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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

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2015年02月25日

未来塾(14)「テーマから学ぶ」下町レトロ 谷中ぎんざ(後半)

ヒット商品応援団日記No605(毎週更新) 2015.2.25.

前回に引き続き、今一番注目されている総称ヤネセン(谷中、根津、千駄木)という「面」での活動(後半)をレポートする。



御殿坂・夕やけだんだんから見る谷中ぎんざ


「テーマから学ぶ」

東京下町レトロ

谷中ぎんざ(後半)

(ヤネセン/谷中、根岸、千駄木)




ヤネセン、もう一つの「お・も・て・な・し」 Ninjo物語

2014年訪日外国人は1340万人を超えた。そして、訪日外国人の約4人に1人が「日本旅館に泊まりたい」と希望しているが、箱根には日本旅館は多数あるが都心にはほとんどない。しかも、価格としても高く、もっと手軽に使える安い日本旅館が欲しいというニーズに応えた旅館が根津にある。1982年に日本旅館としていち早く外国人の受け入れを開始し、今や宿泊客の約9割が外国人という「澤の屋旅館」である。その澤の屋旅館については以前ブログで次のように書いたことがあった。


『ここ数年訪日外国人が泊まるゲストハウスとして注目されている東京根津の旅館「澤の屋」はまさに家族でもてなすサービス、いやもっと端的にいうならば「下町人情」サービスという「お・も・て・な・し」である。これも澤さん一家が提供する固有なサービス、日本の下町文化に絶大な評価を得ているということである。そして、重要なことは澤の屋だけでなく地域の街全体が訪日外国人をもてなすという点にある。グローバル経済、日本ならではの固有な文化ビジネスが既に国内において始まっているということである。』

この澤の屋旅館も多くの都内の中小旅館と同様ビジネスホテルへと顧客は移り苦境に陥った時期があったとTV局のインタビューに答えていた。今残っている旅館と言えば、神楽坂の和可菜や本郷の朝陽館や太栄館、あるいは浅草の助六の宿 貞千代他数軒のみとなっている。
澤の屋も今は注目されているが、訪日外国人受け入れ転換時は大分苦労されたようだ。英語も都心のホテルスタッフのようにはうまくない、たどたどしい会話であったが、それを救ってくれたのが家族でもてなす下町人情サービスであったとのこと。
日本国内ではオタクと蔑まれてきたアニメやコミックがクールジャパンとして海外から高い評価を受け、秋葉原・アキバがその聖地になったように、常に「外」から教えられる日本である。ヤネセンが下町人情のアキバになれるかどうかこれからであるが、もう一つのクールジャパン物語、NinjoがSamuraiなどと同じキーワードになる時代が始まったことだけは確かである。

谷中ぎんざも他の商店街と同じ3度の危機を超える


谷中銀座商店街は終戦後の昭和20年頃に自然発生的に生まれる。ご近所相手の近隣型の商店街として発展してきたが、商店街のHPにも書かれているが、現在に至るまでには大きな危機が3度あったという。”1度目は昭和43年の千代田線の千駄木駅開通による通行量の激変、2度目は昭和52年の近隣への大型スーパーの進出、3度目は昭和60年代のコンビニエンスストアーの続々の開店です。危機が訪れる度に商店街が一丸となり、1割引特売、商店街夏まつりの創設、スタンプによるディナー招待など、アイデアと工夫で乗り越えてきた。危機をバネにしてきた、われながら、たくましい商店街であると思っている”と書かれている。
交通アクセスによる人の移動変化は小売り商売にとっては極めて大きい。大型スーパーやコンビニの進出は全国同様の地場小売店の共通課題であるが、取り上げた砂町銀座商店街や横浜洪福寺松原商店街もまた、谷中ぎんざと同様乗り越えてきた商店街である。こうした商店街に共通することは、顧客主義に基づいた固有なテーマをもって一丸となったことにある。

テーマによって観光地となる、その集客効果

谷中ぎんざ商店街による来街調査では、平成に入り、谷根千工房によるメディア戦略が浸透し、谷中・根津・千駄木の界隈が「谷根千」と呼ばれ注目が集まる。平成8年にはNHKのテレビ小説「ひまわり」の舞台となり、11年に商店街外観整備、13年にホームページ開設、18年には日よけの統一や袖看板の設置、さらに20年には猫のストリートファニチャー設置も実施し、商店街の観光や散策の地としての魅力を高めてきた。結果、平成26年調査では、金曜に約7千人、土曜には約1万4千人の方が訪れている。平成3年は平日、休日とも約8千人でしたので、平日は約1割減、休日は7割増え遠くから多くのお客様においでいただける商店街となっているとのこと。つまり、ヤネセンというエリアに注目が集まったことによって、平日の来街者(ご近所顧客)は減ったが、休日は多くの観光客が訪れ商店街として活性され、逆に成長したということである。
谷中ぎんざもそうであるが、観光地化の目安が食べ歩きである。砂町銀座もそうであったが、ここ谷中ぎんざも座って食べられるような工夫や食べ歩きしやすい包装など顧客の要望に応えている。そして、更に集客を促進しているのが人であり、砂町銀座ではあさり屋の看板娘(おばあちゃん)であったが、谷中ぎんざも同様で名物の谷中メンチも看板娘が元気に店頭に立って売っている。観光客にとって分かりやすい目印になっているということだ。

「観光」テーマの広がり


ヤネセンを歩くと分かるが、とにかく寺社の多いエリアであると誰もが感じるであろう。無料・有料のかなりの数の散策地図があるが、その地図を多くを埋め尽くしているのが根津神社や観音寺をはじめとした寺社である。写真は2月3日に行われた根津神社の節分の豆まき風景であるが、つつじの名所でもあり、そうした季節以外にも広い境内には多くの散策スポットがある。
鳥居というと京都伏見稲荷大社の千本鳥居が有名で千本どころか1万本もあると言われ通り抜けるには30分もかかると言われている。根津神社にも写真のような鳥居があって数分で通り抜ける小さな鳥居であるが、若い世代の良きデートスポットにもなっている。

こうした寺社以外にもヤネセン一帯には多くの記念館がある。森鴎外記念館、朝倉彫塑館、あるいは「高村光太郎と智恵子の家」跡、更にヤネセンの東側にある言問通りの東側上野には周知の東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館などの国立博物館・美術館をはじめ、上野の森美術館や東京都美術館などが集まり、日本や海外の美術展示品や、人気の企画展示・イベントなど、展示品の収蔵数、規模などにおいて、日本有数の美術館・博物館エリアとなっている。つまり、ストックされた多様な「文化」が掘り起こすまでもなく、地表の至る所に出てきているということである。

下町レトロパーク

20年前のヤネセンとどう変わったのか、その変貌ぶりに驚いたと書いたが、良い意味での「観光地化」が進んでいる。しかも、観光地という以上、年齢を問わず、国籍を問わず、多くの人が訪れる場所となっているということである。
レトロコンセプトを掲げる谷中ぎんざだけでも観光地にはならない、根津神社だけでも同様、谷中霊園が象徴するような風情ある寺町だけでも同じである。ヤネセンが観光地化しつつある証明ではないが、寺町の路地裏にも個性溢れる小さなオシャレカフェが極めて多い。散策の楽しさを倍加してくれるのがカフェである。次に気づかされたのが谷中ぎんざの商店街には全国チェーンの店がほとんど無いこと、いや全く無いといっても過言ではない。勿論、JR日暮里駅にはエキナカがあり、駅前にはずらりと全国チェーン店が並び、時代の変化を追うフロー型トレンドショッピングゾーンとなっている。そうした全国チェーンに替わって、個人てやっていると思われる雑貨店がいわゆるお土産として売られている。谷中ぎんざ商店街のHPのコンテンツの一つである「新風」がこうした店舗として軒を連ねている。

ニューレトロ・リノベーション

ヤネセンのコンセプトであるレトロな世界に、「今」という時代の息吹やセンスを吹きこむ一つが「リノベーション」である。一般住宅やマンションにおけるリノベーションルームも10年ほど前から流行っているが、ヤネセンでは古い住宅をリノベーションし、更にシェアーするあり方が数多く見られる。その象徴が最小文化複合施設『HAGISO』であろう。解体予定だった築50年以上の木造アパート『萩荘』をリノベーションし、若いアーティストのためのギャラリーやアトリエ、美容室、設計事務所などが入居する。ここにもHAGI CAFEという素敵なカフェがある。
もう一つ象徴的なカフェとしてカヤバ珈琲がある。昭和13年創業老舗のカフェであるが、年配のご婦人2人が亡くなられてからは閉店状態が続いていた。しかし、歴史のあるカフェを復活させようと有志が立ち上がり、2009年9月にリニューアルオープンする。
これもヤネセンらしい古(いにしえ)に新しい命を吹き込み、新しいものへと生まれ変わらせるリノベーションがある。こうしてレトロコンセプトもより広がりをもって、より深みをもって語ってくれている。これは「今」を生きる私たちが、過去を訪れやすくするための方法の一つである。これから先を行くとは、奥深く眠っている歴史・伝統を探検する「オタク」になるということである。既にヤネセンオタクが増えていると感じるがどうであろうか。

新旧の「食」が混在する下町ならでは物語

リノベーションの代表的存在、しかも「今」を映し出している『HAGISO』を取り上げてみたが、その他にも古い民家を改装した小さな隠れ家的居酒屋「五十蔵(いすくら)」も実家を改装したとのことだが、また新風を送っているフレンチやイタリアンの店も多い。

そして、ヤネセンと言えば、何と言っても「時」を超えて愛されてきた飲食店が多い。根津にはあの俳優根津甚八が通い詰め、店の屋号をいただいてから売れっ子になったという築100年を超す居酒屋「根津の甚八」がある。写真では鮮明には出ていないが、黒光りした板塀にはまさに戦災に遭わなかった時代そのものを感じさせてくれる。
あるいは千駄木には寿司の乃池があるが、江戸前の寿司をテーマとしていたが、ご近所のお客さんから穴子寿司が美味しいから持ち帰りさせて欲しいという要望が多かったという。そして、今では穴子寿司の名店として広く知られるようになったと言われている。
ここにもヤネセンならではの「美味しい」物語がある。
また、ヤネセンにはカフェが多いと書いたが、それはカフェと言うより喫茶店といったほうが似合う店がある。今流行の、いや以前からであるが”お一人様専用喫茶店”という根津の「結構人 ミルクホール」である。組織のなかの個人というストレス社会にあって、一人になりたい時はある。ゆっくりと時間を楽しむ、そんな喫茶店である。こだわりなどという言葉では軽すぎる、価格は少々高いが店主のポリシーを感じさせるそんな珍しい専門店である。
さてこんな喫茶店を古くさいと言うのか、それとも新しいと言うべきか、そんな議論が起きるのもヤネセンである。

ところでどの町でもそうであるが、新旧の「食」の物差しとなっているのがラーメン店である。ここヤネセンのラーメン店はどうかと町を歩きながら見てきたが、地元の人から40年以上愛されてきたラーメン店がある。谷中ぎんざの路地裏に一寸店(チョットテイ)という店がある。昔ながらの中華そばやもやしそばを食べることが出来る店である。
以前取り上げた吉祥寺もそうであったが、特に町田のように二郎系や横浜家系、更には数年前からトレンドとなっている塩ラーメン店はどうかと思っていたが、「麺や ひだまり」という和風なラーメン専門店、その塩らぁめんが人気となっている。また、これはネットで調べた範囲内ではあるが、根津に家系のラーメン店「岡村屋」がオープンしたとの情報があった。やはりそうなんだなと、老舗が多い大人の町、観光地化した町であっても、国民食となり世界のラーメンとなった今、ここヤネセンにも新風は吹いているということだ。


テーマから学ぶ



3つのエリアを組み合わせた面戦略と戦術

今となってみれば、1980年代半ば雑誌「谷根千」の子育て編集者によって、大好きな地域を守り、そして育てる活動は商店街のメンバーや寺の住職へと次々と伝わる。そして、その志の結果が今日となる。これがテーマの広がりと奥行きである。これを町おこしと呼ぼうが地域活性化策と言おうがかまわないが、周りの多くの人たちの共感を得ることが出来たコンセプトであり、幸いなことに戦災に遭わなかったことによる住宅や商店、寺社、こうした建物や町並みが残ったことによる。”幸いなことに”と書いたのは、「文化」は多くの時を経て熟成されるものとしてある。そして、守り・育てる=活用すべき「資源」が、谷中、千駄木、根津という3つのエリアにまたがっていることがこのテーマの豊かさへとつながっている。テーマを持つということの意味を、ヤネセンは見事になし得ているということだ。
こうしたことを私たちのビジネス言葉では「構想」と呼び、その戦略を考えるのだが、谷中は台東区であり、根津や千駄木は文京区である。こうした行政の線引きを超える大きな苦労はあったと思うが、これが出来るのも「地元」の人によってである。
そして、この「面」は多くの坂によってその風景が変わる。観光名所となった夕やけだんだんは御殿坂の先にある階段で、岡倉天心記念公園へと行くには七面坂を下り、落語家圓朝の墓がある全生庵は三崎坂、他にもあかぢ坂、三浦坂、善光寺坂、根津うらもん坂、大給坂、たぬき坂、・・・・・こうした坂はヤネセン物語の次のシーンに移るためのまるで演出のために用意されたかのようである。これだけの坂があるということは、それだけの小さな物語があるということでもある。歌舞伎ではないが、幕間の「幕の内弁当」がヤネセンでは個性溢れる多くのカフェとなっている。「面」を変化ある物語にできたのもこうした「坂」による演出である。
坂は物語の舞台となってくれる。あの久世光彦さんが作詞し、日本レコード大賞をとった香西かおりが歌う「無言坂」は”帰りたい、帰れない無言坂”と歌う恋歌である。実は無言坂は富山市五艘の坂という説があるようだが、そんな由来とは別に物語は散策する一人ひとりが舞台の主人公になって創ればよい。そんな主人公の舞台づくりをかき立ててくれるヤネセンである。
ここにテーマに沿って既にあるものをどう魅力あるものとして生かしていくのか、どのようにあるものを組み立てていくのか、学ぶべき第一の点がある。

都市観光の新しい可能性、もう一つのクールジャパン

「ヤネセン」という面としてくくり位置づけることによって、谷中ぎんざ商店街自ら”平成26年調査では、金曜に約7千人、土曜には約1万4千人が訪れている。平成3年は平日、休日とも約8千人でしたので、平日は約1割減、休日は7割増え遠くから多くのお客様においでいただける商店街となっている”と。
つまり、従来の努力の延長線上では「約1割減」という衰退の道しかないということである。そして、面として一つのテーマを持つことによって「7割増」となり、成長への道を歩み始めたということだ。日本の休祭日は年約120日、つまり単純計算でも120日×(14千人-7千人)=84万人が純観光客となる。商店街を訪れた観光客数の推定であるが、春には谷中霊園の桜、5月には根津神社のつつじ、そして最大の集客時期は初詣客で根津神社、諏訪神社など。更には「七福神めぐり」もあり、恐らく150万人を超える観光客がヤネセンを訪れる。勿論、次なる課題は地元客と観光客という二人の顧客に対しどのように応えていくかである。

そして、現状では数値的には低いが更に訪日外国人も増えてくると思う。いわゆる団体・パッケージツアーから個人単位の旅行客、リピーターが増えている。今は富士山や京都観光など日本のシンボルであるメジャーな観光地が主流となっているが、昨年4月の訪日外国人の多くが「桜観光」を希望している。”日本旅館に泊まりたい”から、更に”桜見物をしたい”へと興味関心が広がりを見せている。そうした意味でヤネセンも訪日外国人の観光メニューの一つになり得る。

従来、都市観光の主流は「商業観光」であった。新しい、珍しい、面白い、という時代の変化をいち早く映し出している鮮度商品を購入するという都市商業を楽しむ観光である。こうした観光から、都心にあっても残る日本の歴史が刻まれた文化の旅、日本文化観光への広がり、その可能性である。その可能性を一言で言うならば、「もう一つのクールジャパン」ということになる。
ところで文化とのつきあい方であるが、変化型都市商業観光は話題はブームとなり一挙に集客に向かい、そしてパタット終わる。文化型観光は文化の本質がそうであるように「永いつきあい」へと向かう。つまり、リピーター化であるが、そのリピーター客によって「文化」は更に豊かになっていく。ヤネセンも既に10年ほど前から静かなブームが始まっていた。そして、そのような表現をするならば、今なおブームは続き、更に広がりと深みが増した「文化物語」へと移行している最中だ。そして、その変化はヤネセンを訪れる一人ひとりによって創られている。
学ぶべき第二点は「文化」への取り組みである。

時を遊ぶ、時に癒される

10年数年ほど前から多くの領域で回帰現象が見られた。そのなかでも回帰する一番が「過去」「歴史」である。そのように大仰に言わなくても「思い出」を振り返ると言った方が分かりやすい。思い出はその表現として消費に出てくる。特に、昭和という時代を駆け抜けた団塊世代については顕著に出てきている。“例えば”スープカレーもいろいろ食べてきたけれど、やはり本格カレーはインドのチキンカレーよね”、あるいは”やはりおふくろが作るじゃがいもカレーが一番”といった現象となって現れてくる。ファッションでいうと、茶髪から黒髪への変化であり、ダメージジーンズからリーバイスのようなオーセンティックなジーンズへの回帰となる。一時的なトレンド消費から、継続する定番消費への変化として出てきているということだ。

こうした現象はシニア世代固有の現象ではない。“若いティーンにも過去に遡った消費”もある。それを「プチ思い出消費」と私は呼んでみたが、5年ほど前に話題となった冷凍みかんだけでなく、10年ほど前には学校給食の人気上位には「揚げパン」もあり、コンビニには既に置かれている人気定番商品の一つとなっている。あるいはバターとジャムがぬられたコッペパンもそうした給食の思い出メニューの一つであろう。商店街の名前は忘れてしまったが、出来立てのコッペパンにその場でジャムを塗ってくれる下町のパン屋さんが大人気であると。そして、最近では揚げパン専門店が都内にオープンし、なかに挟むジャム類も豊富で老若男女人気になっているという。
そして、今居酒屋というより大衆酒場に若い世代が集まり始めている。常連客だけの飲み屋に何故若い世代、特に女性が集まるのか。格安居酒屋チェーンが軒並み集客・売り上げを落としている時代にあって、老舗と言われる大衆酒場に注目が集まっている。見渡せば周りはみしらぬおじさんばかり、だが会社の同僚といった一種の義務や利害から少し離れた会話も新鮮である。つまり、大衆酒場は心地よい「癒しスポット」になっているということだ。


ヤネセンを歩くと感じることであるが、「どこか懐かしい」と。根津から谷中にかけての路地はその多くは曲がりくねった通りで、狭い路地裏に木造住宅が密集している。そうした横丁・路地裏を歩くということは、いわば「記憶の生産」をしているようなもので、その生産に際しては、実は自分のお気に入りの風景や出来事を重ねている。つまり、現実の横丁・路地裏を歩いている訳ではない。
若い世代が揚げパンを食べるのも、学校時代の「何か」、仲間との遊びや授業を一緒に食べているということである。
つまり、それらは全て過去の忠実な再現ではない。そこに新しい「何か」を付与して思い出すのである。
Old New、古(いにしえ)が新しい、という意味はまさにそうした「何か」を意味したキーワードとしてある。レトロ、下町、というコンセプトは単に「古さ」を懐古することではなく、ある意味未来への入り口、過去のなかに未来を見るという創造的な試みということである。
学ぶべき第三点は、今顧客はどんな課題・興味を抱えているのか、解決すべきは興味を入り口としたコンセプト着眼と創造的なテーマづくりである。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:32Comments(0)新市場創造

2015年02月22日

未来塾(14)「テーマから学ぶ」下町レトロ 谷中ぎんざ(前半)

ヒット商品応援団日記No605(毎週更新) 2015.2.22.

今年からスタートする「テーマから学ぶ」の第一回は「下町レトロ 谷中ぎんざ」とした。昨年1年間エリアや商店街を歩きレポートしてきたが、そこで気づいたことの第一は成功しつつあるエリアや商店街は「テーマ」を持って時代に顧客に向き合っているという点であった。そうしたことから今年の第一回は「谷中ぎんざ」というタイトルではあるが、今一番注目されている総称ヤネセン(谷中、根津、千駄木)という「面」での活動を取り上げてみた。


御殿坂・夕やけだんだんから見る谷中ぎんざ


「テーマから学ぶ」

東京下町レトロ

谷中ぎんざ(前半)

(ヤネセン/谷中、根岸、千駄木)



歩いて分かることがある

変化は現場によって起き、そして終わり、次ぎなる変化へと向かう。分かっていてもあらゆる変化の兆しを読み取ることは難しい。そんな思いから昨年から「未来塾」というタイトルで現場レポートをしてきた。約40年ほどマーケッターとしてエリアや商業施設の調査や分析を踏まえコンセプトづくりをしてきたが、一人で歩き感じることはマーケッターとして一種新鮮な思いの2014年であった。
そんな歩いて気づいたことの一つが、成功しているエリアや商店街には必ず人を魅きつける世界、テーマ世界があるという事実であった。そして、そのテーマ世界には密度、集積度の高さがあるという実感でもあった。その良き例の一つが横浜洪福寺松原商店街における「価格」、ハマのアメ横と言われるように各店が競い合って「価格」を引き下げる工夫をしている。「訳あり」というキーワードの元祖であり、広域集客しない限り商売にはならない、ご近所のお客様は極めて少ない商圏からのスタートであった。「激安」はそんな小商圏から生まれたテーマであった。あまりうまくいっていない商店街、例えば戸越銀座商店街のようにテーマを持たないか、もしくはその集積度が低いことも実感した。
そして、何よりもここ20年ほどコンセプト着眼とそれに基づくテーマづくりをやってきた自身に立ち帰ってみること、現場を歩いてみることあった。
今回はそうしたテーマという視座をもって、今注目されているエリア、話題の「ヤネセン」をスタディした。

「個性化」時代とはなんであったか

その前に過去からの経緯を簡単に整理すると、1990年代バブルが崩壊した後も1997年頃までの消費は1980年代後半と比較すればその勢いはないものの依然として旺盛であった。当時ビジネスにおいて盛んに言われていたのが「個性化」であった。簡単に言えば、情報が広くしかもあっという間に伝わる時代にあって、人気の商品やサービスはすぐさま類似したものが次から次へと生まれてしまい違いをどう作れば良いのかが大きな課題であった。「違い」が同じ商品であれば消費は安い方へと向かう。結果、「価格競争」になる。今なお残るこうした課題を総称して「個性化」というテーマがビジネス課題となった。
そして、周知のように1990年代後半からの価格競争時代の勝ち組、日本マクドナルドや吉野家、ユニクロなどが「デフレ時代の旗手」としてもてはやされたのである。

個性化の「差異」は創れるという神話

1980年代、社会学や社会心理学を学んだ者であれば必ず読んだ著作の一冊がボードリヤールの「消費社会の神話と構造」であろう。ここではその記号論を解説するものではないので簡略にウイキペディアにならっていうならば、「<モノの価値>とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にある。例えばブランド品が高価であるのは、その商品を生産するのにコストがかかっているからでも、他の商品に比べ特別な機能が有るからでもなく、その商品そのものの持つ特別なコードによるものであり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれる。」
そして、この特別なコードは創ることができるとし、その任にあたった中心がデザイナーであった。デザイナーによって創られた「記号」は、消費者にとって気に入れさえすれば、この記号価値を購入消費する、つまり記号にお金を支払うという考えである。もっと平易に言えば、パッケージデザインをかっこ良くすれば中身は二の次、といった言葉が当たり前のように使われた。あるいはチョット変わった店づくり、そうした雰囲気づくりをすればそんな雰囲気を消費する時代であると。つまり、「差異」は創ることが出来、それがマーチャンダイジングやマーケティングの主要テーマであると。
本質的にはその通りであるが、安直にデザインを変えればモノが売れるとし、そのデザインを付加価値などと表現するマーケッターが続出したが、その程度の付加価値は一過性のものとしては成立するが、すぐに顧客自身によって見破られロングセラー足りえない結果となる。顧客は目が肥えただけでなく、賢明な認識、成熟した消費者へと成長している。

「差異」は顧客によって創られるという本質への回帰

そして、差異は顧客によって創られるものであると次第に理解され始めてきた。差異を広げ、消費者の話題へとつなげていくのが情報メディアであり、そのメディアがマスメディアであれ、ネットメディアであれ、口コミメディアであれ、差異は消費者へと届く。そして、違いを欲求する消費者は購入し体験するのである。
そして、その体験や経験実感は消費をより確かなものとするために「ランキング情報」を使うようになる。しかし、そのランキングも3年ほど前の食べログにおける月島もんじゃ焼き事件のようにランキングを上げるために広告会社がコメントを投稿するという、いわゆる「やらせ」が横行することが一般化する。どんな情報がベターであるか、次第に情報があるようでいて欲しい情報がないことに気づく消費者が増えてくるようになる。
その先はどうであるか、あたりまえの事実、”この商品はこのチョットしたこの違い”が自分には合う、お気に入りという自身の感性へと帰る。今なお差異はデザイナーをはじめ創ることができるというマーケッターはいるが、次第に少なくなるなるであろう。

ストック(文化型)とフロー(変化型)消費が交錯する時代

何故こうした創られた価値商品と顧客の体験実感価値商品とが生まれているのかは、本質的には消費者が生産する術・方法を持たないことによる。例えば、一部週末農家人として菜園を持つ消費者のように自給自足的生活者は増えてはいるが、生産者ではない。
創られた価値商品と顧客の体験実感価値商品の比較例として前者を時計のロレックス、後者をスオッチの2つで比較分析を行ったことがある。周知のようにロレックスは文化価値(=アンティーク)であり、スオッチはデザイン価値(=変化・鮮度、トレンド)であると指摘をし、前者を文化型商品、後者をコンビニ型商品と私は呼んだことがある。

このように時計のみならず、アパレルファッション、食品、化粧品、更には住むエリアまで幅広く2つの市場が作られてきている。特に都市においてはこの2つの市場が明確に現象化している。例えば、誰の目にも分かりやすい例としては、今東京で脚光を浴びている「街」にあてはめれば、文化型話題を提供しているのが江戸文化が残る日本橋や人形町、更には昭和の庶民文化の街であればヤネセン(谷中、根津、千駄木)といったエリアとなる。

一方、時代の変化を映し出すコンビニ(トレンド)型価値を提供しているのが表参道や原宿竹下通りといったエリアとなる。商店街という視点に立てば、前者は「商店街から学ぶ」でも取り上げた江東区砂町銀座商店街であり、後者であれば新宿ルミネといった商業施設となる。前者、後者を小さなエリアのなかに混在させながら独自な魅力を発揮しているのがあの吉祥寺・ハモニカ横丁となる。そして、前者の文化型話題のなかで、世界に誇るサブカルチャーパークとなっているのがあの秋葉原・アキバである。

テーマの時代がやってきた

消費増税によって消費意欲が平均的には減退しているが、顧客が押し寄せる街やエリアはあり、行列が出来る店もある。昨年末の売り出しでは、この未来塾で取り上げた横浜のアメ横と言われる洪福寺松原商店街には例年にも増して凄まじい人出があったと報じられている。安さばかりでなく、顧客を魅きつける「何か」は厳然として存在している。
このようないくつかの街や商店街について書いてきたが、私の言葉で表現すれば、人を魅きつけるコンセプト・テーマは「何」であるかという観察であった。いわば顧客市場へどんな魅力(コンセプト)を提示すれば良いのか、顧客がその提示された魅力を更に膨らませる(テーマという広がり)にはどうしたら良いのか、ということであった。
そのコンセプトとテーマの関係、位置づけについてであるが、コンセプトは顧客市場にとって魅力となる方向をその世界とし、テーマはその方向をより「豊かにより分かりやすく」、奥行きと広がりを埋める世界のことである。よくコンセプトは良いが、それをうまく生かすことができていない場合が多く、何が成功で何が失敗であるかを分からなくさせている場合が多い。コンセプトを生かすのも殺してしまうのも、その方向をマーチャンダイジング&マーケティングするテーマ集積力を間違うか、もしくは足りないかである。テーマは圧倒的な「差異」をもった競争力として、顧客支持を得るという構造となっている。その構造を図解すると次のような図となる。




2015年度は話題を集め、人が集まる街や商店街を中心に、そのコンセプトを生かすためのマーチャンダイジング&マーケティングというエリアデザイン、コミュニティデザイン、更にはプロダクトデザインについて学んでまいります。

ヤネセン(谷根千)というエリア

東京の中心部、特に下町と呼ばれた江東区や台東区の多くは戦災に遭い建物を含めその多くを焼失した。例えば、その象徴でもある上野アメ横のスタートは焼け野原のなかのバラックからのスタートであった。その上野の北側にある台東区谷中から西側の文京区根津一帯は戦災を免れた昔ながらの木造住宅などの街並が今なお残っている。
最寄り駅はJR日暮里駅あるいは地下鉄千代田線千駄木駅、根津駅であるが、地方の人にとっては上野公園の北側・西側と言った方がわかりやすい。東京に永く住む人にとっては谷中霊園のさくら、あるいはつつじの名所にもなっている根津神社があり、落語家の町といったイメージを思い浮かべる人も多い。それは江戸末期から明治にかけて活躍した落語中興の祖といわれる三遊亭圓朝にちなんだ「圓朝まつり」が毎年催される。その圓朝ゆかりの場所は三崎 (さんさき) 坂に面する全生庵。その全生庵には圓朝の墓があり、落語家たちが今なお命日の8月11日に法要を営んでいるという。

今から20年ほど前になるがJR日暮里駅の駅改良工事の計画があり、その商業施設を含めた可能性について駅周辺を調べたことがあった。当時の日暮里駅もそうであったが、谷中ぎんざを含め周辺エリアはただ古くさいだけの商店や街並といった印象であった。しかし、今回ヤネセンというテーマのあるエリアをスタディしようと何回か歩いてみたが、20年という時を経たこともあるが、考えていた以上の良い意味での変貌ぶりであった。その変貌の一つが東京を象徴するJR日暮里駅前の高層ビル群である。


そして、そんな変貌のなかでも、最近東京で一番注目を浴びているのが谷中ぎんざ商店街である。砂町銀座商店街、十条商店街、巣鴨地蔵通り商店街、赤羽東口駅前商店街、あるいは京成立石商店街。こうした商店街に共通しているのが、「昭和」「下町」といった生活文化の匂いが色濃く残っている商店街である。こうした大きな商店街以外にも、未来塾でも取り上げた吉祥寺のハモニカ横丁、町田仲見世商店街、小さな横丁、路地裏といった一部エリアであればまだまだ残ってはいる。再開発が進む東京ではあるが、新宿西口の一角にある思い出横丁や武蔵小杉駅前の再開発ビルの谷間に残るいくつかの商店街、あるいは昭和の匂いのする「えばらまち商店街」もその一つであり、今後大井町線荏原町駅前の防災事業再開発がどのように進むのかそれ次第ではあるが。
こうした戦後の再開発から残ったエリアに注目が集まるのも、便利さと引き換えに「何か」を失ってしまったと感じる都市生活者、そうしたシニア世代ばかりか、吉祥寺のハモニカ横丁のように若い世代にとっても新鮮な世界、古が今新しい(OldNew)と感じる。そうしたノスタルジックな潮流がここ十数年社会の表へと出てきたからであろう。

物語のあるエリアに

「差異」という個性は顧客によって創られると書いたが、ヤネセン(谷根千)も住民の人たちによって一つの独自物語が創られている。東京といっても極めて広く、その地域に住まない限り、再開発等の動きは分からない。根津は文京区に位置しており、その名の通り文の京(ふみのみやこ)として文人や学者、政治家などが多く住む古くからの住宅地であり、根津神社をはじめ多くの寺社のあるいわゆる寺町となっている。

文京区は世田谷区や練馬区と同様にJR山手線の駅がないエリアということから、結果として商業施設も少なく再開発事業の波からは外れたところにある。しかし、次第に不忍通りから住宅地へとマンション開発などが始まり、町が変わってしまう、この歴史のある風情ある町並を残そうという住民の中から、一つの地域誌が生まれる。1984年わずか数名の子育て主婦が始めた谷根千工房による雑誌『谷中・根津・千駄木』が創刊される。
私は1990年代前半コミュニティペーパーをスタディしたことがあり、何回か読んだ記憶がある。主婦とは言えなかなかセンスの良い雑誌であった。そのセンスは雑誌のデザインとしてのセンスばかりでなく、情報の掘り下げ方等興味深く読ませてくれるそうしたセンスである。現在はその発刊を終え、次の世代へとバトンタッチしているようだが、恐らく、町おこしというとB1グランプリ参加から街コンまで多様な試みがあるが、雑誌『谷中・根津・千駄木』のようなメディアによる町おこしは初めてであろう。そして、こうしたメディアを通じて谷根千物語が始まる。町おこしにはバカ者、ワカ者、ヨソ者が必要であると思うが、基本の第一はそこに愛着をもって住む人自身、そんなバカ者によって町おこしという物語がスタートする。

昭和、下町を思い浮かべる”夕やけだんだん”物語


2005年の日本アカデミー賞を受賞し200万人もの人たちを動員した「Always三丁目の夕日」の主要なモチーフとなっているのが「夕日」「夕焼け」であった。周知のように西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を映画化したものであるが、昭和33年東京タワーが完成するこの年、夕日町三丁目に繰り広げられる温かな人間模様を描いた映画である。この三丁目は東京タワー近くの港区愛宕町界隈を想定したものであるが、JR日暮里駅から谷中ぎんざに向かう坂道(階段)も西日暮里三丁目ということもあり、その坂道から見る夕日が素晴らしく、多くの人は「Always三丁目の夕日」を思い浮かべる、そんな夕日の町である。
日本全国朝日と夕日の絶景スポットといわれる場所は数多くある。絶景マニアが撮影したい時と場所はこの時この場所という非日常の風景である。しかし、この谷中ぎんざを見下ろす坂の上からの夕焼けは絶景というより、だんだんと日が暮れていく日常の風景、今日一日お疲れさまとでも表現したくなるような、そんなありふれた時間の夕焼けである。感動するなどといった絶景ではなく、1日が終わりどこかほっとするそんな日常風景の夕焼けである。

この階段の「夕やけだんだん」というコピーは平成2年に雑誌「谷根千」の編集者であった森まゆみさんがネーミングしたとのことだが、見事なくらい「昭和の下町物語」を生かしたものとなっている。この谷中ぎんざ商店街のHPには下町物語「東京下町レトロ」の主要コンテンツのキーワードが表現されている。「笑顔」「人情」「職人」「粋」「食」「新風」「風情」「歴史」「猫」「未来」とあるが、是非そのHPを見られたらと思う。
東京下町というと、必ず出てくるキーワードの一つが「人情」である。小売りという顧客接点の場合、顧客のことを思って、”今日はこれがいいと思うよ”と常に顧客のことを思って時々のお勧めをする。実は、これが「人情」の本質である。顧客を思うとは、つまり日常にある思いということで、特別なことではない。だから、谷根千の入り口となる坂の上から見る「夕焼け」は小さな思い・人情の象徴でもあるのだ。
ヤネセン、特に谷中ぎんざの周辺には野良猫が多く、”夕やけだんだん”ではなく、”夕やけにゃんにゃん”と呼ばれるほど多い。和歌山電鐵貴志川線には猫の駅長「たま」が看板猫として有名であるが、ヤネセンのランドマークは何かと言えば、やはり「坂の上から見る夕焼け」であろう。(後半へ続く)
  


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2015年02月06日

自作自演の人気者 

ヒット商品応援団日記No604(毎週更新) 2015.2.6.

次から次へと大きな事件が発生し、わずか数週間前に起こったことが遠い過去のことのように感じる時代である。そのなかの一つに「つまようじ混入」事件があった。スーパーの菓子につまようじを混入したり、万引きをしたりする様子をYouTubeに投稿した事件であったが、古くは2013年7月高知ローソンのアイス用冷凍庫に入ったアルバイト店員の写真をFacebookに公開したり、ミニストップでも同様の事件が続き、東京足立区のステーキハウスではこれも店員の悪ふざけ写真をツィッターに投稿し店舗閉鎖に至り、そうした悪ふざけに対する危機管理、従業員教育といったことだけが指摘されてきた。しかし、つまようじ少年がいみじくも語っていたように「人気者」になりたかったことが背景となっている。

何故人気者を目指すのか、その心理には「絆」を失ったいじめ社会があると指摘する専門家もいる。「いじめ」を超えるために、自分が他人との違い・優位性を求めることに起因していると。成績優秀、卓越したスポーツや特技、あるいはけんかなら誰にも負けない、こうした従来型の一種の階級社会とは異なる「話題」「注目」といった情報(人気)階級社会が生まれているのではないかという指摘である。こうした階級社会の頂点に立つのがいわゆる「人気者」である。
先日、秋葉原殺傷事件の犯人加藤被告の死刑が確定したと報じられたが、事件が起きたのは2008年6月であった。犯行理由の一つに挙げられているのが、ネット上の掲示板での「荒らし」という一種のいじめであった。そして、犯行に至る計画や経過をその掲示板に書き込んでいたが、分かりやすく言えばネット上の人気者になれなかったことによる「自死」と言ってもかまわない事件であった。事件後、加藤を負け組の英雄とし、「神」「教祖」「救世主」とまでみなす共感現象が起きて、当時ネット上で話題となったことがあった。

つまようじ少年の事件報道に触れ、どんな環境下であったのか、どんな育ち方をしたのか詳細は分からないが、間違いく「社会的孤立」状態にあったことだけは事実であろう。つまようじ少年はネット上で「ひとときの人気者」になったと思うが、その情報操作についてはマスメディアを巧みに利用し、YouTubeの閲覧へとつなげていくという手法には卓越したものがあった。現在のマスメディア、特にTVメディアの場合は自ら取材する情報は極めて少ない。最近の情報源はネット上の情報、特に個人による投稿情報に依存しているのが実態である。YouTubeの閲覧回数が一定程度あればTVメディアが取り上げ、それをてこに更に拡散するという方法である。以前から指摘してきたように、情報受信だけでなく発信までもが「個人」に移っているということである。スマホというネットメディアの出現によって、自作自演劇場は「わるふざけ」から凶悪犯罪事件までいとも簡単になったということである。

1990年代後半、学校からも家庭からも居場所を失った少女達が都市を漂流し社会問題化したことがあった。同じような居場所の無い仲間のいる渋谷はある意味居心地のよい場所であった。少女達は渋谷に集まり、次第に大人達による援助交際や薬物に手を出す。夜回り先生こと水谷修先生がそんな少女達を救うために授業の後夜回りをし、「春不遠」というサイトを通じ対話していた頃である。そうした応援に気づき、学校も家庭も少女達が何を求めているかを想像するようになった。結果、年齢を重ね、仕事や家庭へと居場所を探すことへと向かう。
つまり、つらかったことといった「語るべき過去」があった時代であり、結果として「戻るべき場所」を探すことが出来た時代であった。

さて「今」はどうであるか。インターネットという仮想世界が現実を飲み込んでしまうほどの勢いの時代である。「語るべき過去」や「戻るべき場所」を持たない若い世代が増えてきている感がしてならない。言うまでもなく仮想と現実を行ったり来たりの社会であるにも関わらず、まるで仮想世界に居場所を求め、過去を求め漂流するかのようである。ネットリテラシーということになると思うが、政府総務省も高校1年生に対しアンケート調査を実施し、スマホの所有は84%に至っており、その分析結果を踏まえ活用のためのリテラシー指標を公開している。しかし、そうした実態もさることながら、「大人」こそネットリテラシーをもって若い世代に向き合うことに注力すべきであろう。

ところで、作詞家阿久悠は、自らの青春時代の人間関係、その象徴である恋愛は免許制で資格を取得しなければならなかったと書いている。その免許とは何かというと、「教養講座としての文学を読むこと」、読まない人は「人を思いやり、自分を制御することを知る人間講座の実地を学ぶ」。どちらかを誰に言われることでもなく自覚していた、と語っていた。「相手を思いやる想像力」のことを免許制としているのだが、しかし、残念ながら自覚できるような時代に生きてはいない。つまるところ、仮想であれ現実であれ、つまようじ少年のように人間関係をどう作っていったら良いのか分からないということである。

作家五木寛之は鬱状態の自分に対し、『人は「関係ない」では生きられない』とし、「あんがと(ありがとう)ノート」を書き、鬱状態から脱したと著書「人間の関係」(ポプラ社刊)で書いている。人間の成長は4つの段階で変わっていく。幼少期から少年期には「おどろくこと」で成長し、やがて「よろこぶ」時代を過ごす。そして、ある時期から「かなしむ」ことの大切さに気づき、しめくくりは「ありがとう」ではないかと。そして、鬱の時代はこれから先も続くとも。
私のような世代は「ありがとう」であるが、特にデジタルネイティブ第二世代は「おどろくこと」を経験し、やがて「よろこぶ」ことへと向かって欲しい。そして、痛みを伴うこともあると思うが、「おどろくこと」も「よろこぶ」ことも、自作ではなく、他者によってつくられるということに気づいて欲しい。当たり前のことだが、人気者は他者によって創られる。(続く)  


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