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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2008年04月27日

情報時代の通過儀礼

ヒット商品応援団日記No260(毎週2回更新)  2008.4.27.

少し前に「連鎖する社会」というテーマで情報の時代の特徴について書いた。こんなことは当たらない方が良いのだが、ここ1週間ほど、報道されるように「硫化水素自殺」の連鎖が起きている。この報道を耳にした時、日本が情報時代を迎えた1980年代に起きた岡田有希子後追い自殺現象を思い出した。1986年4月に所属事務所の屋上から飛び降り自殺したアイドル歌手であるが、死の現場に多くのフアンが集まり、彼女の死後2週間で27人の自殺者を出し、社会現象化した事件である。
当時はアイドル論が盛んで、「ディズニーランドに似合うアイドルを創ろう」といった仮想現実化に注目が集まっていた時期である。アイドルという身体をもたない創られた虚構の世界。そのアイドルの死を情報死として、いわば「情報心中」として連鎖していった社会現象である。このことに大きな衝撃を受けた事件であった。

こうした社会現象化する予兆を感じた時だけ、私は2チャンネルの掲示板のスレを読むのだが、いやなことだが無数の書き込みを読んだ。周知のようにサンスポのZAKZAKをはじめTVのワイドショーの情報源の多くは2チャンネルである。虚実、清濁、混沌とした世界であるが、鶴見済による「自殺マニュアル」以降、ネット上では「練炭自殺」を経て、硫化水素に関する書き込みは既に昨年後半からあった。勿論、自殺を助長してはならないので詳しくは書かないが、岡田有希子以降の時代背景が映し出されている。
その特徴だがネット上のスレは個人であり、練炭自殺の時は「仲間」を呼びかけたことにあった。今回語られていたことは、全て「個人」についてであった。しかも、スレの向こう側に膨大な自殺予備軍を私は感じてしまった。

「何かおかしい」と今から7年ほど前に既存情報をつぶさに調べたことがあった。勿論、経済ばかりでなく、社会現象や病気に至まで、ライフスタイルを構成しているであろう多くの指標となる情報を分析した。嫌なことだが市場が心理化していることから、精神病患者数や内容の変化、自殺者数の変化、公表はされていないが自己破産件数の推移なども含まれていた。
家計収入面では、バブル崩壊以降も増え続け、1998年から急速に減少する。1997年には拓銀や山一証券が破綻する。この年を境に自殺者が3万人を超えるのである。単に経済が悪化したからということではない。それまでの多くの価値観、大企業神話、終身雇用、年功序列、IT導入による仕事そのものの変化、そこに現れたのが「競争」である。こうしたパラダイム変化と共に、少子高齢化の入り口である生産年齢人口も減少へと向かう。つまり、今日現象化している多くは1990年代後半に始まっていた。

この転換点で一番大きな問題が個人化社会であった。豊かさと併行するように暮らし方が個人単位へと変わったことだ。住まい方も単身世帯と夫婦二人世帯が全世帯数の50%弱となり、夫婦共稼ぎは至極当たり前となった時代だ。この個人化を更に加速させたのがインターネットの普及である。皮肉なことに、瞬時に「答え」が手に入るGoogleという方法も手に入れることとなる。ちなみに2チャンネルの硫化水素による書き込みには「練炭自殺に代わる、新しい自殺方法が開発されました」とある。厚労省による商品販売規制の通達が出され、ネット上における監視規制が強化されると思う。しかし、どんなに規制を強化しても書き込みは続き、サイト訪問者も存在する。情報化社会にあって、ネット社会は越えなければならない新しい一つの通過儀礼のように思えてならない。自殺を100%思いとどまらせることは不可能かもしれない。しかし、詩人谷川俊太郎さんはコトの本質を詩人らしい表現で指摘してくれている。それはあの糸井重里さんが主宰している「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で、読者からの質問に答えるという形でだ。「谷川俊太郎質問箱」より。

【質問】
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)

追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした質問です。
       目をうるませながらの質問でした。
        正直、答えに困りました〜
   
[谷川俊太郎さんの答え]

ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

今、私たちに一番欠けていることを指摘してくれている。「アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね」と答える谷川俊太郎さんの暖かくもその明快さに強く共感する。母と子を、本人と回りの人との関係に置き換えてみる。アタマという言葉を理屈という言葉に置き換えても、ココロを愛情にと置き換えても、カラダを「虚構から現実へ」と置き換えてもいいかと思う。相談、会話、そして何よりも「ぎゅーっと抱きしめて一緒に泣くこと」が必要な時代だ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:31Comments(0)新市場創造

2008年04月24日

「正解」のない試験時代

ヒット商品応援団日記No259(毎週2回更新)  2008.4.24.

本格的にはWiiの脳トレ以降であるが、TVのバラエティ番組の多くがクイズ的なものばかりとなっている。「知のゲーム」をエンターテイメントたらしめるために「おばかキャラ」を作ったりしているが、いわゆる雑学の世界である。雑学は博識とは違い、全て短編、ショートストーリ、部分、といった興味の先端部分のみとなる。フルスピードで駆け抜けている時代にあっては、深く考えたり、理解の先を見極めることなど難しい時代なのかもしれない。私はあらゆる単位、社会から経済、消費に至まで「小単位」となった時代という認識をしているが、知のゲームもまた小単位ということだ。

団塊世代の大量退職により、新卒の就職率は順調のようである。先日NHKの番組で「地頭力を鍛える」というテーマで、答えの無い答えを求めた入社試験を取り上げていた。まあ、一言でいうと以前流行った「ゼロベースシンキング」、過去や諸条件にとらわれず新しい発想を求めるといった内容である。SONYの創業者である盛田さんは「人に真似されるものを作りなさい」と常にオリジナリティを求めた経営者であった。そうしたポリシーと同じテーマである。
そのTV番組で紹介された中に、マイクロソフト社の入社試験があった。「富士山を動かすにはどうしたら良いか」という設問で地頭力を試すということがコメントされていた。富士山は見るもので動かすものではないと誰もが思っており、意表をついた設問だ。従来とは異なる新しい発想のできる人材をマイクロソフト社は求めたのだと思う。正解はないのだが、モデルとなる「答え」は、富士山の容積を計算し、パワーシャベルと車で他の場所に移動するというものであった。ゲストコメンテーターの糸井重里さんは、「先が見えない時代の企業の悲鳴のようだ」とコメントしていた。

欲しい情報はネット上で検索すれば瞬時に手に入り、あまり考えることなく一定の答えが出せる時代だ。しかし、同じ答えばかりの世の中では唯一の競争力は価格だけとなり、これまた答えにはならない。ところでこうした知恵やアイディアを経営の中心に置きたいとどの企業も考えている。その源である能力とは脳力であると言われ、今注目されている脳科学者の茂木健一郎さんは、人間の脳を大きく変えたものが2つあると言っている。1つは言語を持つことによって大きく脳が変わってきたということ。もう一つがインターネットの世界が人間の脳を大きく変えていくと言っている。

言葉を持つことは,ベストセラー「声を出して読みたい日本語」を書いた齋藤孝さんが言われているように、心も身体も元気になる、生き生きとさせてくれることは理解できる。もう一つのインターネットの世界であるが、茂木さんは検索エンジンのGoogleを取り上げて、検索→絞り込み→選択、という手順を踏んで「求めるもの」にたどり着く。従来であれば、図書館に行って調べたり、人に聞いたりして選択までの時間がかかるが、Googleだと瞬時に出来てしまうこと。そして、この選択という脳の働きはいわば直感力そのもので、インターネットの世界は、無料で自由にこの直感力を働かせるという説を述べている。つまり、いろいろな条件や壁によって抑えられてきた無意識下にあることや感性的なものが表舞台に出てくる可能性があるという考え方である。齋藤さんの「声を出して・・・」もそうだが、人間が本来もっている五感力、感じ取る力を取り戻すことが重要であることは理解できる。

先が見えない時代は当分続く。であれなこそ想像力、仮説力が求められるのだが、前回書いた天野祐吉さんはそのブログの中で、落語家志の輔さんの「教育論」を引用して、この地頭力に触れている。出来の悪い子供をもつお父さんが先生に呼び出されて試験の出来の悪さを指摘される落語で、ここに出てくる試験問題が天野さん流の地頭力の答えである。
「81個のりんごを3人にひとしく分けるにはどうすればいいか」という設問に対し、与太郎みたいな子供は、”ジューサーでジュースにして分ける”と答える。理由は”りんごには大きいのや小さいのがあるし、甘いのやすっぱいのもあるから。だからジュースにしたんだ”というのが答えだ。そうかと思うと「本能寺を焼いたのは誰か」という設問に対しては”ぼくじゃありません”と答える。そんな落語を引用して、天野さんは「正解とは何か」、そしていわゆる「試験の愚かさ」を指摘している。マイクロソフト社の「富士山を動かす」入社試験問題より、この志の輔さんの落語に出てくる与太郎の試験に対する「答え」の方が、よほど想像力を引き出す良き試験のように、私には思える。毎日が試験であるビジネスに正解はない。だから面白いのだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:49Comments(0)新市場創造

2008年04月20日

コンセプトとネーミング

ヒット商品応援団日記No258(毎週2回更新)  2008.4.20.

「後期高齢者医療制度」の分かりにくい内容や年金からの天引きというやり方もさることながら、多くのお年寄りから「無神経」「早く死ねといわんばかり」といった制度名称への批判が出ている。私が尊敬するコラムニストの天野祐吉さんのところにもこの「後期高齢者医療保険者証在中」という封書がきたそうである。天野さん曰く”正確な言い方とか、間違いようのない表記とか、客観的な表現とか思ってるところが、馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。後期馬鹿だ”と、ご自身のブログ「あんころじい」(http://amano.blog.so-net.ne.jp/2008-03-23)で怒っている。そして、ご老人と呼ばれるのは仕方がないが、呼ばれる相手の身になってみること、想像力の問題だと指摘している。この新しい医療制度と共に「地球温暖化」も良くないと。コピーライターである鈴木康行さんの論、”温暖化にはバッドイメージ、危機感や恐怖感がない。それどころか陽だまりでぬくぬくしているようなやすらぎ感がある”として、温暖化ではなく「加熱化」というネーミングにすべきと提言している。

ここにはコンセプトをどう表現すべきか、なかでも常に理解の入り口となるネーミングの問題が指摘されている。コンセプトとは、顧客・市場が潜在的にもっている欲求や欲望、そうあって欲しいことを言い当てて提供する考え方のことを指す。もっと分かりやすく言うならば、顧客にとって「そうそう、これこれ」といってもらえる「何か」を創る考え方の基である。私もこうした世界を創り続けてきた人間なので、コンセプトはできるかぎりシンプルにそのままネーミングにできたらと考えてきた。
GAPというカジュアル衣料のブランドがある。このGAPのコンセプトは、年齢差、男と女の性差、人種差、といった違い=ギャップを埋められるような、つまりもっと自由に着て欲しいとの願い・コンセプトによってネーミングされている。このGAPをコピーしたのがあのユニクロで、老若男女、誰でも着られる代表商品としてフリースが大ヒットした訳である。

ネーミングとは「名付ける」ことであるが、子を授かった時、将来こんな人間になって欲しいと願うことと同じである。名前をつけるとは、すくすくと成長して欲しいという一つの「物語」を創ることでもある。ところで、今から十数年前、マーケティング業界で「プロシューマー」というキーワードが流行ったことがあった。特定分野ではあるが、販売する側よりはるかに知識・経験豊富で詳しい消費のプロ顧客が出現したことによってであった。豊かさを象徴するように、こうした顧客は増え続けてきた。つまり、名付け親、物語創作者は顧客の側に移ったということである。また、ジャック・ラカンの言葉を借りれば、「言語活動の機能は、情報を伝えることにあるのではなく、思い出させることにある」と。顧客であるお年寄りにとって「後期」というキーワードは、大切にされ長生きさせてもらったという思い出ではなく、社会から外された「最後」「末期」の自分を想起させてしまったということだ。昔も今も、お年寄りは人生のプロとして尊敬されなければならない。しかし、現実社会はそうではなく、やっかい払いのようにされており、そうした現実への想像力欠如が「後期」と名付けさせた。制度設計的にも、75歳以上を扶養家族から切り離すことは、「相互扶助」という日本が世界に誇れる皆保険制度の根幹となるコンセプトであり、「家族」という単位を壊しかねない問題がある。

過剰な情報が行き交う時代にあって、注目され、話題になることだけに集中してきた騒々しいマーケティングは終わった。私は2年ほど前に、「サプライズの終焉」というタイトルでこのブログにも書いた。ちょうどその頃だったと思うが、福岡のもんじゃ焼きの店で出される「こどもびいる」を取り上げたことがあった。子供にビールなんてと思われるかもしれないが、中身はガラナジュースで、アルコールを飲めない女性や子供さん達に提供される清涼飲料水だ。チョット笑える、そんな洒落た大人のネーミングである。
前回「体験」というキーワードが重要な時代になったと書いた。コンセプトもネーミングも重要であることには変わらないが、その表現の在り方が変わってきている。言葉・ネーミングは常に誰かを想定している。その顧客、市場が変わり始めたということだ。サプライズを単に騒々しいと感じてしまう顧客が圧倒的に増え、言葉の嘘や軽さに辟易としている、そうした顧客心理を想像することによって、コンセプトが創られ、ネーミングされる時代である。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:42Comments(0)新市場創造

2008年04月16日

連鎖する社会 

ヒット商品応援団日記No257(毎週2回更新)  2008.4.16.

4月12日内閣府は「社会意識に関する世論調査」を発表した。現在の日本で悪い方向に向かっている分野(複数回答)に、「景気」と答えた人は43.4%、「物価」と答えた人が42.3%、「食料」と答えた人が40.9%と昨年1月の前回調査と比較し極めて高い%を示していた。一言でいえば、景気が悪い中で物価が上昇し、食に不安を感じる生活者の姿がものの見事に表れている。(http://www.asahi.com/life/update/0412/TKY200804120148.html)生活実感レベルで言えば至極当たり前のことであるが、わずか20年ほど前の「1億総中流社会」は「1億総不安社会」へと変貌したということだ。

確か昨年日経ビジネスは「ワイドショー型不況」というキーワードで、情報化社会の特徴を指摘した。勿論、情報の時代はたった一つの情報によって、右へ行ったり左へ行ったり、心理の揺れはダイレクトに市場へと反映する。「発掘!あるある大辞典」のやらせや食品偽装事件を持ち出すまでもなく十分体験学習してきた。不況感も、マスメディアの過剰に繰り返す情報によって作られることも事実である。萎縮する心理は連鎖し、不安と同様に不況感も作っていく。

こうした情報化社会の特徴が明確になったのは、1980年代後半から1990年代にかけてであった。情報化とはあらゆるものがメディアとなることであり、マスメディア広告の価値が多様なメディアの出現により相対的にその価値を失っていく時期と重なり合っている。今なお少しは残っているようだが、「噂マーケティング」「口コミマーケティング」といった人メディアを介した流行づくりがセグメントされた顧客層ごとに行われた。例えば、主婦組織におけるネットワークを上野千鶴子さんが「女縁」と呼んだのもこの時期である。更には、1990年代半ば以降、V字回復した渋谷109に集まる女子高生を対象に、同じ年代の女子高生を使って「噂」を流布させる販売促進が行われていた。そして、インターネットという虚構・匿名世界を経て、mixiのような「情報縁」へ。メディアの変遷と共に、情報はネットワーク化されたメディアに乗って伝わっていく。

敢えて、こうした情報の持つ意味合い、その経過を書いたのも、「今」を見定めるためである。マーケティングとは顧客創造のことであるが、その最初のステップは「何」に興味・関心を持っているかを探り、それらを入り口に持っている商品やサービスを提供することにある。確かに、生活者の最大関心事は、年金や医療、景気・・・・そうしたことへの不安解決であることは間違いない。1990年代後半、拓銀や山一証券の破綻以降、「次はどの銀行が破綻するか」といったテーマで経済誌は埋め尽くされ飛ぶように売れた。TVは新聞の情報を二次加工して伝え、スポーツ紙の一面には同じような政治や経済のニュースが並ぶ。そうしたメディアの情報一極集中化・大騒ぎをメディア・サーカスと呼ぶそうであるが、既存メディアの情報は、そうした競争環境にあって興味・関心だけを満足させる「世間話」となっていく。

「世間話」は虚実の境界線上、あいまいな情報のことである。今、起こっていることはこうしたあいまいな不安ではない。現実、具体的な問題であり、解決していくことがマーケティングに求められていると思う。政治の課題が多くを占めているが、ビジネスにおける解決のキーワードは「体験」「経験」である。情報に対する実体験ということだ。メディアサーカスに乗った訳ではないと思うが、1年半ほど前にスタートした新しい和菓子の専門店は数百店にまで膨れ上がった。しかし、都市部の店舗では急速に売上を落している。臨界点に来ていると言えばそうであるが、情報の波に乗ることも必要ではあるが、クリスピー・クリーム・ドーナツのように敢えて出店を抑え、今なお行列ができている店もある。食べてみてまた買いたいという体験・経験が、どうつながり連鎖していくのかを見極め出店している良き事例である。既に、体験偽装、経験偽装といった問題も少しづつ出てきてはいるが、この時期こそ「体験マーケティング」が不可欠となっている。更に言えば、体験が連鎖する社会へと向かって行くということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:11Comments(0)新市場創造

2008年04月13日

あの手、この手消費

ヒット商品応援団日記No256(毎週2回更新)  2008.4.13.

大手ファミレスのデニーズは全店舗573店の内、不採算店130店舗ほどを3カ年の内にクローズドさせると報じられた。すかいらーくもバーミヤンを始め既存店のてこ入れが急務となっている。外食から中食へ、そして内食へという傾向の一つの象徴であろう。ところで、相次ぐ値上げラッシュに対し、前回の「共同解決」という方法と共に、生活者の「あの手、この手」の対応が始まった。勿論、価格を中心に置いた消費の傾向である。

以前から百貨店のTV通販で扱われていたが、今「訳(わけ)あり商品」が再注目されている。たらこの切れ子などが代表例であるが、サイズやグラム数、色や形といった規格外商品を安く提供するもので、お取り寄せ通販から町の専門店に至まで人気となっている。
また、アウトレットや質流れ品などのブランド品にも注目が集まっている。これらも一種の「訳あり商品」である。欲しい商品は、やはり手に入れたいという欲求を満足させる、いわゆる「時間という鮮度遅れ」の訳あり商品である。

もう一つの大きな傾向は、「最後まで使い切る」仕組みである。このブログでも取り上げたことがあるが、横浜のローソンから賞味期限切れの廃棄処分される弁当類を貰い受け、安い300円定食として提供している「さなぎ屋」なんかはその代表例である。この延長線上には「フードバンク」のようなビジネスもあり、広い意味でのリサイクルの仕組みで、あらゆる生活領域に浸透していくであろう。そして、リサイクル先進国であった江戸の知恵に多くを学ぶべきで、特に「修繕」ビジネスは修繕道具を含め復活していくであろう。カタログハウスのように、ある意味「修繕」も商品の重要な部分であるということだ。

勿論情報の時代であり、ネットオークションや比較サイトの活用は今まで以上に活発化する。そして、その対象は土地や家屋から、趣味のコレクションまで、更にこんなモノまでがと驚くものまで網羅される。また、一方では情報弱者、特にお年寄りなんかは、こうした方法による享受の外側にいる。今回の後期高齢者医療制度導入の混乱を見ても分かるように、情報は届かない。また、残念なことではあるが、こうした情報弱者に対する詐欺等の情報犯罪もまた増加していくと思う。不謹慎な表現かもしれないが、犯罪者ほど「あの手、この手」のマーケティングしている人間はいない。

ところで先月3/15号のBRUTUSの特集テーマは「みんなの食堂」であった。BRUTUS流の切り方であるが、無名の食堂への注目である。どこにでもある食堂、しかしどこにもない「普通が一番」と呼ぶにふさわしいのが食堂である。そこには食材の産地やいわれ、こだわりといった人を驚かせるものはない。しかし、気軽に、手軽に、安く食べられる、どこか懐かしくて落ち着けるのが食堂である。少し前まで、当たり前であった「普通」の楽しみ方、「日常」の楽しみ方への回帰である。
子供達を喜ばせるデザートやメニューはないが、食堂には大手ファミレスが無くしかけている「内食」の良さがある。それを手作りと言ってもいいし、個性的、おふくろの味でもかまわない。生活者の生活防衛の「あの手、この手」の一つに、この食堂も入ることだろう。ちなみに、私が見る限り、チェーン店でこの食堂らしさを維持しているのは大戸屋である。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:52Comments(0)新市場創造

2008年04月09日

共同解決の時代

ヒット商品応援団日記No255(毎週2回更新)  2008.4.9.

前回到来する構造不況に対し、公民ビジネスの可能性について書いた。ある意味で公と民とが垣根を超す大きなビジネステーマである。ちょうど4月7日の日経MJに1月〜3月のヒット商品が掲載されている。キーワードは生活防衛における「代わり消費」で、クリーニング代を節約する消費として、コナカの「シャワーで洗えるスーツ」を例に挙げている。勿論、中国製冷凍餃子事件による安心防衛策として、内食=手作り食の傾向もである。つまり、生活の内側へ、細部へと目が注がれ、見直しが始まっているということだ。

ところで、この4月からメタボ検診が始まった。百貨店を始め多くの流通は生活習慣病対策として商品コーナーを設け、商品展示を行っている。厚生労働省による医療費抑制の意図によるものであるが、ここではその検診義務化の是非については触れない。生活者の反応はどうかというと、スポーツジムにあるようなエアロバイクといった大型機器ではなく、万歩計といった安価で小さな自己防衛商品に注目が集まっている。(このブログは昨日書いたのだが、4月9日の日経MJによると3月の売上は昨年比1.55倍とのこと)つまり、本格的なエクササイズではなく、日々歩いて内蔵脂肪を燃やそうということだ。

発泡酒も昨年から糖質0ビールを始め、カロリーオフビールが相次いで導入された。これら商品もビール市場全体を押し上げる商品ではなく、日経MJのキーワードではないが、従来の発泡酒の「代わり消費」ビールとしてである。マヨネーズしかり、ベーグルしかりである。いずれにせよ、今までの「過剰」であったカロリーを削ぎ落とし、あるいは「代わる」商品をもってメタボ対策とする生活だ。飲料でいうと、好きなものを食べる欲求はそのままにして、脂肪吸収を抑えるといった発想、サントリーの黒烏龍茶のような商品はこれからも出てくると思う。

数年前から、プレミアムマーケティング戦略が様々な市場で導入された。特定市場に対する特別な商品やサービスの提供というマーケティングである。その多くは富裕層向けの商品やサービスで、昔から百貨店の外商顧客が代表するように今も存在している。こうしたプレミアムマーケットをある意味でマスプロダクト化させたのが、サッポロのエビスビールというロングセラー商品であった。数年前には、ネーミングだけの「プレミアム」商品が横行したが、その程度の商品は既に市場から退場している。本当のプレミアム、特別といった商品の多くは「コレクターズ・マーケット」、あるいはリピーター市場の「お取り寄せマーケット」に見られるだけである。

マスプロダクト化するヒット商品は年を経る毎に少なくなっていく。多様化、個性化という言葉で言ってしまえばそれで終わってしまうが、不況の時代にあって更にその傾向は強まる。また、隙き間マーケットというキーワードもあるが、ヒット商品のほとんどが隙き間的商品である。規模からいうと、そのほんどは小型ヒットと言えよう。つまり、新たな消費価値を探している踊り場にあって、従来から言われてきた少量生産少量販売が更に「小単位」へと進んでいく。

小単位化による経営はコラボレーションを加速させていくこととなる。伊勢丹と三越を例に挙げるまでもなく、共同仕入れから始まり、売り場の共有、テーマの共有(共同販促等)、場合によっては人材や顧客の共有。つまり、持っている資源をどれだけ最大化させることができるかが、経営の主要課題となっている。あるいは、顧客・消費者とネットワークを組み、オーダーされたものだけを作り、届けるといった相互に無駄を省く経営だ。売れない商品を店頭に置いておくことは最大の経営ロスであり、生活者にとっても意味あることではない。作り手も、届ける流通も、そして生活者も、価格という経済合理性の追求は不可欠であり、そうした課題を共同で解決する時代だ。(続く)  


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2008年04月06日

「私」を超える物語 

ヒット商品応援団日記No254(毎週2回更新)  2008.4.6.

前回ガソリン税の時間切れによる値下げに関し、ドライバーやGSの対応を踏まえ、構造的な不況に入ったと書いた。このテーマの続きではないが、5月の連休のレジャーに関する予約情況は、海外旅行は減少し、国内旅行は若干増加傾向が見られるという。今年は休日が飛び石であることから、近場で、安く、旅行日程は短いと。ちょうど1992年のバブル崩壊時のキーワードは「安・近・短」であった。死語になったキーワードを再び思い出すとは思わなかったが、1992年以降の低迷期とは根底から異なる。東京では週末には郊外の行楽地にマイカーが殺到し、周辺道路は一日中混雑した。

昨年から「価格」が大きなテーマとなると書いてきたが、今回のガソリン価格ほど市場(ドライバー)の在り方が明快な行動に移った例はない。モノとしてのガソリンについては各社大きな違いはなく、徹底した類似競争市場である。ガソリンというモノでは差別化しえないため、給油中にチョット休んでもらうためのカフェやコンビニを併設するといった「業態」開発が行われてきた。あるいはどの業界でも同じであるが、リピーターを創るためにポイント制なども導入されてきた。こうした違いを創るための、いわば付加価値による「違い」競争を繰り返してきた市場でのガソリン価格の値下げである。

TVや新聞での報道はGSは「価格競争」状態になったという一言ですませているが、顧客であるドライバーの価格価値認識が従来言われてきた「付加価値」とは異なる価値認識が生まれてきているのではないか。既に、価格を決める主人公は、世界における原油価格を決める舞台には立てないが、少なくとも国内での価格決定においては顧客・ドライバーの側に移っているということだ。つまり、情報の時代の価格という情報は、口コミやネットの比較サイトによって、価格決定権は顧客側に移っている。相次ぐ値上げの中で、ヨーカドーグループやイオンが円高差益(米国ドルに対して)を値下げで還元したのは、小売業という顧客欲求を反映する業態としては至極当たり前のことである。

さて、政治によってガソリン価格が再度値上げになるとすれば、「私」を超える「何か」、大いなる物語という「何か」によってでしかない。しかも、単なる再値上げ分を環境税に充当させるといった部分の話ではなく、国と個人という大きな物語、グランドデザインを描くことによってだと思う。バブル崩壊後の十数年、学習してきたことは、「公」としての認識、一人ひとりはある意味で「公」務員との認識だ。マイブームならぬ、パブリックアクションがボランティアという狭い世界を超えて、広がりつつある。行政と市民、産業と生活、大企業と中小企業、従来あった垣根を取払い、行動する個人や団体が出てきた。

このブログでも取り上げたことがあるが、滋賀県の若いGSのオーナーである青山氏は天ぷら油の廃油を集め、バイオディーゼル燃料として活用するビジネスを始めている。廃油の回収には市民や行政、ヤマト運輸も参加し、精製された燃料は松下電器の工場で使う。ここには垣根は既にない、いわば公民ビジネスである。東京和田中学の地域本部もそうであるし、長野飯田市の市民ファンドによる省エネ事業も同様の発想だ。ネット上では、あのオープンソースという思想、リナックスやウイキペディアが稼働しているが、こちら側でも「私」を超える物語づくりが始まっている。構造化されている不況を乗り越えるには、こうした公民ビジネスではないかと思っている。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:46Comments(0)新市場創造

2008年04月02日

平成構造不況へ

ヒット商品応援団日記No253(毎週2回更新)  2008.4.2.

4月1日暫定税率の時間切れによるガソリンが値下げとなった。一週間ほど前から混乱が起きるとマスメディアは報じていたが、混乱は政治の世界だけで、GSも利用者も至極当たり前のこととして初日を終えた。どこのGSが一番安いか、口コミや運転中にガソリン価格を確かめたり、ネット上の比較ガソリン価格サイト(http://gogo.gs
)を見て、今まで控えていた給油を満タンにするドライバーがほとんどであった。一方、当然であるが、提供する側のGSは周辺の競合GSの価格をにらみ、赤字覚悟で価格を設定している。情報の時代ならではの現象が随所で見られた。
同時に、原油や原材料のコストアップによる本格的な値上げが始まった。2007年度の企業決算は大企業・輸出企業を中心に極めて良い成果になると思うが、昨日の日銀短観の発表を待つまでもなく、2008年度は一挙にマイナスへと転じることが予測される。

今、内需拡大・地方経済の格差是正を含めたテーマに経済諮問会議を始め議論されているようであるが、私は経済のアナリストではないのでマクロ経済の動きについては分からない。しかし、消費というミクロの経済については理解しているつもりである。昨年から「価格」という壁を超えるにはどうしたら良いのかこのブログでも書いてきたが、今明確に不況の時代を迎えたと理解している。日本のGDP420兆円の約6割が消費によるものである。今回のガソリンの値下げに対する生活者の冷静な行動を見るにつけ、出口の分からない構造的な不況のように思えてならない。

昨年このブログでも書いたが、不況の時代には「笑い」が求められていることは周知の通りである。大きな笑いではなく、チョット笑える、そんな小さなことが商品にも、販売にも、店頭での一言にも求められているということだ。
ところで不況の時代には笑いと共にもう一つ面白い傾向が見える。日本経済の不況時にはキャラクター産業が奇妙な成長を遂げていると指摘したのは、あの「物語消費論」を書いた大塚英志さんである。高度成長期を終えた1970年代に、ドルショック・オイルショックという大きな転換点を迎え暗い不況の時代にあの「キティちゃん」が誕生し、サンリオの奇跡と呼ばれた。こうした事例を踏まえ、大塚さんは「暗い世相の中、もはや日本人は過剰な消費はするべきではないと人々が悟った時代にキティちゃんは誕生したのである」(『「おたく」の精神史』講談社現代新書より」と指摘している。

私の「キャラクター」理解はこうである。まず消費すべき価値を見失いつつある時代で、それが価格にストレートに向かっているという現状認識が第一点。こうした前提を踏まえ、従来のキャラクターという記号の意味合いが変わってきているという認識である。確かに、地方の町おこしをはじめ、過剰なまでのキャラクターが舞台へと上がっており、それなりの人気を得ている。また、「真性おたく」が1990年代半ばに消滅し、取って代わったのがキャラクターを主人公とした「ライトノベル」で、その元祖ともいうべき「スレイヤーズ」は1200万部とも1500万部とも言われている。

しかし、記号という仮想現実の消費世界から、ここ数年多くの回帰現象に見られるように、過去へ、日常へと消費価値が向かっていると私は考えている。もし自己を投影する「何か」をキャラクターとするならば、動物園や水族館ブームのように「生きていること」、生命力のもつ不思議さやかわいらしさへとキャラクターの質的変化が始まっているように思える。少し飛躍しすぎるかもしれないが、今日の雑学ブームやクイズバラエティの氾濫も、あるいは脳科学への注目も、価格以外の消費すべき価値を探している「踊り場」であるが故との認識だ。さて、この踊り場から何が生まれてくるか、新しい消費価値の芽は2008年度中には出てくると思う。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:51Comments(0)新市場創造