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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2008年11月30日

言葉を取り戻す

ヒット商品応援団日記No321(毎週2回更新)  2008.11.30.

この2年ほど多くの過剰を削ぎ落とし、更に削ぎ落としそれでもなお残るものが求められていると、そこにビジネス着眼しなければと書いてきた。前回のもったいない着眼もそうした文脈の中からであった。この十数年、手に入れた豊かさは知らず知らずの内に実は過剰へと向かっていた。そんなことへの見直しが企業ばかりか生活においても始まった。過剰を削ぎ落とし、手に入れた便利さという豊かさとは逆に、失ってしまった何かを探しに多くの回帰現象が生まれてきた。例えば、象徴的に言うと、中国冷凍餃子事件は原点である食の安全への追求であり、家庭菜園のような自給自足的ライフスタイルに向かわせたり、顔の見える農家直売所へと向かわせてきた。それらは外食から内食への回帰として、土鍋や調理器具が売れるようになった。更には、子と一緒に料理を作る道具類、パン焼き器などはヒット商品となったが、一種の家族回帰・家庭内回帰と読み解くことができる。

さて、膨大な量の情報が行き交う中で、この過剰さをどう削ぎ落としたら良いのであろうか。また、情報においても回帰現象が現出するのであろうか。ところで雑誌プレーボーイが今週号を最後に廃刊になる。以前から多くの雑誌の廃刊が続くが、最早情報の送り手が雑誌社の編集者から、受け手である顧客の側へと移っている。その一番の要因はインターネットであり、ブログやyouyubeのように個人放送局化したことによる。勿論、真偽の見極めが難しい、しかも玉石混淆の情報であるが、使い方を間違わなければ十分情報源としての役割を果たしている。

こうした雑誌のなかで、唯一部数をのばしているのが、宝島社が発刊する「インレッド」などの雑誌である。周知のブランドとコラボレーションした「付録付き」女性誌であるが、その付録の新しさに興味を惹かれ雑誌が買われるという構造だ。しかも、デフレ市場となっている市場情況に合わせ、唯一値下げをしている雑誌である。つまり、従来の雑誌販売収入と広告収入によるビジネスモデルとは全く異なる商品発想をしているということだ。極論を言えば、コンテンツである情報を販売するのではなく、物販商品を付録付きで販売しているようなものである。1980年代半ば、チョコを捨てて付録のカード集めで社会問題化し、メガヒットしたビックリマンチョコを想起させるような発想である。もう一つ着実に部数を維持しているのが、「鉄道フアン」のような趣味の雑誌である。ある意味では、専門雑誌というより、超専門、マニアックな雑誌で、従来の専門雑誌の情報は既に一般情報化してしまったということだ。

話は変わるが、少し前に「日本語が亡びるとき」(水村美苗著:筑摩書房刊)を読んだ。英語が地球の共通語になった時代にあって、豊かな近代文学を育ててきた日本語が亡びつつあるという、言葉に生きる作家らしい本格的な警鐘の評論である。著者は創作の傍ら米国のプリンストン大学で日本の近代文学を教えているいわばバイリンガルの人である。であればこそ、母国語・日本語への思いは深い。繰り返し繰り返し国語教育の必要を説いている。示唆深い本であり、是非読まれたらと思う。ちょうど同じように西洋文化の衝撃を受け止めた夏目漱石と社会学者であるマックス・ウェーバーをヒントに、この時代の生き方を書いた「悩む力」(姜尚中著:集英社)も売れている。少し前から、太宰治をはじめ古典といわれる文学書が静かなブームとなっているが、悩むという内省、内なるこころに立ち戻る傾向が出始めていると言えよう。

インターネットが象徴しているように情報技術は驚くほど急速に発展し、地球は小さくなり、同時代性、同地域性という世界が、経済ばかりか知的情報の世界まで拡大した。図式化すると、世界の共通語=英語、国語、地域語=方言という3つの言葉を生きている。
ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていた。同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。言葉は声であり、また文字である。前者の象徴が筑紫さんであり、後者が日本語が亡んでいくと指摘してくれた水村氏であろう。

私は沖縄が好きで頻繁に行くようになった一つの理由が沖縄の文化への興味・関心であった。今、沖縄では三線を使った琉球方言の学習が始まっていたり、古くから伝承されている民話を絵本にし、しかも絵本を読み聞かせるライブも始まっている。亡びつつある琉球文化に文字と声を与えようという試みであろう。足下に埋もれた豊かな情報を掘り起こすということも内省の一つである。今年の6月にはアイヌ民族を先住民族とする国会決議があったが、これからアイヌ文化の掘り起こしが始まり、文字と声を与える動きも始まるであろう。
膨大な情報と私は書いたが、類似化した一般情報による過剰体験から、生活者一人ひとりは内なる情報防波堤を築き、本来の言葉を取り戻しつつあると思う。勿論、情報においても自己防衛的になっているということだ。ビジネス視点からいうと、既存メディアの在り方が根底から変わることを促されているということである。広告、ショップ、商品、人、店頭、プロモーション、インターネット、メール、携帯電話、あらゆる情報発信するメディアの変容が促されていくであろう。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:48Comments(1)新市場創造

2008年11月27日

アイディアの素

ヒット商品応援団日記No320(毎週2回更新)  2008.11.26.

ここ数ヶ月注目・話題となっているビジネスアイディアの多くは、新素材や新技術以外では「もったいない」着眼によるものだ。もったいないということは、私に言わせるといわば日本的生産性の概念であり、米国におけるプロ経営者による生産性の概念とは異なる。例えば、バブル崩壊以降日本においても積極的に取り入れられてきたビジネス手法の一つにアウトソーシングがある。簡単に言ってしまえば、外部の専門企業に委託することの方が品質を維持できてコストパフォーマンスが良いという生産性を高める考え方である。この延長線上には、人材面では派遣やアルバイトといったことにまでつながる。2004年の米国大統領選挙において、国内の労働市場を吸収しないとして争点となったテーマである。

今、日本のビジネス現場で行われているのが、「もったいない」着眼による結果としての生産性向上及び新しい市場の創造である。前回、「高校生レストラン」について書いたが、視点を変えれば生徒達が実習で作った料理を生かしきれないだろうか、という「もったいない」着眼と言えなくはない。かなり前から「わけあり競争」に入ったと、規格外商品や賞味期限前・消費期限前商品の活用に新たな市場が生まれていると書いたが、全てもったいない精神から生まれたビジネスアイディアである。カラオケのアイドルタイム、昼間の空き時間を活用した会議室利用の促進。あるいは異なるメーカー同士による共同配送、キリンビールと味の素クックドゥによる共同販促といったコラボレーションも、単独では行えないことへの一種のもったいない着眼と言えよう。勿論、もったいないからと言って、不正競争防止法やJAS法など顧客・消費者との約束事を守ることは言うまでもない。

こうした日本的生産性の向上、もったいない着眼は、持っている資源をいかに最大化させるかということにつきる。保有資源である商品、人材、時間、場所・設備、テーマ、資金、それぞれが生かし切れているかという見直しによって新たな価値市場が生まれている。
商品の場合はReコンセプトであるリサイクル・リデザインなどは当然であるが、前述のような視座、わけあり商品としての販売である。システムとして行っているのがフードバンクなどであろう。最近注目されている北海道の地ソースでは、ホタテのゆで汁を活用したソースによる焼きそばが人気だ。勿論、アウトレットしかり、人気の質流れ市場やオークションも同様である。

先日日経MJに報道されていたが、経営立て直しにあるファミレスのすかいら〜くが店舗丸ごと広告媒体化することにより、年3.5億の収入を見込むという。どんなスポンサーが広告効果を見込んで出稿するかわからないが、スペースを使い切るためのアイディアの一つであろう。
場所・スペースのシェアー・分担によるコスト削減という考え方はビジネスばかりか一般の生活住居にまで浸透し始めている。更には、時間単位でのシェアー、月ー金と土日祝、あるいは昼間と夜、こうした分担し経営していくことが更に一般化していくと思う。時間という着眼では季節によるビジネス2毛作や3毛作を考える時代である。

以前、廃業や破綻した店舗を居抜きで借受る専門ビジネスが盛んになったと書いたことがある。東京郊外にある飲食施設やSCには空きスペースが目立つようになり、地方商店街のようにシャッター通り化しつつある。こうした既にある施設や設備の再創造も生かし切る発想と言えよう。ある意味、コンテンツ次第、アイディア次第で再生できることが沢山あるということだ。
こうした「生かし切るアイディア」は全て現場経営という考え方から生まれる。米国型のプロ経営者による数字や指標からは生まれることはない。今こそ、もったいない精神が発揮されヒット商品が生まれる時だ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 22:15Comments(0)新市場創造

2008年11月23日

町の人気者

ヒット商品応援団日記No319(毎週2回更新)  2008.11.23.

予測通りというか、当たり前のことであるが、ボージョレ・ヌーボーで浮かれたお祭り騒ぎはなく、今年はワイン好きが家庭で楽しんでいるようだ。殺伐とした事件が相次ぎ、そんな気分になれるわけがない。ところで和歌山電鉄の猫の駅長タマ人気に続き、岩手では犬の駅長マロンを始め続々と「ゆるキャラ」を代表に町の人気者が出てきた。旭山動物園のペンギンの行進に話題が集まって以降、多くの動物園で人気者が生まれている。この時代、こころ和む、ホットする、チョット笑える、そんな出来事やキャラクター、特に生命溢れる小動物や人物では若い世代に興味・関心が集まっていく。

地産地消のモデルケースとして三重県多気町の自然休暇村にある高校生レストランが話題となっている。相可高校食物調理科生徒が運営する調理実習施設であるが、地元の食材を使った土日祝だけのレストランだ。自然休暇村にある「おばあちゃんの店」(農産物直営)の隣にあるから「まごの店」(http://www.mie-c.ed.jp/houka/syokumotu/mago.htm
とネーミングされたという。おばあちゃんを始め地元住民にとって、高校生はまさに孫のような存在で、そんな孫が作ってくれる食事はなんとも美味しいことであろう。近隣ばかりか大阪からも食べにくる人達で常に満席状態であると聞く。地産地消という地域活性の良きケースであると思うが、それ以上に注目されるべきは若い生命力溢れる高校生を舞台に上げ、地域の主人公にしたことだ。

こうした人気者は、町や村、施設や企業と幅広く存在するが、いわゆるイメージアップのための一種の「看板」を果たしている。江戸時代にも看板娘がいて、一目見たくて足しげく通う顧客が絶えなかった店があった。「鍵屋」という茶店の笠森お仙は美人画の絵師鈴木春信に一目惚れされ、錦絵に描かれ一挙にブレーク。以降、売上が上がることから看板娘を置く茶屋が増え、江戸市民のこころを惑わすとして幕府は禁令を出すまでになったと言われている。「茶屋に出す娘は13歳以下の子供か、40歳以上の年増に限る」と。いつの時代にも看板となる人気者はいた。

人気とは読んで字の如く、人の気を引くということで、時代の雰囲気や潜在的に求めている「何か」を良く表している。しかし、その人気が売上などの実績に即結びつくとは限らない。サブプライムローンにおける格付けのいいかげんさやミシュラン2009には昨年選ばれた4店が既に閉店していることなどは、人気ランキングといったガイド情報に頼らずに自らの体験実感に基づくことを教えてくれている。江戸時代にもランキングは盛んであったが、全て洒落の世界であった。

今年の流行語大賞にノミネートされた「くいだおれ太郎」も大阪ミナミの看板であった。しかし、看板ほどには売上は及ばず、飲食施設を撤退することが決まってから人気が出たようなものである。看板だけが一人歩きした良い事例である。「くいだおれ太郎」を看板倒れとは言わないが、実体に即した看板でないと意味がないということだ。同じ流行語大賞にノミネートされている「アキバ系」においても、秋葉原の看板である「メイド喫茶」は次々と廃業するか、内容を変えてきているのが現実である。私は半年以上も前に、アキバには既にオタクはいない、と指摘してきた。本来のオタクは「おたく」であり、そのおたく文化をマスメディアが取り上げ、マスプロダクト化した延長線上にメイド喫茶があった。独自なサブカルチャーを育ててきた主人公であるおたくは、当然逃げ出して秋葉原にはいない。情報の時代の看板は「一人歩き」するか、「瞬時に終わる」ことを覚悟しなければならないということだ。

人気者を創らなければならない、と考えてはいけないということである。相可高校の「高校生レストラン」は実習として調理されたものである。いわば味や盛りつけなどもプロと比較できない見習い料理である。しかし、孫のような生徒が一生懸命作る料理はとてつもなく美味しいのだ。情報の時代とは、ある意味プロっぽく作為することがまかり通る時代である。マスメディアに載る多くの人気店、あるいはランキングや格付けがそうだとは言わないが、どことなくうさんくささを感じ始めていると思う。
「高校生レストラン」のように、少し前まであった一生懸命さや熱意、まじめさという至極当たり前のことに気づき始めたということだ。そこには一切の作為はない。だから美味しく感じるのである。町の人気者は、結果生まれるだけである。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造

2008年11月19日

ブランドバブルの崩壊? 

ヒット商品応援団日記No318(毎週2回更新)  2008.11.19.

今バブルという言葉を聞かないことがないほどあらゆるメディアに氾濫している。日本語に直せば、過剰という言葉があてはまるが、「何」をもって過剰であるか、今ひとつ明確な答えが聞こえてこない。私の専門テーマは生活者のライフスタイル研究をベースにした消費の分析と市場創造の着眼点を見出すことにある。私は消費の現実をまず大きく2つに分けて考えていくことにしている。それは「必需消費」と「選択消費」で、前者は食費や住居費といった生きていくために必要な支出である。後者は教育費や娯楽費といったある意味無くてもかまわない支出である。日本や韓国の場合は全支出に占める教育費の割合が高く未来投資として必需消費に入るかも分からないが、「選択消費」はいわゆる「欲しいもの」消費と呼んだ方が分かりやすい。

この2つの消費は、確か1989年のバブル絶頂期に「必需消費」の支出を「選択消費」が上回り、豊かな生活時代を迎えたと言われてきた。寒さをしのぐ被服ではなく、デザインという自己表現の一つとして、「欲しいもの」消費があった。そのシンボリックな商品がインポートブランドであった。当時流行ったキーワードが、「一点豪華主義」あるいは「ひととき貴族」として、一億総中流層と呼ばれたマス市場に広がった。しかし、1990年代初頭のバブル崩壊後は、生まれたときから豊かであったポスト団塊世代の女性達がブランド市場の中心となった。そして、今回の米国発の金融バブルの崩壊、世界的な不況の波が押し寄せてきた。

今一番生活者市場が注目・関心を寄せているのが「価格」である。それは高額ブランドも同じで、今やアウトレットや質流れ催事で購入、もしくはネット上で一番安いブランド商品を購入することが当たり前となった。希少価値の高いヴィンテージ物も値下がりしていると聞く。ところで希少価値として一番高いものはと言えば、一点しかない絵画を始めとした美術品であろう。こうした美術品も全体として値下がりしていると聞く。従来の価格を構成してきた「資産価値」が崩壊しているということだ。価値はそれを求める人達の競争によって決まる。その競争とは何であったのか。資産価値なのか、美固有の価値なのか。本来の美という固有価値競争が生まれないほど、市場というパイが小さくなったということだ。そこで東京の東武百貨店池袋本店では絵画ではなく、タツノコプロと提携したアニメの版画を2〜4万円で販売する試みまで始まっている。

つまりブランド価値とは何か、その根本が今問われているということだ。前回「プロの逆襲」で書いたのも、プロは「見えないところの技」を持ち、それが大きな違いという価値となることを説明した。ブランド価値はそうしたプロの手によって、時代変化(顧客)という風によって磨かれ、それら変化は堆積し、今へと至る。そして、どんなに変化しようとも変わらない「何か」が継承される。継続し続ける顧客価値といっても良い。つまり、それほどに深い文化価値としてあるのがブランドだ。これがブランドの原点である。

ブランドも過剰というバブル崩壊の洗礼を受けている、いやこれから先も受けるであろうということだ。今月20日に解禁されるボージョレヌーボーの輸入は前年比20%減、ピーク時の2004年と比較するとほぼ半減である。輸入減は過剰在庫があることもあるが、お祭り騒ぎは終わったということだ。本当のワイン好きが、今年のワインはどうかと楽しむ、本来のマーケットに戻ったということである。悲観も楽観もない。やっと本来のブランドマーケットに戻ったと考えれば良いのだ。東洋思想に「外は広く、内は深い」という考えがある。私流に解釈すると、自分(商品)を見つめ直す外(顧客)の眼と、自分(商品)を失わないための内(アイデンティティ)なる心が共に必要である、と。ブランドばかりか、身の回りのある多くの過剰・バブルを見据える一つの視座ではないかと思う。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:48Comments(1)新市場創造

2008年11月16日

プロの逆襲

ヒット商品応援団日記No317(毎週2回更新)  2008.11.16.

タイトルのように「プロの逆襲」と書くと、今は素人の時代と思われるかもしれない。バブル崩壊後、本業、本道、本物、匠、専門、こうしたキーワードが物づくりやサービスの主流を占めてきた。しかし、ここ数年前から、そうしたプロの世界がいとも簡単にユーザー・顧客の側に移ってしまった。例えば、料理の世界でいうと、料理人の固有であった技・レシピは書籍どころかネット上に溢れ、プロが使う道具類についても浅草近くにある「かっぱ橋道具街」に行けば同じものが購入できる。レシピ本「おつまみ横丁」がベストセラーになり、家庭で作るパン焼き器なんかがヒット商品になる。酵母菌の知識ばかりかプロ仕様と言われてきた素材や道具がいとも簡単に手に入るようになった。パン好きが高じてパン屋を始めたり、蕎麦好き、お菓子好き、家庭菜園好き・・・・好きはプロの入り口となり、起業する人が増えている。このこと自体は決して悪いことではないが、プロとセミプロ素人との境目が無くなりつつある。

こうした傾向は料理ばかりかあらゆるところに表れている。「ゆるキャラブーム」を下支えしているのは、プロのデザイナーではなく、漫画やアニメに慣れ親しみイラストを気軽に書いている若い世代がチョット投稿してみようかといった具合である。プロの小説家による書籍が売れない中、ケータイ小説のヒットもそうしたユーザー・顧客の側から生まれた。金融の世界におけるデイトレーダーも同様である。今までの作り手、供給者がユーザー・顧客の側に移ったということである。数年前からサービス現場で言われてきたことは、目の前の顧客は知識も経験も積んだ「プロ顧客」であると認識しなければならないと。生半可なプロは通用しない時代になったということだ。

こうした時代にあってプロはどう対応しているであろうか。生半可なプロ、あるいは一般化してしまった専門業態には2つの道しか残されていない。1つは今以上に価格を下げて、変化を取り入れ回数多くビジネスを回していく方法である。もう一つが、時を超えて変化に動かされることのない「何か」を創り、継承していく道である。前者を変化対応型トレンド追求ビジネス、後者を老舗型伝承ビジネスと言えよう。あるいは欧米型と日本型と置き直してもかまわない。商品や業態にもよるが、実は現状においては前者の方が圧倒的に市場規模は大きい。

ビジネスを類型化していくと以上のような道となるが、より根本のところでプロの逆襲が始まっている。結論から言うと、「作り手」をユーザー・顧客から取り戻す試みである。以前、「歌が痩せていく」というテーマでブログを書いたことがあったが、その時代変化を歌手と聞き手という関係に置き直してみると分かりやすい。今や歌は簡単にしかも200円〜300円と安くダウンロードできるようになった。また、高校生からシニアまでカラオケに行ったことがない人を探すのが難しいぐらいの時代だ。作り手であった作詞家・作曲家はネット配信やカラオケで歌われることを前提に楽曲を作るようになった。いわゆる歌のマスプロダクト化、大量生産大量販売である。結果、歌いやすいメロディ中心の楽曲となり、歌はユーザー・顧客の側に移り、歌い手として存在するようになる。こうした歌のマスプロダクト化は、売れ筋ばかりのものとなり、類似曲が溢れすぐに飽きられてしまうという宿命を持つ。歌も他のトレンド商品、情報商品と同じように、ライフサイクルは極端に短くなっていく。

ところで、作り手としての「歌い手」を取り戻す、プロの逆襲の先鞭をつけたのは氷川きよしであろう。そして、最近では黒人演歌歌手ジェロで、「海雪」は30万枚のヒットとなった。両者共に、歌い切るには高度な技術を必要とする。作り手であったユーザー・顧客は、今一度「聞き手」へと戻っていく。こうした取り戻しには作詞家や作曲家の本来の役割回帰が必要であるが、楽曲の最終表現者はやはり「歌い手」である。あの阿久悠さんが最後に作詞し、歌謡曲復権の原石としたのが、「あさみちゆき」である。東京ローカルではあるが、数年前「井の頭公園の歌姫」として、その路上ライブが話題となった歌手だ。阿久さんが作詞したアルバム「あさみちゆき;青春のたまり場」は8万枚売れているという。原石がどのように磨かれ、次の歌謡曲の作り手となりえるか分からない。
歌は時代を映し出す鏡のようだと言われているが、それは聞く人の心の底に沈殿している出来事や風景を想起させてくれるからである。その根っこのところに、言葉、作詞がある。時代の歌とはそうしたものだ。

歌の場合、プロであるために歌の根っこに言葉を置く。どんな言葉が時代の空気感を振動させるか、歌い手はその小さな物語を創っていく。例えば、パン屋さんはその根っこに「何」を置くのであろうか。寿司屋さんはどうであろうか。ロボット技術の発展は凄まじく、にぎりの職人技のかなりの技術部分を網羅し、機械が提供している。今、東京で静かなブームとなっているのが、昔からある江戸前寿司である。職人の手作りとなるこはだの酢じめ加減、手作りされる煮蛤や煮穴子、いわゆる見えないところの「下処理」、「加減」にプロの技がある。ある意味、京料理が廃れない理由が「出汁(だし)の取り方」にあると言われているのと同じである。基本が持つ奥行きの深さ、見えないところにプロの技があり、それを支えるのが手間を惜しまないプロの精神である。見えないということは、小さな違いである。決して大きな分かりやすさはないが、どこか違う。そんなプロの技は細部の見えないところに宿るものだ。
残念ながら景気はますます悪化していく。消費心理は内側へ内側へと向かう。価格を超えてこの内側に入ることができるのは、作り手としてのプロの技、プロの精神によってである。これから、プロの逆襲が始まる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:09Comments(0)新市場創造

2008年11月12日

「今」という時代の空気感

ヒット商品応援団日記No316(毎週2回更新)  2008.11.12.

2008年度の新語・流行語大賞候補60語の発表があった。(http://singo.jiyu.co.jp/index.html)昨年は「(宮崎を)どげんかせんといかん」と「ハニカミ王子」が大賞であった。同じような意味で、その年の世相漢字の公募があるが、昨年は「偽」であった。食品偽装を始め、年金記録や政治活動費の「偽」が社会問題化し、嘘つきばかりが蔓延している時代を良く表していると思う。そうした時代を「どげんかせんといかん」と誰もが思う、閉塞感が強く出た一年。そうした中にあって、爽やかな風を送ってくれたのが「ハニカミ王子」であった。

流行語大賞も世相漢字も12月にならないと決まらないが、2007年が「偽」が蔓延する閉塞社会であったのに対し、今年は更に「危機」へと進行しているように思われる。流行語大賞候補には「汚染米/事故米」「毒入りギョーザ」「メタミドホス」 「サブプライム」があり、「どげんかせんといかん」という思いは「再発防止検討委員会」どころか「チェンジ(CHANGE)」が求められ始めた、ということであろう。一方、「ハニカミ王子」の流れでは、北京オリンピックソフトボールで金メダルをとった「上野の413球」、 あるいは北島康介選手の「何も言えねー」なんかも選ばれており、ピュア(純粋)コンセプトは時代の通低であると言えよう。

今年の特徴の一つが、やはり政治における出来事や言葉が多くなっている。「ねじれ国会」 「霞ヶ関埋蔵金」「居酒屋タクシー」「(福田前総理による)あなたとは違うんです」といった具合で、政治においても具体的な「危機」が進行していると言えよう。こうした危機的社会では、その裏側ではとりとめのない、単純に笑うしかないようなことが受ける。候補にも入っているが、「キターー!! 」「グ〜! 」「ゆるキャラ」「せんとくん」「おバカキャラ  」「世界のナベアツ」「 ポ〜ニョ、ポニョポニョ、さかなの子〜♪」といった具合である。ある意味、ヴィヴィッドな感性が摩耗してしまった時代を表しているように思える。

ところで、先日筑紫哲也さんが亡くなられた。筑紫さんへのコメントはそれこそ「多事争論」あるが、「ニュースに声を与えた最初の人」であったと発言していたのはコラムニスト天野祐吉さんであった。いままでの無表情な文字の羅列であったニュースに、思いがにじむ、息づかいがわかる「声」を与えた人であったという。「今」という時代の空気感を伝えてきた数少ない一人であった。私は感性が摩耗してしまった時代と書いたが、感性を声と置き直しても意味はかわらない。多事が他事になってしまい、争論されることなく、沈殿しつつあるように思える。そうした意味で、筑紫さんが亡くなられたことは「声」を失いつつある時代の象徴のように思えた。

こうした時代にあって大きなヒット商品、メガ・ヒットは出てこないであろう。もし、あるとすれば今まで無かった新技術や新素材、あるいはそれらを取り入れた新しい仕組みによる商品化ぐらいであろう。例えば、この秋冬でどの程度売れるかわからないが、注目したいのがユニクロの「ヒートテック」である。身体から発散する水蒸気を吸収して発熱し、保温する新素材を使った肌着やタートルネックシャツである。価格も790円〜1500円と買いやすい設定となっている。

内側に向いた安心を求める心理市場にあっては、今は小さなヒットを繰り返すことが賢明なビジネス指針であるといえよう。前回、「Yes we can 物語」というキーワードでオバマ米国について書いた。どの程度の変化となるか未知数ではあるが、日本の場合は「危機」にあるにも関わらず迷走を繰り返し、風はいまなお吹いていない。しかし、以前書いたことがあるが、例えばアニメ映画の宮崎駿監督やサブカルチャーの流れを組む村上隆さんのビジネス、あるいは私の知らないところで黙々と「何か」を創っている無名の人々がビジネスに新しい風を吹き込んでくれると思う。(続く)  


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2008年11月09日

Yes we can物語

ヒット商品応援団日記No315(毎週2回更新)  2008.11.9.

米国次期大統領オバマ氏の勝利演説を聞いた。実は当日は出かけていたので選挙結果だけは随時流されるニュースによって知ってはいたが、正確には翌日のYoutubeで演説内容を全て見て、更にはネット上にあった翻訳されたものを読んだ。実は、Youtubeで受けた感動と、日本語に翻訳文章化されたものを読み込むと感動の裏側に潜む、冷静なリアリズムが私には見えた。当然であると言えばそうであるが、Youtubeの動画はまさに情動を促すもので、文章化、言葉となったものは極めて緻密な理性によって構成されていた、そう感じた。

その象徴が選挙戦を貫いたキーワード、Yes we can(及びYes you can)の使い方である。アメリカは変われるという事例に、アトランタで投票したひとりの女性、106歳のアン・ニクソン・クーパーさんの物語を語るところに物の見事に表れている。この100年間にアメリカは多くの苦難を経験し、それらを見てきたクーパーさんはこうして長い行列を作って投票所に来ていると。その投票こそが、Yes you can、変わることができる、という意味を表しているとオバマ氏は話す。「Yes you can 物語」は、変革の主人公はこれからも一人ひとりのyouあなたであるという見事なシナリオ構成となっている。しかし、youとweとの間には、越えなければならない大小の溝があることをオバマ氏は冷静に見ているように私には思えた。それは翻訳された文章を読むと分かるが、「Yes you can 物語」に終始し、現実については一切語っていないことによく表れているからだ。weとして何をどう変えていくのか、変革すべき現実については語ってはいない。大変な現実主義者であると思う。

熱狂の一夜が明けると新聞各紙は変わることの困難さと日本の今後について論評した。時代の要請として生まれた大統領であるが、一歩政策を間違えれば期待の大きさと反比例するように、落胆も極端に大きく振れる。それは黒人初の大統領であり、人種のるつぼとなっているアメリカ、特に黒人にとっては、オバマ政権の失敗は、恐らく再度立ち上がるには100年かかるであろうからだ。
感動の勝利宣言とはうってかわって、これからはリアリストとしてのオバマ氏が現れてくると思う。これは推測の域を出ないが、選挙公約にあった環境問題への取り組みと新たな産業起こしにそのリアリズムが出てくると思っている。選挙中マケイン陣営はエネルギー政策として原子力発電所の新設を掲げていたが、一方オバマ陣営は環境への新たな技術革新、ソーラーエネルギーを始めとした研究開発を掲げていた。こうした環境問題への取り組みは、直近の最優先課題である自動車産業、ビッグ3への対策となって象徴的に現れてくる筈である。環境問題とは広く生活問題であり、技術革新は永続的に進化させていくべきものとしてある。産業の裾野は広く、結果あらたな雇用創出につながる。しかし、オバマ勝利宣言の翌日のNY株式市場の株価は大きく落とした。これはいかに米国の実体経済が悪くなっているかだ。

環境問題への取り組みは、否応なく「規制」から始まる。生産性論議からすれば、マケイン陣営の原子力発電エネルギーの方がはるかに効率が良い。洞爺湖サミットでも明らかであったように、途上国ばかりか当の米国自身がスタートであった京都議定書が必須であると誰もが思うことであろう。オバマ政権は、こうした問題にどう取り組んでいくのか、CO2の削減を含めた「規制」、その「目標」と目の前のビッグ3の立て直しにどんなリアルな解決策を見出していくのか、今後の米国の在り方が見えてくるであろう。今、ビッグ3への支援策が検討されているようだが、間違いなくお金と共にかなりシビアに口も出すと思う。

そして、環境を政策の中心に据えることは一般国民のライフスタイルの「変革・チェンジ」をも促すこととなる。世界の消費エンジン役を果たして来た米国であるが、日本人的感覚からすると消費大国とは浪費大国でもある。ところで、2002年頃ライフスタイルの調査結果から生まれたLOHASであるが、過剰な消費文明にアンチとして運動したLOHAS層は、今回のオバマ勝利にどう関わっていたのであろうか。あまり正確な情報はないので確信的なことは言えないが、オバマ陣営のボランティアにLOHAS運動を推進したメンバーが多数いたと思う。
環境問題という視点から見ていくと、youとweとの間にはかなりの意識差があるように思える。来年以降、この溝を埋める新しいライフスタイル運動が始まると思う。その推進役がLOHAS層であるかどうかは分からないが、LOHASの進化系「Yes you can運動」になることは間違いない。(続く)  


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2008年11月05日

未来実感

ヒット商品応援団日記No314(毎週2回更新)  2008.11.5.

株や投資信託といった金融ばかりか次々と未来投資、将来投資が破綻している。以前、「うわさの法則」について書いたことがあるが、うわさの発生は不安の変種であり、根本原因は同じである。うわさの流布は「情報の重要さ」×「情報の曖昧さ」に比例する、という法則である。例えば、金融関連企業の間で、「今資金が引き上げられたらこちらも破綻する」×「その情報の出所は分からない、どうもそのようだ」、といった具合にうわさが発生し疑心暗鬼が起きたということであろう。全て「これからどうなるであろうか」という未来への不安である。今、求められているのは、悪いことも良いことも、全て未来にあるとした実感である。

株式や投資信託といった商品は、機関投資家のみならずシニア個人にとっては老後のための資金運用=未来投資としてある。そうしたシニアの個人投資家の多くはいわゆる塩漬け状態で保有するしかないであろう。あるいは株価が少し戻った段階で売り、元本が保証された預金的な金融商品へと向かう。そして、今後株を購入する場合は、前回書いたように「非レバレッジ」投資として、自らその企業や不動産を実際に見て体験し、確認をすることによって投資を再開するであろう。単なる数字上の虚の世界から、使用体験といった実の世界での判断という価値観転換が起きるということだ。キーワード的にいうと、未来はわからない、しかし少しでも「未来実感」する結果としての投資となる。恐らく、シニアにとっての未来は孫や子の成長へと重点が更に移るであろう。全体としての消費は縮小していくが、こうした未来実感できる家族単位での記念日消費やギフトといった消費は堅調であろう。

未来は全ての人にとって等しく若い世代にも訪れる。少し前まで売り手市場であった就職は第二次氷河期に入るのではという不安が蔓延しているという。また、売り手市場の中で花形企業であった外資系金融はリーマンショックと共に瓦解した。それでも目指すという一部学生はいるであろうが、多くは日本の大手企業を目指していくと思う。キーワードとして言うならば「安定」ということになる。一昔前の、昭和の時代の労働観=就職観である終身雇用、年功序列といったキーワードを思い起こさせる価値観だ。拓銀、山一の破綻、ITバブルの崩壊、ホリエモン事件、一連の社会的事件を目の当たりにしてきた若い世代にとって、未来投資は「自己投資」へと向かってきていた。いわゆる自分磨きや資格取得であるが、その中心的役割を果たして来た英会話のNOVAは破綻し、更には海外留学のゲートウエイ21までもが破綻した。

一見、未来への入り口が見えないように思えるが、そうではない。大手企業に就職したとしても安定はないと考えなければならない。米国の2人の大統領候補は内容は異なるが同じように変革をテーマとしている。今回の金融危機は、共和党マケイン候補どころか、あのネオコンのリーダーであるF・フクヤマですら、レーガン主義〜金融資本主義の終焉とアフガン・イラク戦争による信頼の失墜を明確にしている。つまり、大きく変わっていく時代に入り、誰もが未来は分からないということだ。そんな時代に安定などあり得ようが無い。逆に言えば、不安定、混乱をすら楽しめるように覚悟を決めれば良い。もし、未来実感できるとすれば、本当に好きなことを仕事のテーマとすることだ。あのアップルコンピュータの創始者の一人スティーブジョブズは「自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ。自分が素晴らしいと信じる仕事をやる。それしかない。そして、素晴らしい仕事をしたいと思うなら、進むべき道はただ一つ。好きなことを仕事にすることだ」と語っているが、つまり「好きは未来の入り口」というシンプルな生き方ということだ。

ところで、どんなに世界が激変しても、この少子高齢社会は変わらない。確か1990年代後半頃だと思ったが、生産年齢人口が減少に移ったとして唯一警鐘をならしていたのは堺屋太一さんだけであった。そして、今回8病院に断られた妊婦の死が明らかにしてくれたように、東京ですらお産ができないような情況へと至ってしまった。更には、東京ではハッピースマイル保育園20数カ所が破綻し、園児が行き場を失っている。もし不安というならば、子を産み、育てることすらできない情況になりつつあるということだ。父母にとって何よりも未来を実感できるのは我が子である。

今、政府は景気対策として定額給付金2兆円を使って個人消費を高めようとしている。しかし、こうした根底に横たわっている不安に触れない限り、消費には至らない。コトは単純である。産科、小児科の医師不足や後期高齢者医療制度、あるいは年金といった諸制度の根本改革の入り口に予算を割り当てれば、不安の何分の一かは解決できる。スウェーデンのような高福祉高負担にするのか、いや中福祉中負担がよいのか、こうした論議を踏まえ、まず無駄を削り、段階を経て消費税を決めれば良いのだ。また、当然であるが、これから「何で飯を食べていくのか」といった議論も不可欠となる。残念ながら、世界の消費エンジン役を果たしていた米国はその消費は当分の間ストップする。景気が悪いということだけでなく、クレジットカードでリボ払いがごく普通であるようなライフスタイルそれ自体を米国民自身が変えようとしているからだ。新大統領はオバマ氏が勝利し、従来の日米関係も変わるであろう。日本も資源輸入・輸出依存という外需型の産業構造を変えざるを得なくなる。日本においてもこれからますます景気は悪くなる。しかし、不安が鬱積し、更に激変する時代であればこそ、未来実感できることが希求されている。顧客は、市場は、何に未来実感するか、新しい市場創造はここから生まれるであろう。(続く)  


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2008年11月02日

非レバレッジの世界へ

ヒット商品応援団日記No313(毎週2回更新)  2008.11.2.

前回「物見遊山」という江戸の思想についてふれたが、単に人生を楽しむといったことではない。「物見」という、苦労もあれば喜びも悲しみある実体験を通した、それ自体を楽しむ思想のことである。確か昨年末のブログで、不況は既に始まっている、と私は指摘した。それは、いざなぎ景気を超えたと言われ、景気については心配ないと多くの経済アナリストがまだ語っていた時期である。しかし、地方を歩いて実感したのだが、東京で感じる「地方の疲弊」と地方に行って感じることとの間には大きな落差がある。鳥取や沖縄に行って感じることは、例えばシャッター通り化した商店街とメディアはいうが、人の声すら聞こえない澱んだ空気の通りを歩いてみて初めて分かることがある。
鳥取では人口流出が止まらず、60万人を割ってしまっているが、結論から言えば働きたくても「仕事が無い」という状態だ。沖縄では観光客で溢れる那覇の国際通りを少し入ったところにある破綻したダイエーは、その後の計画は頓挫し閉鎖されたまま放置されている。今まで見たことが無かったホームレスもここ1年ほど前から頻繁に見るようになった。他にも多くの「物見」があるが、東京で接するメディアからの情報がいかに違っているかということだ。

私は今回の金融危機の原因は、突き詰めれば「証券化」と「レバレッジ」にあると書いたが、金融という枠を広げても多くの問題点にあてはまる。証券化という商品開発については後日書くつもりであるが、今回はレバレッジについて私見を書いてみたい。レバレッジはテコの原理と同じであるが、もっと平易にその意味合いを広げると、「少ない労力で、大きな成果を上げる」ということであろう。労力をお金に変えても、時間に変えてもかまわない。ある意味、極限まで「楽して儲ける方法」として生まれたのが金融工学であり、その方法を力として世界中のお金を集めたのが米英の金融資本ということだ。
金融破綻というレバレッジ体験は、影響の大小はあるが、米国内にとどまらず全世界に、政治経済のみならず、生活の中にまで大きな変化をもたらす。勿論、懲りない人達はいて、新金融工学なるものを編み出す人達も出てくる。私のテーマは金融ではないので分からないことも多く、ここでは日本の生活にどんな変化をもたらすか、既に始まっているかを指摘をしてみたい。

今、生活不況の対策として「節約術」が盛んであるが、これはこれでライフスタイルとして必要な知恵となる。総務省の家計調査を見るまでもないが、9月の家計収入は前年同月比マイナスである。今年の冬のボーナスは予測通りマイナスとなる。ところで既にその予兆として出ているのが、支出を抑えると共に、「労力」を逆に使って楽しむ「手作り」への潮流である。「食」については安全・安心を背景に、既にヒット商品となっている家庭菜園と共にベランダ菜園からパン調理器といった具合である。自家製パンなどは素材である小麦粉は30〜40種類、発酵させる酵母などは20種類ほど用意されている。外食から中食へ、そして内食へという大きな潮流は内食そのものを楽しむことへと向かっている。自分で作る味、既に失ってしまった「おふくろの味」を作ることでもある。一見直接的なつながりはないように見えるが、レバレッジという見えない世界の苦い体験は、手作りという見える体験実感へとつながっている。消費という視点に立てば、既に作られた外食や中食からの食メニュー変化として、素材のバリエーションと共に、作る「道具」が売れ、道具をどのように使うかという「方法」(=レシピ等)が売れるということだ。もう少し着眼点を広げると、完成品ではなく、半完成品、半加工品、といった手を加えることが出来る商品が売れていくということである。また、中国製餃子事件以降、冷凍食品が急激に売り上げを落とした。夫婦共稼ぎの場合、手作りという手間のかかる料理はどうかというと、ある程度の量をまとめて手作りをし冷凍保存するような方法が採られている。結果、冷蔵庫は冷凍庫だけでなく、味を保つ「急速冷凍庫」なんかの新機能は標準装備となるであろう。

ここ数年消費の底流となっている長く使える商品、ロングライフ商品というお気に入りには一定の支出をするであろう。更に、こうしたお気に入り商品を更に長く使うための修繕サービス、リフォームサービスも盛んになる。情報や流行に流されないデザインを追い求め、売り、伝えていくことこそがブランディングであると行動するナガオカケンメイ氏なんかがその代表であろう。最近注目されている森陰大介氏によるモリカゲシャツも同じ価値観である。京都を基盤に、メンズシャツを世界へと販売。汚れたり、色あせて着なくなった服を藍(あい)染めで染めかえるエコデザインプロジェクト「ebebe/エベベ」をスタートさせている。売って終わりのビジネスではなく、売ることから始まるビジネスということだ。
1990年代から言われてきた「豊かさ」とは何か、数年前から盛んに言われてきた「上質」な生活とは何か、に一つの答えを見出し始めていると思う。キーワードとして言うならば、顧客を「ホームライフクリエーター」として見ていくということだ。

レバレッジとは目的地に向かって走る高速道路のようなものである。IT技術によって、誰もが高速道路に上がることが出来るようになった。ところが、目的地の少し前で大渋滞に出会ったようなもので、一般道に降りようにも降り口が見当たらない、というのが現在であろう。渋滞の中にあって、ルール違反者も当然出てきた。しかし、少し前までは一般道を走り、回りの景色を楽しんでいたことを思い起こせば良いのだ。以前、ライブドア事件に関し、ホリエモンについて「二十歳の老人」という喩えでブログを書いたことがあった。情報的には多くの体験を積み、まるで老人の如くであるが、実体験、リアル体験のない二十歳にとって大きな落とし穴があった。生き急いではならない、という指摘であった。今、沖縄で小さな勉強会、塾を開いているが、その参加者の一人に「ゆらり号」という車を使った移動カフェを起業した「ゆらりのマスター」がいる。人物もそうであるが、穏やかで、ほっとするなごみのカフェである。まさにレバレッジとは正反対に位置した等身大のビジネスである。人物の成長とともに、ビジネスも必ず成長する。(続く)  


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