しかも分かりにくい。
小麦粉、大豆、といった商品を原材料とするパンや豆腐はその食品履歴について消費者は熟知しており、値上がりに対しては一定の理解を示すと考える。あるいは回転寿司の人気メニューであるサーモンなどもネタが小さくなるのか、もしくは若干値段が上がるかもしれない。しかし、ラーメンなどの麺類の専門店を始めメニュー化された食品の輸入依存率は極めて高く90%以上となっている。前回のねじれの時もそうであったが、例えば畜産用飼料はほとんで輸入に頼っていて生産された牛乳の依存率は57&となっているが、冬期の暖房用重油が上がると生産者にとって極めて大きな負担となる。結果、値上げというカタチになると予測される。

また、恐らく大きな経営課題となるのが、デフレ業態の象徴でもある「100円ショップ」や「牛丼チェーン」である。「100円ショップ」という価格業態から、例えば「110円ショップ」へと転換することはできない。ましてや、1年後には消費増税が予定されていることから、厳しい経営となる。その「100円ショップ」の最近のMD傾向がオリジナル志向となっていることから、海外生産ではあるが更なる原価の低減が必要となり、どうすべきか模索していることと思う。
ここ2〜3年の「牛丼チェーン」大手3社のメニュー開発を見ていくとわかるが、消費者の低価格志向に合わせるかのように、牛丼→豚丼→焼鳥丼と推移してきている。見事なメニュー対応であるが、今後は更に安い原価でどんな丼を開発するのか、これも模索中であろう。

多くのデフレビジネス、デフレ業態はより安いコストで生産・製造できる国へとシフトしていくのか、新たな付加価値に次のビジネス活路を見出していくのか、大きな転換点となる。こうした更に「安く」するためのアイディアとしては「俺のフレンチ」のような立食いフレンチのような業態への模索、あるいは安さで人気となった居酒屋チェーンのように「セルフサービス方式」への転換。つまり、「安さ」を維持・進化させるために、顧客の側にも分担・負担してもらって値上げをしないというサービス業態への転換である。
こうした転換と共に、生産・製造を国内に求める動きも出てくる。既にアパレルファッションでも福島や山形で縫製するメーカーが出てきたり、輸入サーモンの替わりに養殖魚の比率を高めるといった食品スーパーや寿司チェーンも出てくるであろう。あるいは長崎チャンポン(リンガーハット)のように国内産のたっぷり野菜で顧客層を若い女性に絞り込むという一種のリニューアルを行なうという転換も出てくる。
円安がどこまで進むのかわからないが、1年後には消費増税が予定されている。こうしたなかでのインフレとデフレというねじれ構造における消費である。今までは「更に安いところはどこか」といったキョロキョロ消費であったが、これからは円安情報を踏まえながら、「インフレ商品は何か」「インフレ率(値上げ率)はどの程度か」あるいは「インフレ商品に替わるものは何か」「新たなデフレ商品は」・・・・マスメディアやネットメディア、あるいはママ友やSNSといったパーソナルメディアを通じ、キョロキョロ見回し巣から出たり入ったりする消費となる。
長くなったので、次回はもう一つの視点である平成世代とインフレ体験世代におけるキョロキョロ消費の共通と違いをテーマとする予定である。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:54Comments(0)新市場創造

2013年02月03日

人は自ら育つものである

ヒット商品応援団日記No543(毎週更新)   2013.2.3.

大阪市立桜宮高校における体罰を苦にしたバスケットボール部主将の自殺に引き続き、全日本女子柔道全日本候補選手への代表監督による暴行・暴言といったスポーツ界における問題が奔出している。スポーツと教育、スポーツと指導者、「スポーツとは何か」「教育・指導のあるべき方法とは何か」という本質への問いとなっている。体験に依拠した旧来型のスポ根や愛のムチ必要論と、スポーツは人間形成の一つであり、自らが考え引き受け行動するという自主性そのものに依拠すべきもので、精神論ではなく理にかなった科学的方法をこそ必要とすべき。2つの考えの衝突がメディアを通して語られている。ところがこうした議論の構図、特にマスメディアが用意した文脈にいま一つしっくりこない感がしてならない。

10年ほど前、ビジネスの世界でも「コーチング」が大きなテーマになったことがあった。勿論、人材育成が企業の成長に欠かすことができないという認識のうえで、数年先には団塊世代が定年を迎えどのように経験や技術を継承したらよいのかという課題でもあった。
その継承の根底にある人を育てるコーチングであるが、基本はコミュニケーションであり、インタラクティブであること、継続すること、そして相手に合わせる、ということである。当時は更に踏み込んで、既に表現されている技能や技術は「形式知」は学習すれば良い。そして、伝えたいと考えるコーチの経験則やそれに基づく感、技、知恵、アナログ感性という「見えないもの」をどう伝え継承したら良いのかということが議論の核となった。当時の議論を思い起こすと、体験や経験則はまずマニュアル化し、出来る限りデータベース化、数値化して「見える化」をする努力が多くの企業で採用されてきたと思う。ところがそれでもなお、継承できない、伝えることができないものが残る。それが「暗黙知」の継承、「暗黙知」をどうコミュニケーションしたら良いのかという課題であった。面白いことに、あのP、ドラッカーはそもそもビジネスは「丁稚奉公」であると指摘していた。「見えない」世界を感じ取る方法を丁稚奉公と呼んだのである。日本の就労人口の70%以上を第三次産業が占めており、ホワイトカラーあるいはサービス従業者には「現代の丁稚奉公」が求められているという指摘であった。桜宮高校の顧問教諭や女子柔道代表監督の側の問題指摘だけでなく、伝えられる選手の側、継承される側を含めた相互関係に問題の本質がある。

今回のスポーツに関する事件を見るにつけ、ある意味良き結果を残しているスポーツ界の監督やコーチがどんな履歴をもって監督やコーチとして臨んでいるかを見ていくと共通した「何か」を見出すことが出来る。例えば、ワールドカップ優勝、ロンドンオリンピック銀メダルの全日本女子サーカー監督である佐々木則夫氏、一方ザッケローニ監督の前任者である男子全日本サッカーの代表監督であった岡田武史氏、二人ともに共通することはサッカー経験者ではあるがいわゆる「スター選手」ではなかった。岡田氏は早大卒業後マスコミ志望がかなわず一般社員として古河電工に入社し、サッカー部に入団する。そして、選手として活動するのだが、当時から「考える」サッカーを実践し、後のコーチや監督の在り方にもつながる選手であった。つまり、選手と同じ目線に立つことが出来、失敗体験、出来ない理由などを実感・理解できたことにある。

そうした考えは指導者として広くマスコミを通じ知ることになるが、もう一つの共通項は「過去」にとらわれないということであろう。その過去とは勿論自分の過去体験であり、所属チームの伝統のような過去継承とは異なる、選手本位主義とでも言うべきものである。一見仲良しクラブ、友達関係のように見える監督と選手との関係は全く異なり、シビアなものである。
病に倒れたオシム監督に替わって代表監督となった岡田氏は自分が選手として行なってきた監督・コーチからの指示だけではどうしても世界では勝てない。選手は「監督のロボット」から脱しなければならないという結論に至る。言われたことだけする選手だけではどうしても勝てないということだ。選手の意識を変えるために多くの時間を使ったと後に語っている。そのために、世界で勝つ為にどうすれば良いのか、マスコミを含めベスト4を目指すなんてできっこないと言われたことを思い起こす。ベスト4という一つの限界を超えるために、選手自身の自発性を求めた。これ以上選手にとって厳しいことはない。自ら考え、やってみて、結果を引き受けるというシビアさである。そして、岡田氏は自発性のスタートとして、「自分がどのくらい弱いのか」を把握することから始めたという。間違ってはならない、どれだけ強いかではない。過去からの限界を超えるには素直に弱さを認め、超える為にはどうすれば良いのか自身に問いかけ、行動しなければならない。スポーツに限らず、人も、組織も同じである。
こうした自ら考え行動するチームの風土からは何が生まれるか。ビジネスでいうところのナレッジマネジメントのことであるが、チームリーダーが抜けてもチーム力が寸断されることなく、自然と次のリーダーが生まれてくる。例えば、なでしこジャパンにおけるキャプテン澤から宮間へのバトンタッチが良き例であろう。

ところで渋谷109の代表的専門店であるエゴイストもそうしたビジネス風土を持った企業である。1999年9月、わずか16.9坪という小さな店舗で月商2億8万円という驚異的な売上を残す。マスコミは一斉にエゴイストに注目し、カリスマ販売員、カリスマ店長というキーワードと共に渡辺加奈という名前が登場する。エゴイストもSPA(製造小売業)で、当時は韓国で生地を調達し、製造し、素早く日本に戻り販売する。その結果を踏まえ新たなデザインを起こし、韓国へと飛ぶ。チームを組み、このサイクルを1週間単位で回し続けていくビジネスであった。代表である鬼頭さんにインタビューしながら、アパレルの製造現場を知らない私でもその凄まじい現場の様相が実感できた。以降、渡辺加奈さん、森本容子さん、中根慶子さん、そして熊谷真帆さん、と歴代のカリスマを輩出する。
元々エゴイストのスタートはヨーロッパから仕入れ販売するセレクトショップであった。失敗とはいわないが、それほど売れたわけではなかったと鬼頭さんは話してくれた。そして、渡辺加奈さんという人材と出会い、当時誰も着目しなかった韓国製の生地と製造へと乗り出す。そして、凄まじいほどの限界を超えたビジネスを進めていくこととなる。カリスマリーダーを中心とした自発性に依拠したチーム運営。これもエゴイスト流のナレッジマネジメントである。そして、ものの見事にP.ドラッカーいうところの「丁稚奉公」となっている。番頭であるカリスマ店長の限界を超えるための判断や行動を身近に感じ、学び、体得したことを次なる場で自身生かしていく。それらがつながって今のエゴイストがあるのだと思う。

マスメディアは今回の事件の背後に柔道界を始めスポーツ界に根ざす金メダル至上主義や勝利至上主義を批判するが、目標を目指すことに問題があるのではない。柔道界や学校というたこ壷型構造のなかでの監督やコーチにこそ問題があるのだ。人を育てるのではない、人は自ら育つのである。監督や経営リーダーは自らを含めメンバーの意識改革をこそ使命とし、ナレッジマネジメントやコーチングを活用し、相互に理解・納得して活動する時代となった。その意識とは前監督岡田氏に言わせれば「弱さ」であり、私の言葉では「失敗」であるが、つまり問題はどこにあるのかという認識である。そして、それらを克服すべきは自身であり、選手やメンバーと「出来るための方法」を共有することから始めるということだ。そして、結果、人は自ら育っていく。 (続く)  


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2013年02月03日

人は自ら育つものである

ヒット商品応援団日記No543(毎週更新)   2013.2.3.

大阪市立桜宮高校における体罰を苦にしたバスケットボール部主将の自殺に引き続き、全日本女子柔道全日本候補選手への代表監督による暴行・暴言といったスポーツ界における問題が奔出している。スポーツと教育、スポーツと指導者、「スポーツとは何か」「教育・指導のあるべき方法とは何か」という本質への問いとなっている。体験に依拠した旧来型のスポ根や愛のムチ必要論と、スポーツは人間形成の一つであり、自らが考え引き受け行動するという自主性そのものに依拠すべきもので、精神論ではなく理にかなった科学的方法をこそ必要とすべき。2つの考えの衝突がメディアを通して語られている。ところがこうした議論の構図、特にマスメディアが用意した文脈にいま一つしっくりこない感がしてならない。

10年ほど前、ビジネスの世界でも「コーチング」が大きなテーマになったことがあった。勿論、人材育成が企業の成長に欠かすことができないという認識のうえで、数年先には団塊世代が定年を迎えどのように経験や技術を継承したらよいのかという課題でもあった。
その継承の根底にある人を育てるコーチングであるが、基本はコミュニケーションであり、インタラクティブであること、継続すること、そして相手に合わせる、ということである。当時は更に踏み込んで、既に表現されている技能や技術は「形式知」は学習すれば良い。そして、伝えたいと考えるコーチの経験則やそれに基づく感、技、知恵、アナログ感性という「見えないもの」をどう伝え継承したら良いのかということが議論の核となった。当時の議論を思い起こすと、体験や経験則はまずマニュアル化し、出来る限りデータベース化、数値化して「見える化」をする努力が多くの企業で採用されてきたと思う。ところがそれでもなお、継承できない、伝えることができないものが残る。それが「暗黙知」の継承、「暗黙知」をどうコミュニケーションしたら良いのかという課題であった。面白いことに、あのP、ドラッカーはそもそもビジネスは「丁稚奉公」であると指摘していた。「見えない」世界を感じ取る方法を丁稚奉公と呼んだのである。日本の就労人口の70%以上を第三次産業が占めており、ホワイトカラーあるいはサービス従業者には「現代の丁稚奉公」が求められているという指摘であった。桜宮高校の顧問教諭や女子柔道代表監督の側の問題指摘だけでなく、伝えられる選手の側、継承される側を含めた相互関係に問題の本質がある。

今回のスポーツに関する事件を見るにつけ、ある意味良き結果を残しているスポーツ界の監督やコーチがどんな履歴をもって監督やコーチとして臨んでいるかを見ていくと共通した「何か」を見出すことが出来る。例えば、ワールドカップ優勝、ロンドンオリンピック銀メダルの全日本女子サーカー監督である佐々木則夫氏、一方ザッケローニ監督の前任者である男子全日本サッカーの代表監督であった岡田武史氏、二人ともに共通することはサッカー経験者ではあるがいわゆる「スター選手」ではなかった。岡田氏は早大卒業後マスコミ志望がかなわず一般社員として古河電工に入社し、サッカー部に入団する。そして、選手として活動するのだが、当時から「考える」サッカーを実践し、後のコーチや監督の在り方にもつながる選手であった。つまり、選手と同じ目線に立つことが出来、失敗体験、出来ない理由などを実感・理解できたことにある。

そうした考えは指導者として広くマスコミを通じ知ることになるが、もう一つの共通項は「過去」にとらわれないということであろう。その過去とは勿論自分の過去体験であり、所属チームの伝統のような過去継承とは異なる、選手本位主義とでも言うべきものである。一見仲良しクラブ、友達関係のように見える監督と選手との関係は全く異なり、シビアなものである。
病に倒れたオシム監督に替わって代表監督となった岡田氏は自分が選手として行なってきた監督・コーチからの指示だけではどうしても世界では勝てない。選手は「監督のロボット」から脱しなければならないという結論に至る。言われたことだけする選手だけではどうしても勝てないということだ。選手の意識を変えるために多くの時間を使ったと後に語っている。そのために、世界で勝つ為にどうすれば良いのか、マスコミを含めベスト4を目指すなんてできっこないと言われたことを思い起こす。ベスト4という一つの限界を超えるために、選手自身の自発性を求めた。これ以上選手にとって厳しいことはない。自ら考え、やってみて、結果を引き受けるというシビアさである。そして、岡田氏は自発性のスタートとして、「自分がどのくらい弱いのか」を把握することから始めたという。間違ってはならない、どれだけ強いかではない。過去からの限界を超えるには素直に弱さを認め、超える為にはどうすれば良いのか自身に問いかけ、行動しなければならない。スポーツに限らず、人も、組織も同じである。
こうした自ら考え行動するチームの風土からは何が生まれるか。ビジネスでいうところのナレッジマネジメントのことであるが、チームリーダーが抜けてもチーム力が寸断されることなく、自然と次のリーダーが生まれてくる。例えば、なでしこジャパンにおけるキャプテン澤から宮間へのバトンタッチが良き例であろう。

ところで渋谷109の代表的専門店であるエゴイストもそうしたビジネス風土を持った企業である。1999年9月、わずか16.9坪という小さな店舗で月商2億8万円という驚異的な売上を残す。マスコミは一斉にエゴイストに注目し、カリスマ販売員、カリスマ店長というキーワードと共に渡辺加奈という名前が登場する。エゴイストもSPA(製造小売業)で、当時は韓国で生地を調達し、製造し、素早く日本に戻り販売する。その結果を踏まえ新たなデザインを起こし、韓国へと飛ぶ。チームを組み、このサイクルを1週間単位で回し続けていくビジネスであった。代表である鬼頭さんにインタビューしながら、アパレルの製造現場を知らない私でもその凄まじい現場の様相が実感できた。以降、渡辺加奈さん、森本容子さん、中根慶子さん、そして熊谷真帆さん、と歴代のカリスマを輩出する。
元々エゴイストのスタートはヨーロッパから仕入れ販売するセレクトショップであった。失敗とはいわないが、それほど売れたわけではなかったと鬼頭さんは話してくれた。そして、渡辺加奈さんという人材と出会い、当時誰も着目しなかった韓国製の生地と製造へと乗り出す。そして、凄まじいほどの限界を超えたビジネスを進めていくこととなる。カリスマリーダーを中心とした自発性に依拠したチーム運営。これもエゴイスト流のナレッジマネジメントである。そして、ものの見事にP.ドラッカーいうところの「丁稚奉公」となっている。番頭であるカリスマ店長の限界を超えるための判断や行動を身近に感じ、学び、体得したことを次なる場で自身生かしていく。それらがつながって今のエゴイストがあるのだと思う。

マスメディアは今回の事件の背後に柔道界を始めスポーツ界に根ざす金メダル至上主義や勝利至上主義を批判するが、目標を目指すことに問題があるのではない。柔道界や学校というたこ壷型構造のなかでの監督やコーチにこそ問題があるのだ。人を育てるのではない、人は自ら育つのである。監督や経営リーダーは自らを含めメンバーの意識改革をこそ使命とし、ナレッジマネジメントやコーチングを活用し、相互に理解・納得して活動する時代となった。その意識とは前監督岡田氏に言わせれば「弱さ」であり、私の言葉では「失敗」であるが、つまり問題はどこにあるのかという認識である。そして、それらを克服すべきは自身であり、選手やメンバーと「出来るための方法」を共有することから始めるということだ。そして、結果、人は自ら育っていく。 (続く)  


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