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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2008年08月31日

勝手に広告

ヒット商品応援団日記No295(毎週2回更新)  2008.8.31.

ちょうど1年前、私は鳥取県の都市市場開拓事業の委員を依頼された。引き受けた理由の一つが、人口60万人に満たない日本で一番小さな県の産業活性がテーマであり、鳥取県で成功させることができればそのビジネスモデルは他の県や市町村にも適用することができると考えたからである。以降、委員会での討議をしながら、県内企業のリーダーとも話し合い、現場も見させていただいた。東京にいると、「都市と地方との格差」、あるいは「疲弊した地方」という論議も実感を伴わない抽象論議になりがちである。しかし、行かないと分からないことがいかに多いか実感した1年であった。

以前「今、地方が面白い」というタイトルでブログを書いたが、確かに都市生活者が失ってしまった多くの豊かさが、鳥取県も同様に埋もれたままであった。委員会でも発言したが、鳥取県の代表的な商品の一つに「板わかめ」がある。健康に関心の高い都市生活者にとって格好の商品であるが、添加物が使われ、しかもサイズが大きく一度には食べきれない量だ。つまり、豊かな素材はあっても都市生活者研究が徹底的に足りないということである。一方、都市生活者にとっても鳥取県はほとんど知らない県の一つである。日本地理学会の調査では、お隣の島根県がどこにあるかという認識の正答率は51.5%。鳥取県もほぼ同じような認識しかされていないと思う。

都市と地方、互いに情報を持っていないということから、都市市場の開拓拠点として東京にアンテナショップを創ることが委員会の具体的テーマとなった。多くの人が知っているアンテナショップと言えば沖縄県の「わしたショップ」であるが、「わしたショップ」以外は全て赤字で県が補填しているというのが実態である。委員会においても当然反対の意見、あるいはお金をかけずにできる方法論など検討がなされた。結果として実施となったが、経済同友会など県内企業団体を始め推進要望が強かったことと、その背景には都市市場開拓に向かうにはあまりにも経営体力のない企業が多かったということからであった。

総事業費1億5000万のアンテナショップが一昨日東京新橋にオープンした。(http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=87115)1階は県産品の物販で、2階が県産の食材を使った飲食施設である。従来だと飲食施設は農水産物=和食となるが、イタリアンという洋のスタイルを採用した。素材の持ち味を生かすことにおいては和食もイタリアンも同じである。3種ほどの前菜とパスタを食べたが、なかなか繊細な味で女性を意識した手軽な価格のメニューとなっている。オープン初日、多くのお客さんが行列を作っており、1階の物販では商品の品切れが起きたと聞いている。

売上という事実が第一の顧客評価である。何が売れ、何が売れないか、その理由は何かという情報を得ることが、アンテナショップの目的の一つだ。オープン前に内覧会&プレセールが行われたが、鳥取砂丘と共に知られている県の代表商品「らっきょ」について早くも評価が出てきている。従来のらっきょはカレーの付け合わせの甘酢らっきょであり、そうした甘酢らっきょしか生産者は認識していない。しかし、流通のバイヤーからは、塩らっきょは無いのかという指摘を受けたという。らっきょは血液サラサラ効果として都市生活者には認識されている食材で調理法は多様である。このように生産者の勝手な思い込みによって商品が作られているのが実態である。こうした情報ギャップを生産者・メーカーが認識することから、ヒット商品が生まれる。その仕組みは私が既に提案し、用意されている。今、鳥取県でヒット商品づくりがスタートした。今回のブログはその「勝手に広告」である。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:50Comments(0)新市場創造

2008年08月27日

どこへ行くのか「百貨店」 

ヒット商品応援団日記No294(毎週2回更新)  2008.8.27.

1億総中流時代の代表的流通であった百貨店はその中流市場が瓦解することによって縮小へと向かったことはこのブログでも書いてきた。そして、次なる市場として設定したのが、団塊世代を中心にしたシニア層であった。1550兆円という莫大な金融資産の内、60歳以上が60%を保有しているという「金持ち」に的を絞り、数年前から「大人の百貨店」としてリニューアルしてきた。しかし、売上は低迷し続けていることは周知の通りである。予想以上に消費しないということがやっと分かったからだと思う。そして、次なる顧客設定として10代後半から20代女性を設定し、西武百貨店や松坂屋などが部分リニューアルすると聞く。

団塊世代の保有資産の使い道であるが、2年ほど前に私は「団塊世代の心象風景」というタイトルで書いたことがある。読んでいただいた方もいると思うが、次のように書いた。

『定年を記念した豪華な旅、飛鳥IIの船旅のような旅は一度はあるだろう。しかし、「ふるさと」あるいは「ふるさと的」なところへと日常の旅が始まると思っている。ふるさとは一人ひとり個別であり、ここでは取り上げないが、ふるさとに寄与することを含め多くの団塊世代は戻っていくと思う。ところで「ふるさと的」という意味であるが、幼年〜少年期に刻み込まれた原風景、心像風景のことである。』

その幼年〜少年期についてであるが、

『団塊世代にとっての心象風景は、やはり路地裏にある生活の臭い、物不足な中にも走り回った遊び、少し足を伸ばせば里山があり、四季を明確に感じさせてくれる自然、そんな風景だと思う。そうした昭和30年と今を比較してみると、いわゆる第一次産業(農業・漁業など)の就業構成比は約40%で現在は4.4%、GDPは約8兆6000億で今日の約59分の一であった。つまり、団塊世代はこうした原風景をこころの底に置いて、がむしゃらに働き、「思えば遠くへきたもんだ」と思っている。世界に例を見ない急成長の50年であったが、これほどの大きな変化を創り生活の中に取り入れてきたのも団塊世代だけである。』

つまり、お金は持っていてもそれほど消費的にはなれない世代ということだ。逆に言えば、景気後退=生活後退にいつでも合わせることが出来るということである。この50年間、物質的な貧しさと豊かさを駆け抜けてきたのが団塊世代である。幼年〜少年期にやりえなかったことを今やり始めている。ふるさと的なるものを求めた青春フィードバックそのもので、例えば子供の頃憧れていたパン屋を自宅を改造してやり始めたり、夫婦二人の旅で出会った山間が好きになり移住し農業を始めたりする。そのことで生計を立てるというより、ある意味道楽といった方が正確である。そのことにお金を使いたいのであって、「大人の百貨店」の店頭にある商品を買うことに直接にはつながらない。保有金融資産の大きさに、過大な期待をしたということだ。


団塊世代と堺屋太一さんが名付けた「塊(かたまり)」は60年間という時間によって個人へと分解した。しかし、同時代感として物質的貧しさを等しく経験してきた世代である。しかも、仕事への選択肢といった自由さはほとんどなく、食べることのため、子育てのために働いてきた世代だ。大学への進学率は3割に満たない時代だ。もう一回勉強したいと願う人は多い。少子化はこれからも進むであろうし、既存の大学は社会人大学へと変貌するであろう。道楽であればこそ、農業や漁業に従事するにあたっても勉強は欠かせない。モノを売ろうとするならば、こうした知的興味心をかき立てることだ。そして、少し前に「ロングライフ志向」について書いたが、団塊世代こそこうした価値観をもっている。

ところで「新富裕層」のところでも書いたが、いざなぎ景気を超えたといわれた平成景気の消費を支えていたのは、大きくは「株式配当層」と「企業業績連動型ボーナス層」の二つの市場である。前者は旧来からの資産家であり言わずもがなでコメントしないが、後者が表立った消費を見せていた訳である。その典型的としては、外資系金融企業や自営業、あるいは業績連動型報酬の仕組みを採用した企業といった層である。この中から「ヒトリッチ」といったキーワードに代表される消費が生まれた。ところが昨年秋以降都心の不動産価格は下落し、サブプライムローン問題が表面化し、外資系金融企業の中ではリストラさえ実施され始めている。
実は、この二つの層が今日の百貨店を支えていた主要顧客である。今回のリニューアルによって従来百貨店顧客ではなかった若い世代をどれだけ集客できるか、ここでも価格という越えなければならないハードルがあるが、またその結果について書いてみたい。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造

2008年08月24日

価格から見えること

ヒット商品応援団日記No293(毎週2回更新)  2008.8.24.

先日セブン&アイが新しいディスカウント業態のスーパー「ザ・プライス」を8/29足立区西新井にオープンさせると発表があった。2008年度上半期のヒット商品であったPB商品ではなく、NB(ナショナルブランド)商品を卸問屋を介さないで直接取引することで、20〜30%安く提供するスーパー業態とのこと。以前、急成長しているOKストアを取り上げたことがあったが、少し異なる業態のようである。9月には見に行こうと考えているので、その印象などはまたこのブログに書きたいと思っている。

ところで、ここ2ヶ月ほど「価格」について私見を書くことが多かった。それはOKストアの急成長に着目したということもあるが、もう一つは「暴走する資本主義」(ロバート・B・ライシュ著/東洋経済新報社刊)を読んだからでもあった。米国の延長線上にある日本にとって、示唆深い指摘がされており読まれたらと思う。ライシュは私たちが「消費者」であり、「投資家」である一面と、民主主義を体現する「市民」としての一面、この二面性を持っているが、前者の資本の暴走を後者である市民が抑えられなくなっていると指摘。ライシュが第一次クリントン政権時の労働長官という政治にかかわっていたことから、こうした指摘があったのだと思う。1円でも安く買いたい、1円でも多くの投資に対するリターンを得たいとするごく普通の欲望が、結果として資本の暴走を生み、その暴走へと至るメカニズムが見えにくいことから結果として市民が政治が許してしまっているという指摘だ。

実はライシュのような政治、民主主義による歯止めという視点もあるが、私は消費という現場レベルでの新たな試みもあるのではないかと考えていた。まだ小さな単位、地域単位での試みであるが、先日取り上げた京都の上田米穀店がそうであるし、同じ京都府のスーパーNISHIYAMAなんかも米づくり生産者を支援し、そのことを顧客にも伝え、いわゆる「適正価格」で有機米を提供しようと努力している。生産者、流通、顧客とが、互いに「市民」としての自覚のもとで、「適正価格」を追い求めているということだ。理想という高いハードルを持ちながら、現実課題としては互いに低くし、越えられるところから進めているのだと思う。実際にインタビューした訳ではないので推測になるが、生産・流通・顧客が互いの「得」を減らし、バランスのとれたところで実行されているのだと思う。

昨年秋以降、生産者・メーカーのリーダーと話す機会があったが、異口同音に原材料価格などの高騰から新たな価格設定をしたいが流通が受けてくれないと。一方、流通サイドではただですらデフレ状態であるのに値上げは客離れを招くと言う。今の言葉に置き直すと「風上ではインフレ」、「風下ではデフレ」という「ねじれ現象」が起きていた。そのデフレ圧力の顧客はどうかと言えば、周知のように収入は増えず、株式市場も低迷し、働くことそれ自体が不安定という情況だ。まるで解けない迷路に入り込んでしまった感があるが、中国餃子事件とガソリン高騰は、こうした価格決定のメカニズムや問題点を気づかせてくれたと思っている。ライシュ流に言えば、単なる消費者から「市民」としての二面性を持っていることへの自己認識である。

ライシュは「暴走する資本主義」の中で、グローバルスタンダードなどない、あるのはグローバル圧力があるだけだと言っている。米国政府の高官であったライシュはその圧力は大企業ロビーストによるものだと明言している。ところで、今回の北京オリンピックで素直に喜べた選手の一人に200mバタフライで銅メダルになった松田丈志さんがいた。宮崎県延岡のビニールハウスから生まれた競泳選手であるが、ボランティアコーチの久世由美子さんとの二人三脚によるものだ。企業スポンサーを始め、プロスタッフによるプロジェクトに支えられ英才教育を受けてきた選手とは全く異なる。銅メダルの受賞に際し、松田さんは「自分色のメダル」と表現した。このコメントに際し、様々な受け止め方ができるが、私は日本のビジネスの一つの行き方、ローカルゼーションの在り方に重なって見えた。また、最終日に行われた男子マラソンは日本勢は惨敗であったが、金メダルとなったケニアのワンジル選手は仙台育英高を経て日本の実業団で活躍している日本で育った選手だ。ローカルゼーションがパワーをもつには地方分権が必要であるが、価格を超える「日本色」、ローカルゼーションパワーへのヒントがあるように思える。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:56Comments(0)新市場創造

2008年08月20日

育てる顧客へ

ヒット商品応援団日記No292(毎週2回更新)  2008.8.20.

前回これからのライフスタイルの一つとしてロングライフ志向をテーマとした。成熟した時代の消費の一つとして、生活から余剰、過剰を取り去ることから始まり、取り去ってもなお残るもの、そうしたモノ達との暮らし・ロングライフ志向へと向かうと指摘した。使い込めば使い込むほど手に馴染む、着続ければ着続けるほど肌に身体にしっくりする、そうした考えをもって顧客自身が商品や企業を育てる方向に向かうということである。単なる消費というより、共に作り、共に消費するといった方が正確であろう。何でもかんでも興味関心のおもむくままに消費していた騎馬民族的生活から、半完成品を使い込み育てていくといった農耕民族的生活への転換ということだ。

以前から顧客が主役と言われてきたが、その主役が作り手へと進化してきたということである。こうした書き方をすると、「育てる顧客の組織化」のように矮小化してしまう間違いを起こしがちである。顧客は誰も組織化などされたがってはいない。「作り手」という出入り自由な場を創るだけである。一種の運動であり、顧客である作り手は、勝手に宣伝マンになったり、場合によっては売り手にすらなる。

数年前に指摘したことであるが、LOHASの失敗は「運動」としての組織、そうした視座を持たなかった点にある。LOHASを商標とし、参加企業からブランドロイヤリティをとることだけにしてしまったことが原因だ。運動の主体である顧客をLOHASを「育てる顧客」として位置づけなかったということである。勿論、運動を持続推進していくには資金が必要となり、ブランドロイラリティビジネスとしていくことも必要である。と同時に「作り手」としての顧客にも何らかの協力・負担をしてもらうことだ。LOHASという理念に集まった企業も、顧客も、それぞれがある意味「育てる投資」を分担し合うことが必要であった。

既に部分としてはこうした「動き」も出てきている。例えば、以前取り上げた日本の農業再生の道を海外に求め、量ではなく質で勝負しようとチャレンジしている新潟の米作農業内山農産なんかがあてはまる。有機栽培とはいえ、作られたお米はかなり高い価格だ。しかし、その価格を顧客はわかって、育てる投資として購入していると思う。あるいは京都の上田米穀店(http://uedabeikoku.shop-pro.jp/)では、米の「適正価格」とは何か、専業農家がつくる価値=価格はどのぐらいが適正かを確認し合うために、専業農家と消費者、上田米穀店が一緒になって完全無農薬の米づくり体験を実践している。これも日本の農業を育て、体験実感する中から適正価格を探す試みである。志しに共感し、それを実現するための3者によるコラボレーションという訳だ。

多くの偽装事件が続発する社会にあって、漠とした不安を解決するには、互いに信頼し合う関係づくりが不可欠となる。安心を得ようと、小さなコミュニティが至る所で創られている。会員、クラブ、SNS、・・・・多くのコミュニティが自己防衛策として創られてきた。それは安心を担保してきた集団である村落、家、会社、都市においてそれらは既に崩壊しているからだ。しかし、一方では内山農産や上田米穀店のように既成の流通から離れ、生産者、流通、顧客が互いに信頼し合うための動きも出てきている。信頼は互いに信用しないことから始まる。信用しないからこそシビアな観察者にもなるし、時には消費から生産現場へと足を運び体験実感もする。顧客を単に消費者としてだけ見るのではなく、協力・分担してくれる良きパートナーとして見ていくことが重要である。ロングライフを目指すとは、生産、流通、消費という各々の原点を共有し合うマーケティング、いや従来のマーケティングの概念を超えた新しいコラボレーションによる運動が必要ということだ。(続く)  


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2008年08月17日

ロングライフ志向

ヒット商品応援団日記No291(毎週2回更新)  2008.8.17.

先日4−6月のGDPが前年同期比−2.4%、個人消費や設備投資、輸出もマイナス成長で、景気後退局面に入ったと発表があった。生活実感からすれば、昨年後半から既に始まっていることだ。折しもマンションや商業施設などの開発を手がけ急成長してきたアーバンコーポレーションが2500億を超える負債で民事再生の申し立てをし、2008年最大の倒産であると報じられた。前回、「大人の夏」というテーマで大人になった北島康介選手を取り上げ、「大人消費」が本格化するであろうと書いた。流される景気などの情報に右往左往しない、自らの実感を基にした賢明な生活経営が始まるということだ。以降も北京オリンピックでの日本選手の活躍が報じられているが、送り手であるマスメディアの加熱ぶりとは逆に、視聴者は静かな応援だ。その証拠ではないが、北京オリンピックの開会式の視聴率は37.3%であったという。(ビデオリサーチ/関東地区)この視聴率を高いと見るか低いと見るかは議論が分かれるところであるが、他の競技の視聴率を見ても分かるように、その多くは一桁台の視聴率である。(http://www.videor.co.jp/data/ratedata/program/oly_sum/2008_bei1.htm)つまり、一人ひとり、多様な好みのなかで自律的に行動している、別な言葉でいうと「大人の行動」ということだ。

2008年後半、「大人の生活者」は物価は上がっても下がることはないと思っているし、少々の景気対策程度で良くなるとも思ってはいない。エネルギーを始めとした原材料の高騰、一方生活者との消費接点では今なおデフレ傾向。この1年ほどこうした一種のねじれ構造のなかでの消費傾向を書いてきたが、その方向が変わることはない。まだ未成熟なところもあるが、着実に成熟した生活経営、新たな価値観形成へと向かっていると、私は考えている。いくつか芽となって出てきているキーワード「ロングライフ志向」もそうした新しい価値観の一つだ。永く使い続けたい、愛着が湧く、馴染んだ感じ、どこかほっとする、そんな価値世界である。大量生産大量消費の時代から、少量生産少量消費の時代へと置き換えてもかまわない。エコライフにもつながる価値観であり、生活文化を楽しむといってもかまわない。固有な生活文化が未だ残っている地方を掘り起こす時代。あるいは商品で言うと、作られた原点に戻り、復刻させていく試みなんかも始まると思う。単なる消費というより、商品を育てていくと言った方が正確であろう。

ロングライフ志向を具体的に見ていくとイメージが更に湧くと思う。使い慣れた、着慣れた、食べ慣れた、住み慣れた、そんなライフスタイルである。次々と変化情報=刺激が押し寄せるなかで、それでもなお使い続けたい、食べ続けたい、住み続けたい、とする価値観である。それを表面的には保守的、オーセンティックな世界のように見えるかもしれないが、実はモノの本質に迫るということだ。よく素材にこだわっているといったように「こだわり」を売り物にしているが、理想とする「何か」のためにこだわるのである。ロングセラー商品の多くはそうであり、ランキングなどには入ってこない商品である。価格は割高になるが、永く使うことによりコストパフォーマンスも満足させる商品となる。また、アートという視点に立つと、アート(芸術性)を完全の美とするなら、ロングライフ商品は不完全の美、つまり観賞を楽しむアートというより、使い込むことによって得られる「用の美学」の世界だ。

例えば、「住む街」であれば、永く住み続けたい街、愛着が湧く街、そうした街づくりがデベロッパーや住宅メーカーあるいは行政の目標となる。そして、「何を」もって永く暮らしたいとさせるかが、いわゆるコンセプトとなる。このブログでもエコ社会、エコライフの源流である江戸時代のライフスタイルについて書いたことがある。そのなかで、「里山」という自然との共生の知恵活用にもふれたが、今住宅メーカー積水ハウスの戸建住宅で「5本の樹計画」として里山づくりが実行されつつある。時間をかけて街を育てていこうというコンセプトであり、ロングライフという考え方の一つだ。

消費が収縮したとよく言われるが、表面的には市場は小さくなりそのように見える。成熟へと向かうこととは、生活から余剰、過剰を取り去ることから始まる。取り去ってもなお残るもの、そうしたモノ達との暮らしがロングライフ志向である。バブル崩壊以降、「豊かさとは何か」が問われ続けてきたが、ロングライフ志向もそうした豊かさの一つだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:05Comments(0)新市場創造

2008年08月11日

大人の夏

ヒット商品応援団日記No290(毎週2回更新)  2008.8.11.

北島康介が100m平泳ぎで金メダルとなった。アテネの時は「超〜きもちい〜い」とコメントしたが、今回の北京では涙で「なんも言えない」とコメントしていた。この4年間の様々な出来事を想い、言葉にならない言葉になったのだと思う。インタビューアーは無理に盛り上げようとするが、北島康介も4つ歳を重ね、「言葉にならない」大人になった北島康介にこころ動かされる。

ここ数年、サプライズという言葉に代表されるように、感動、感をどうゆさぶるか、といったことが、政治からビジネス、あるいはスポーツまで至る所で目的化されてきた。高校野球の選手宣誓に「感動を与えられるようなプレーを」といったところまで蔓延し、書店ではそうした本が店頭に並んでいる。間違ってはならない、結果として感動したことはあっても、目的化するものではない。目的化することによって、演出を逸脱した「やらせ」も出てくる。そして、最大の問題は「一過性」という、その時だけで終わってしまうということだ。

この時期、TV番組や新聞メディアは広島、長崎を始め太平洋戦争の悲惨さを体験世代から若い世代へと語り継ぐ内容を伝えている。それはそれで必要であるが、見られた方も多いと思うが、8月7日の「NHKスペシャル/解かれた封印・米軍カメラマンが見たNAGASAKI」(http://www.nhk.or.jp/special/onair/080807.html)は極めて良い番組であった。原爆投下後の長崎の被災者を撮った一枚の写真。死んだ弟を背負い、身じろぎもせず、焼き場で順番を待っている少年の写真である。唇を噛みしめ、真正面を睨めつけるように立つ少年は、戦争のおぞましさ、不条理さに、一人耐えているかのような、そんな写真だ。何万語を費やすメッセージより、この一枚の写真にこころ動かされる。

前回赤塚不二夫さんへのタモリの弔辞にふれたが、「あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました」という失いつつある人と人との強い関係を、ああまだ残っていたんだと誰もが感じたことと思う。そして、赤塚不二夫さんの生き方を「あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、『これでいいのだ』と。」
「これでいいのだ」とする二人は、私にとって「素敵な大人の関係」であるように思える。

今年のお盆休みは少し変わったと言われている。私も1ヶ月以上前から指摘していたように海外旅行者数は減り、実家や自宅で休みを取る人が増えたと。遊びに行くなら近場、ホームグランドであると。勿論、ガソリン高騰などに対する自己防衛意識によるものが多いが、従来の騒々しいような欲望を抑えた「大人消費」とでも呼ぶにふさわしい、計画性のある生活経営へと向かっているように感じる。2008年後半の消費キーワードは予定される目玉商品が無いということもあるが、本格的な「大人消費」、赤塚流に言うならば「これでいいのだ消費」が始まるということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 18:32Comments(0)新市場創造

2008年08月06日

ジャーナリストの眼

ヒット商品応援団日記No289(毎週2回更新)  2008.8.6.

先日漫画家赤塚不二夫さんが亡くなられた。ほぼ一年前に亡くなられた阿久悠さんの時にも感じたことだが、ああまた批評家精神溢れる方が亡くなられたな、と。時代が抱える病や気分、あるいは飢餓感そのものを、漫画で歌謡曲でわかりやすく批判・批評してくれた方達だ。ジャーナリストの果たす役割は、権威や権力あるいは既成から離れ、批判批評的精神をもって、「見張る」こと、「指摘(表現)する」ことにある。そうした意味で、赤塚不二夫さんも阿久悠さんもジャーナリストであった。

既成マスメディアによる情報から離れ、「常識の嘘」あるいは「本質をつこうとしない既成情報」を指摘するメディアは極めて少ない。その少ない中で、周知の村上龍さんが主宰するJMM(http://ryumurakami.jmm.co.jp/)で今面白い論議が行われている。それは福田改造内閣における財政立て直し、数年前からマスメディアから一方的に流されてきた「日本の財政赤字」についてである。結論から言うと、800数十兆に及ぶ赤字はほんとうに「過大」であるのかという素直な疑問と指摘である。ある意味、絶えず流されてくる情報による刷り込みで今や「常識」となったテーマである。最初に指摘をしたのは経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員の山崎元氏である。国家の借金を家計の借金になぞらえて、借金の大きさの危機感を煽っていると指摘。全てを売却できる訳ではないが、国は300数十兆円もの資産を保有している。そうしたことを踏まえ、まず必要なことは国の借金の最適化、つまりいくらぐらいであれば返済可能であるか目標を明確にすべきで、国民とのコンセンサスこそ大切であるとの論議である。つまり、グローバリゼーションという初めて経験する時代にあって、財政健全化とは「何を」指していうのか、ということだ。

私はこの議論をするだけの金融経済のプロではないので、JMMで展開されている「常識の嘘」論議を見守りたいと思う。ただ、こうした嘘を見抜こうとするジャーナリストの眼はビジネスにおいても必要不可欠であると思っている。経営の師といわれるP.ドラッカーは自らを社会生態学者(ソーシャルエコロジスト)とし、社会に起きている様々な事象・変化を追い続け、結果として膨大なビジネス指針を書いた。社会学者であり、経営学者であり、歴史学者であるが、何よりもまして文明批評家であった。

私はこのブログで少し前にこのように書いた。
「バブル崩壊以降、失われた10年と言われてきたが、そうではない。生活者も、作り手も、十分学習してきた。その学習のヒント、未来への芽が『過去』にあるということだ。」
一昨日、数年前に一度見に行った東京奥沢環八沿いにある「D&DEPARTMENT」(http://web.d-department.jp/project/index.html)を再訪した。一見時代遅れのような試みを始めたナガオカケンメイさんによるショップである。モノ不足を終え、豊かになり始めた1960年代に「デザイン意識の原型」があるとし、流行に左右されないデザインを追求しようとするデザイナーである。阿久悠さんが作詞し河島英五が歌った「時代おくれ」そのものを実践しているかのような人物である。

「ロングライフデザイン」をポリシーとするデザイナーであり、当たり前であるが、ロフトの2階にあるショップは数年前とあまり変わらない印象であった。商品のライフサイクルがどんどん短くなる時代にあって、廃番商品を復刻させ、売り続けることこそが、結果としてブランディング=アイデンティティとなるという試みだ。売れないから廃番にした訳で、それを復刻させるなんてと誰しもが考える。しかし、ナガオカケンメイさんは自らショップを創り、売ってみせている。ここにも常識の嘘があるのだ。

実は店頭にあった柳宗理さんのフライパンを買ってしまったが、柳宗理さんの実父であるあの柳宗悦を思い起こしたせいである。周知の実父柳宗悦は、まさに 「生活美の追求者」と呼ぶのにふさわしい人物である。生活の中の「勝手道具」とか「不断遣い」というふうに呼ばれてきた生活道具の中に「無名の美」を見出した。日本で初めて常識である「有名の美」ではなく、「無名の美」を日本民芸運動として広めた方だ。今、ナガオカケンメイさんが実践されている世界は、柳宗悦の一見非常識に見える「無名の美」とつながっている。これも私にとってジャーナリストの眼の一つである。

今まで私たちは「有名の美」ばかりを追い求めてきた。いつしかそれらは常識となっていく。トレンドマーケティング、ベストセラー、サプライズ手法、勿論これら全てが間違いであるというのではない。しかし、一方で「使い慣れた、着慣れた、食べ慣れた普通が一番」とした顧客価値観が表へと出てきた。私はこのブログで「今、地方が面白い」「裏が表になる時代」「道草のすすめ」、「オネスト(正直)コンセプト」、・・・・・常識的に言われてきた時代認識とは逆行するようなテーマを書いてきたのも、既成となった常識を疑って、実際現場に足を運び実感したことによる。確実に新しいパラダイムへと転換が始まっている。そして、そこには必ず新しいパラダイムを体現したジャーナリストの眼を持つビジネス表現者がいるということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:36Comments(0)新市場創造

2008年08月03日

小泉劇場の閉幕

ヒット商品応援団日記No288(毎週2回更新)  2008.8.3.

このブログを書き始めてからほぼ3年になる。以前お世話になった会社では若手に早朝勉強会を行っていたが、会社を辞めさせていただいた後も、早朝勉強会の代わりにと考えてこのブログを始めた。マーケティングの会社であったので、固有な語彙を使い、理解しづらい文章や内容であったと思う。当時はブログへの認知度も低く、おそらくサイト数も100数十万程度であったと思う。今や休眠ブログを入れれば、ネット上には2500万ほどのブログが存在している。アクセス数も3年前は1週間で70程度であった。勿論、その多くは何らかの知り合いによるものであった。今はと言えば、途中から複数の地域ブログなどに同様の内容を掲載しているが、それら全てを足し算すると1日150〜200のアクセスとなり、3年累計で142,000アクセスとなった。理屈っぽい専門的な内容ばかりであるが、私自身を含め、勉強し続けなければならない時代である。その理屈っぽさは私自身にとっても勉強中であり、咀嚼の足らなさをどうぞお許しいただきたい。また、かなり専門的なテーマにも関わらず、約40%の方が定期的にブログを見ていただいており、改めて御礼申し上げたい。

ところでブログを書き始めた3年前、友人である新聞記者から、当時の小泉総理による解散・総選挙はあるかどうか聞かれたことを思い出す。私は実施すると思いますよと答えたが、その理由として、小泉ブランドという商品のライフサイクルを見ていくと、ここら辺りでブランド再生のために思い切ったパフォーマンス=解散総選挙をしないとブランドとして存立できなくなる。つまり、支持率推移を売上推移と見ていくと、ブランドとして、特に情報商品のマーケティングとして考えた場合強い情報刺激を必要としている時期であると。私の指摘通り、解散総選挙が実施されたが、小泉内閣は選挙戦において徹底した情報マーケティングを行った。そのキーワードが周知の「サプライズ」であり、「小泉劇場」である。劇場という舞台で、次々と繰り広げられるサプライズ。こうした期待を刺激し続けるマーケティングは、いわゆるトレンドマーケティングそのものである。ちなみに、トレンドマーケティングと対比するものがロングライフマーケティング、ベストセラーに対するロングセラーということだ。

3年前の総選挙とは異なるが、福田内閣が内閣改造を行った。表向きは生活者目線での改革続行を明確にするためとのことだが、マーケティング的に見ていくとどうなるか、3年前と同じようにマーケティングの視点にて、私見を書いてみたい。
まずブランドポジションであるが、失礼ではあるが福田ブランドとしては確立はしていない。というよりブランド戦略を採ってはいないということである。劇場的手法は勿論のこと、改造された内閣=コンテンツもそれほど新しさというニュースはない。逆に、陣容を見れば分かるように保守回帰、自民党にとっては原点回帰と言えよう。つまり、勿論サプライズもないということである。小泉政治とは真逆の内容・方法論と言えよう。サプライズに対するキーワードを言うならば、実行・実現ということとなる。プロの政治評論家にとっては玄人好みのようであるが、良否は別にして支持率は人気投票の側面を持つ。小泉人気は興味関心を映し出すランキングマーケットと同じである。いずれにせよ、結論から言うと、今回の改造内閣は小泉劇場の終焉を実質化させたということだ。

さて顧客である有権者はどうかであるが、既に1年前の参議院選挙によって第一段階の答えが出た。改革を叫べば票になるフェーズではなく、結果民主党が参院では第一党となった。その後、私は「サプライズの終焉」というキーワードで生活者の体験学習結果を書いたことがある。トレンドマーケティングに対する体験学習結果ということである。トレンドというニュースによって期待し、一度は体験・使用したいとするマーケティングは、一過性という課題を常に持っている。そして、ニュースという鮮度は時間の経過と共に色あせ、明確に2つのマーケットに分かれる。一過性という期待ハズレや全く違うのではないかという好きから嫌いへと振れる層。これらの層の多くは参院選において民主党支持へと動いたと思う。もう一つが今なお小泉復活を期待し続ける待望論のように、いつかは何かが起きるであろうと期待する層である。

さて今回の福田改造内閣は「5つの安心プラン」を実行・実現するとしている。「安心」という生活者の「内向き」に対応した政策であるが、「外向き」の政策はない。グローバリゼーションは今や生活にダイレクトなものであり、内も外もないことは全ての生活者の実感としてある。エネルギーを始めとした原材料高騰は生活へと直撃する。何かをしてくれるであろうという未来への期待値を持っているのがブランドとするならば、改造内閣はノンブランドであり、日々の実行力しかない。
劇場的手法の連続=過剰な情報刺激の連続に、騒々しいと感じる生活者が多くなっている。しかし、今なお劇場化社会で生活しており、小泉劇場の残像は色濃く残っていることも事実である。恐らく今日あたりからマスコミ各社の福田改造内閣支持率が発表されるであろう。政治評論家のようなことは言いたくはないが、恐らくメディアにもよるがある程度の支持率アップとなり、総選挙に向かうことになると思う。(読売新聞41%へ好転、朝日新聞24%横ばい)そして、昨年民主党が勝利した「生活の実質価値提案」と真正面からぶつかることとなる。ただ、グローバリゼーションの時代にあって、新しいパラダイム・価値観を提示し合う構想力の競争であって欲しい。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:57Comments(0)新市場創造