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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2006年11月28日

ひととき体験市場 

ヒット商品応援団日記No120(毎週2回更新)  2006.11.29.

レンタルという使用価値を求める世界が広がっている。以前、レンタルという便利な智慧は江戸時代の損料屋に原型があったと書いたことがあった。てぬぐい1本から犬や猫のレンタル、あるいはお墓参りの代理人まで、今日のサッカーにおけるレンタル移籍と同じようなことが日常的に行われていた。今日でいうコンビニのように至る所に損料屋があったという。当時の江戸は消費都市に憧れて地方から出てくる単身者が多く、また火事も多く所有するより、借りた方が良いというライフスタイル要請から生まれている。火事という言葉を、リスクという言葉に替えれば、今日の個人化した都市生活と同じである。景気変動というリスクヘッジのために多くの人(パートやアルバイト)やモノ(設備や機材)がレンタル的になっていることは周知の通りである。

ところで新しい発想のレンタル社会が既に始まっている。団塊世代に再び郷里に戻ってもらおうと、地方自治体が家や菜園などをレンタルする試みである。私の言葉でいうと「ふるさとレンタル」である。レンタルというのは土地、建物などのモノのレンタルだけでなく、そこに使い方などの情報とサービスがついて成立する。野菜の作り方やコミュニティの人達とのコミュニケーションの場作りなどが用意されており好評だという。勿論、一定のレンタル期間の後、良ければ永住という道も用意されている。確かに、変化の時代にあっては、土地の所有あるいは固定継続といった考え方では、変化対応力に乏しく、レンタルといった方法は取り入れやすい。しかし、10数年前、レンタル家族というキーワードが流行った時期があったが、親子あるいは家族の絆・こころはレンタルできないと思いたい。しかし、子供を産んだからといって親になれる訳でもなく、虐待をする親には「親」を止めさせることが必要で、現実は「親」をレンタルしなければならない時代に来ている。熊本の病院における「赤ちゃんポスト」などは病院が母親代わりを果たそうという試みである。また、単身女性にとって「ひととき恋人」としてホストクラブのようなものも社会現象化している。

つまり、従来はごく自然にあったが既に失ってしまったものの取り戻しが、「ひととき」というレンタル的な方法の市場化が始まったということである。例えば、個人化社会が進行していくと「大家族レンタル」のようなサービスも生まれてくるかもしれない。疑似祖父母と一緒に餅つきをしたり、一緒に野草を摘んだり、大きな鍋を囲んで食事をするといった「大家族体験」である。ある意味で、「田舎に泊まろう」と同じである。キッザニアが社会体験であったのに対し、「大家族体験」といった仕組みである。農業体験といった自然体験などは既にその芽は大きくなっており、消費の全面に出てきている。そして、更に、自然体験は野生体験へと進むこともある。例えば、東北白神山地に今なお残っている鷹匠などへの修行体験であったり、人気の水族館や動物園の飼育体験といった世界である。また、歴史文化体験では伝承すべき匠の世界への修行体験など、失ってしまったものの取り戻しが、「ひととき体験レンタル」という入り口によって急速に市場化する。そして、体験を通じて、個人にとっても社会にとっても、「次」へと進むことができると思う。(続く)  


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2006年11月26日

景気と私生活防衛

ヒット商品応援団日記No119(毎週2回更新)  2006.11.26.

先日財政破綻した夕張市の住民説明会が行われ、「全国最低の住民サービス」という一種のリストラ案が提示され紛糾したと報じられた。同時に破綻以降4ヶ月で220名の住民が夕張市から転出したとの付帯報道があった。多くの企業倒産と同じで、粉飾決算が行われていたことは周知の通りで、その責任は重い。政府内では随分前から破綻処理のためのプロジェクトがあり、その準備はできていたのだろう。また、第二、第三の「夕張市」は潜在的には無数にあるが、「世論の動向」を見ながら破綻、国の管理下に置くという形になると思う。多くの崩壊に伴う不安に、もう一つの不安が増えたことになる。ここ数ヶ月、「うわさの法則」や「いざなぎ景気と格差意識」といったテーマで書いてきたが、残念ながら不安心理による「自己防衛市場」は増々大きくなると思う。先日、政府の月例経済報告があった。高度成長期のいざなぎ景気を超え、プラス成長57ヶ月となり順調な回復を見せている、と報じた。但し、個人消費は伸び悩んでいるとも付け加えられた。少し調べれば分かることだが、生活者の景気感の指標(対前年同月成長率)である百貨店売り上げ、スーパー売り上げはマイナス成長、新車の販売台数、国内旅行などの個人消費もマイナス成長である。日本のGDPの6割近くを占める個人消費が伸びない限り、景気感はありえない。

ところで、夕張市の住民220名が既に転出したことは、この時代の一つの象徴のように思える。現代の「逃散」で、住民が領主である行政に対する対抗手段として、他県に逃亡するように見える。江戸時代には、その豊かな経済都市江戸へと集中し、「人返し令」が出され歯止めをかけたが、江戸の町は巨大化することを止めなかった。ある意味で自己防衛的行動であったと思う。勿論、非正規社員が多いが、雇用機会は圧倒的に都市に集中している。結果として、更に都市と地方の格差が加速する。また、今後の日本経済の見通しについては、多くの経済アナリストが言っているように劇的に良くも悪くもならない。例えば、英国経済がグローバル化という改革を行い安定成長へと向かった1992年以降14年間、2〜3%の継続成長を果たしているように、日本も同様のパターンを辿るという指摘である。
よく産業構造の転換と言われているが、その前提は日本の地方であってもグローバル化ビジネスという視点を抜きには成立しないということである。青森のりんご農家がヨーロッパへの輸出を考えて営業したり、既に世界には3000もの日本食レストランがありブームとなっていることは周知の通りである。こうした産業構造の転換にはかなりの時間を必要とする。そうした意味で良い景気感にはまだまだ時間を必要とする。

さて生活者はどうであろうか。その良否は別として、更なる不安を背景に「私生活防衛」が更に加速される。単なる、セキュリティといった安全・安心のための防衛から、生活のあらゆる断面において防衛意識が強く働く。マイブームというキーワードは当たり前となり、個別オーダー的サービスが基本となる。一方、日常生活の無駄・無理削減の創意工夫、知恵やアイディアが更に求められるようになる。自家菜園、手作り料理、手作り生活、こうしたセルフスタイルが生まれてくる。ある意味でホームリサイクルといった考え方から、そのための道具などに注目が集まる。また、手作りといった時間のないOLにとっては、全てが「小単位」の購入となる。これは単なる食の物販といった世界だけでなく、サービスの小単位化も生まれてくる。今流行の岩盤浴やマッサージのような時間サービスばかりでなく、部分サービスのような小単位化が出てくる。そうした、小単位のモノやサービスを賢く組み合わせて生活する、自己防衛的生活へと向かっていく。(続く)  


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2006年11月22日

記憶と体験 

ヒット商品応援団日記No118(毎週2回更新)  2006.11.22.

前回膨大な情報が駆け巡る時代での視座,目線についてふれた。情報を遮断するという方法も時には必要とは思うが、私たちにとって情報は生活の、仕事のお米のようなものだ。以前、PCの上書きのように次から次へと新たな情報によって書き換えられていくと書いたが、養老孟司さんに言わせると、記憶ほど当てにならないものはないといっている。確かに、子供の頃家族で動物園に行った20年前の時の記憶と10年前の時の記憶とは「同じもの」ではない。常に変わっていくのが意識で、変化を促していくのが情報と実体験(実態)である。犯罪心理学者の作田明さんは、凶悪犯罪にふれてここ10年ほどは横ばいでそれほど多発してはいない。1960年をピークに犯罪は減少しているが、過剰報道によってあたかも犯罪が急増し治安が悪化しているとの錯覚を与えていると指摘している。(http://www.sakuta-akira.com/)作田さんは風説という明確な表現をしているが、全てが心理市場化している今日、「情報」に対しても自己防衛的にならざるをえない。SNSのミクシーが500万人以上の会員を集め、発展しているのはこうした背景からである。

今年の春以降、様々な回帰現象について書いてきた。どこに帰るにせよ、その「もと」と意識化された記憶による「もと」とは異なる。昨年の今頃、映画「Always 三丁目の夕日」を見たが、当時の風景を巧みなCGによって合成していたが、明確にその「違い」は分かるものであった。ただ、そうした違いを超えて、いや違いがあるからこそ、映画の中に入っていけるのだと思う。9月に行われた「拓郎×かぐや姫」の嬬恋ライブにおける拓郎の最後の曲が「ここまで生きてきました」というデビュー曲であったことは象徴的だ。これから5年後、10年後、また会おうというメッセージだけは記憶に残る。常に変化し続けることへの再確認のメッセージである。人は環境に生きる生物であるから、5年後、10年後の環境によって、意識化される記憶もまた変わる。ただ、今という時代環境が「回帰」という大きな潮流を生み出していることは間違いない。洋に偏りすぎたライフスタイルに対する和回帰、おふくろの味やたたみ座敷の見直し。あるいは核家族どころか、個家族化している住まい方への見直し。多くの見直しは、今という環境に対する疑念、これで良いのだろうかといった問いかけとしてある。

ところで、意識変化を促す要因のもう一つが実体験であると書いたが、回帰現象と同じように「体験市場」は大きな潮流になっていく。情報に翻弄された10年でもあり、多くの学習もしてきた。体験こそが納得できる唯一の方法であると、多くの生活者が気づき始めた。このことは年齢に関わらず、若い人であれば沖縄へ紅型の修行へと出かけたり、宮大工といった匠の世界へ、あるいは中年になっても若い頃思い描いた漁師になりたいと水産高校に通う人もいる。実感という最も納得、共感できる方向へと進んでいく。例えば、サントリーオールドの発売は、団塊世代に対する青春フィードバックという「追体験市場」を狙っている。昭和40年代以降のサラリーマン時代の記憶を追体験する商品としてポジションされている。ウイスキー以外にも、当時の平凡パンチがテーマとしていた商品をリ・モデルすればいくらでもヒット商品は生まれる。但し、冒頭に書いたように昔のままだけでは売れない。そこに、今という時代の「何か」を必要とし、ヒットの分かれ道となっている。サントリーオールドは今頻繁に行われている団塊世代の同窓会という「場」が想定されている。「ここまで生きてきました」という拓郎のメッセージの象徴としてある。ただ、その世界だけでは継続的飲用は難しいと思う。例えば、温故知新、OLD NEWである。若い世代にとってNEWである世界を同時に創ることがサントリーオールド、低迷するウイスキー市場の復活の鍵だ。また、体験というと、すぐお試しといったことになるが、そこに工夫・アイディアを必要とする時代である。有料体験があっても良いし、期間と料金の設定を昼間と夜とに分けるといった丁寧さも必要と思う。いずれにせよ、旧来のお試しというやり方や対象を変えることによって、思わぬヒット商品が生まれてくる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:38Comments(0)新市場創造

2006年11月19日

過剰情報時代の2つの眼 

ヒット商品応援団日記No117(毎週2回更新)  2006.11.19.

今年1月「情報の罠」というテーマで耐震偽装事件、ライブドア事件にふれて情報化社会における「罠」について書いた。こうした事件によって「そこに見えるのは偽計、風説、偽装、粉飾、といった情報操作によって右往左往する個人である」と。偽メール事件を持ち出すまでもなく、「情報」のもつ価値がいかに大きいか思い知っている。今、知っての通り、文科省大臣宛に27通の自殺予告文書が送られ、その真偽のほどが調査されていると報じられた。そして、相次ぐ自殺者も出てきた。ここには過剰報道による連鎖が明確に出てきている。TVを中心に、新聞、雑誌、ブログなどのニュースのほとんどはいじめや履修偽装といった「教育崩壊」か、幼い子供への虐待死などの「家族崩壊」である。人は「不可解さ」「曖昧さ」に対し、漠としたとした不安に我慢できなくなる。当然、情報の受けてには過剰反応が生まれる。これが社会心理におけるパニックへの予兆である。

誰もが知っているパニックというと、1973年に起こった「トイレットペーパー騒動」であろう。原油価格を70%引き上げる決定を受けて、「紙の節約」を発表したところ、「紙がなくなる」という噂が流れパニックに陥り、その騒動を「あっという間に値段は2倍」と新聞が報じたことにより、更に買い付け騒ぎが大きくなった社会的事件である。あるいは給食によるO157集団感染の原因と噂され大きく報道され、結果カイワレ大根業界が壊滅的打撃を受けた事件。社会心理学でいうと、うわさやデマといった流言は社会的危機において多発すると言われている。安定という社会のシステムが壊れ、こころが適応できなくなる訳である。こうした不安心理という潜在的危機に「情報」が繰り返し流されることによって、危機は顕在化する。トイレットペーパー騒動における新聞報道と今回の自殺予告文書に対する大臣見解の記者会見報道は同じである。残念なことに、情報があらたな情報へと連鎖し始めた。うわさとデマは異なり、デマはある意図をもって流される情報であるが、この2つが判別、予測できないような情報のカオスがやってくる。

しかし、同時に自らの考えをもって「教育」のあり方を提起する中学が出てきている。例えば、札幌の中学生たちが今回の教育基本法案に対し安倍総理に手紙を送っている。勿論、匿名ではなく実名でだ。ところがそのことを知った匿名の「大人」から脅迫とも取れるメールが送られてきたという。(札幌テレビ http://www.stv.ne.jp/news/streamingWM/item/20061117182019/index.html)この報道の詳細については分からないが、少なくとも自身の問題として受け止める中学生がいることは事実である。
私はマーケティングに携わる人間であり、社会の事象、出来事は無縁どころか不可分なものとして受け止めている。体験・経験の少ない子供に対し、キッザニアのように社会体験を提供するサービスが注目されるのは良く分かる。今、札幌の中学生のように、自ら教育を受ける子供たちが「教育」を考える活動体験は極めて大切である。マスコミ、ジャーナリストはこうした情報を伝えてはいないが、おそらく全国の中学校でこうした未来への芽が生まれていると思う。多様多元的な価値観が錯綜し、混迷する時代にあって、そうした情報には2つの眼で見ていくことが必要だと思っている。1つは俯瞰的な鳥のような眼と、もう一つは札幌の中学生のような当事者の目線と同じ高さの眼である。(続く)  


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2006年11月15日

教育のサービス産業化  

ヒット商品応援団日記No116(毎週2回更新)  2006.11.15.

いじめ問題、履修不足問題など学校教育のあり方が問われている。幼児虐待も変わらず起こっており、子殺しもまた。私はこの春、「家族のゆくえ」でその崩壊のさまを既に書いてきたが、悪い予兆はこの1ヶ月ほどで大きく噴火してしまった。1990年代半ば、当時の文部省が指針として出した、「教師は教育というサービス業」という考え方に、当時の世相、社会を映し出していたと思う。文部科学省、教育委員会、学校長、現場教師、そして生徒と保護者、こうした教育に関わる役割において、平易にいうと民間企業と同じように、顧客は生徒と保護者であり、顧客が望むことをサービスするのが教師であるという考え方である。この考え方の延長線上には、顧客満足を数値化し、教師の評価につなげていく考え方となる。顧客満足は何かというと、志望する高校や大学への入学者数から始まり、しつけなど本来家庭で行うべきことまでサービス領域となる。「義務教育」は、本来家庭の事情などで行かせてあげられない貧しい時代の考え方から生まれたものである。今や、朝食抜きの子供が多く、学校で朝食サービスを行う小学校まで出てきている。つまり、社会の目やその価値がサービス産業的な見方に変化してきたからである。少し前に「マイブーム」というキーワードが流行ったが、マイティーチャー的価値を現場教師に求め始めたということだ。ここに矛盾点が凝縮されている。

さて、現場教師はと言えば福岡三輪中学校の教師のように「偽善者」「うそつき」呼ばわりし自殺への引き金を作っていた。勿論一部ではあるが、子供以下のどうしようもない教師がいる。学校長も右往左往するばかりで、とうとう自殺者まで出てきた。また、反対に学校長によるパワーハラスメント(いじめ)によって、自殺する現場教師がいかに多いか。教育を提供する側もまた崩壊している。
一方、先ほどの「顧客」である保護者及び子供はどうかと言えば、繰り返しになるが既に崩壊している。感情をコントロールできない子供たちを「キレル」と称して話題となったが、今や更に低年齢化し、保育所では「三歳児の崩壊」が始まっているという。人の話が聞けない、一人だけ走り回る、隣の子にかみつく・・・・・・箸を使えないばかりか、ボタンすらはめられない子供たちが急増していると聞く。母親はと言えば、平然と教師批判、サービス業としてのマネジメント能力不足を指摘する。

ここ半年ほど私が書いてきたテーマの多くは「回帰」についてであった。ふるさと回帰、自然(野生)への回帰、和回帰、こうした原点回帰は「都市化によって失ってしまったもの」をどう取り戻すかという視座であった。教育もまた原点回帰しなければならない。根源的には乳幼児期の母親の子育てから始めなければならないのだが、「今」という課題解決には遅すぎる。
企業の場合はどうかと言うと、一時期リストラなど行った結果、経済合理主義だけでは本当の顧客満足は得られないということが分かった。顧客の目は肥え、本物のサービスか否かを見極めるように成長している。例えば、アルバイトやパートといった経済合理だけの雇用形態では、本気・本物のサービスは難しいと正社員化を再び進め始めている。つまり、経済合理性だけでは経営できなくなってきているということである。意欲を持って仕事(顧客)に向かうには経済だけではなく、企業文化、企業風土、更には社会という見えざる価値の重要性に気づき始めたということである。もし、教育における原点回帰を志向するならば、学校、保護者、そして地域社会が交流しえる情報公開の場と時をつくり「今」を解決することだと思う。そして、一番重要なことは、江戸時代の大家さんのようなコミュニティリーダーの存在だ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:47Comments(0)新市場創造

2006年11月12日

こころのデドックス 

ヒット商品応援団日記No115(毎週2回更新)  2006.11.12.

今、都市の女性たちに人気なのがデドックス(体内解毒、体内浄化)という健康法である。便秘解消、血行促進、今キーワードとなっているメタボリック症候群の改善、アンチエイジング効果、・・・・こうした多くの言葉で表現されているが、つまるところ身体のもつ生命活動を活性化させるもので、エステから始まり、足浴、岩盤浴、デドックス体操、デドックス料理、サプリメント、お茶等多くの商品やサービスが一斉にデドックス効果を掲げている。TV番組「あるある大辞典」や雑誌の特集にも登場していることもあり、旧来ある商品やサービスも一斉にデドックスというキーワードに飛びついている。ここでも情報は情報に連鎖しており、古くは寒天ブームやコエンザイムQテンブームと同様の結果となる。一過性のブームは、更にそのスピードを上げ、最早瞬間的に売れ、そして終わる。どこか株式市場のデートレーダーに似ており、瞬間的に売り抜けないと在庫の山や投資回収が難しくなる。そんなブームとして見ていくのが妥当である。

身体もさることながら、実はこころのデドックスが求められ新たな市場が生まれる。書店では相変わらずスピリッチャル本が売れており、私が売れるであろうとブログでも書いた「えんぴつで奥の細道」も今なお同様に売れている。年頭のブログでも書いたように、多様な価値観が衝突するとは現場での話であり、ストレスはますます大きくなっている。大人社会ばかりか、子供社会にまで及んでいることは周知の通りである。西欧社会にはキリスト教というこころの拠り所があり、価値尺度がある。しかし、日本の場合は「なんでもあり」「やったもん勝ち」といった言葉が毎日のようにニュースになっているのは何故だろうか。唯一の拠り所である家族は既に崩壊しており、会社といえば個人単位の契約労働という競争社会が待ち受けており、居場所がないのは子供ばかりか大人も一緒である。都市の女性マーケットの特徴を「ひとりリッチ市場」と呼んでいるが、経済的自由はあっても、こころはリッチではない。女性だけが結婚しない訳ではなく、男も同様で個人化は更に進行していく。
ミーギフト市場(頑張った私にご褒美)や自己投資(防衛)市場はこれからも伸びていくと思う。メンズエステやメンズジュエリーも売れるであろうし、女性の場合はもっと激しく、ホストクラブフリークなども出てくる。

日本の場合はこころの拠り所がないと書いたが、おそらくあるとすれば仏教の世界、禅宗の世界の周辺にこころの拠り所を求めていくと思う。和ブームの先に、禅寺で座禅をくんだり、精進料理が注目されたり、茶道にも、華道にも新たな精神世界として注目があつまる。OLD NEW温故知新である。少し着眼がはなれるが、和歌や俳句も静かなブームとなるだろう。また、いやな話であるが、オーム真理教のような大きなカルト集団は出てこないであろうが、無数の小さな創始教が水面下に生まれてくる。
こころのデドックス、こころを解き放してくれるものは何か、禅のような日本の精神世界が再注目される。おそらくもう一つは自然と遊び、学ぶ体験からだと思う。例えば、お金を払って農業の手伝いをさせてもらい、旬の農家料理を食べ、そして収穫された農作物をお土産にいただく。勿論、漁業も同様である。また、子供たちへの社会体験で注目されたキッザニアのように、自然体験をテーマに地域のコミュニティの協力を得てつくるプログラムが出てくると思う。紅葉という自然を観察したり、どんぐりなどの木の実を集めたり、それらを使って遊んだり。こうした季節との遊びをコミュニティ事業として考えていく時代になる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:45Comments(0)新市場創造

2006年11月07日

崩壊のあとに 

    ヒット商品応援団日記No114(毎週2回更新)  2006.11.8.

昨晩深夜文部科学省が緊急の記者会見を行った。いじめに対する抗議の自殺予告についてである。この予告文書がいたずらなのか真実のものなのか、その信憑性については分からない。しかし、文面は教師をはじめとした「大人」といじめを行った当人たちに対するもので、自殺によって解決できるものではないと100も承知であるが、ああここまで来てしまったという感がする。情報の時代は、普通の伝え方ではなかなか伝わらない。だから、こうした自殺予告といった方法を採ったのだろうと思う。ここ数ヶ月、私がブログで書いてきた家族の崩壊、そして学校の崩壊、コミュニティの崩壊、つまり人と人との関係が崩壊しており、その根底にあるのが「個人化社会」「私生活主義」という巨大な問題であった。
実は数年前からこの個人市場だけは数多くのヒット商品が生まれ、活性化されている。いわゆる「おひとりさまマーケット」「ひとりリッチ市場」である。女性の一人旅メニュー、ひとりご飯、一人鍋、こうしたヒット商品を上げるまでもなく、オフィス街の昼食時を覗けば一人で食事をしている女性がいかに多いかわかる筈である。1000万を超えるブログの発展も、米国とは違って、個人間のやりとりという居場所が母体となっている。既に家族は崩壊しており、育児などの相談事といった情報交換メディアとなっていることは周知の通りである。

問題は一番弱い子供とお年寄りである。先日、福岡県遠賀郡岡垣町の「野の葡萄」に代表の小役丸さんを訪ねた。詳しい内容は別の機会にしたいが、その野の葡萄のHP(http://www.budounoki.co.jp/m12_gaiyo/m12_gaiyo_2.htm)に書かれているので是非ご覧いただきたいが、「夢を語り続ける企業でありたい」と話されていた。よく「絵に描いた餅」という言葉があるが、できそうもないことの意味として使われている。しかし、野の葡萄には絵もあり、餅になる前ではあるが種もあった。
「彩り事業」で全国的に有名になった徳島県上勝町と同じように、この岡垣町でもお年寄りは元気に作物を作っていた。岡垣町も地方の山村と同じようにお年寄りが多く、作物を作り続けることが難しくなり、次々と田畑が荒れていったという。そこで、お年寄りにとって一番の問題である集荷について、まず出荷用コンテナを作り、梱包の手間を省き、一軒一軒集荷に回っていく仕組みをつくったという。結果、70歳を超えても畑に出るお年寄りが増え、いきがいをもって働いていると聞いた。小役丸さんは「お年寄りの笑顔がうれしい」と話されていたが、今一番大切なことは「夢」を描き種をまくというビジネスにしていくことだと思う。

もう一つの弱い子供たちであるが、少し前に私は谷川俊太郎さんのことばを書いたが、夜回り先生こと水谷修さんであったらなんて言うのかなと思った。水谷先生の掲示板「春不遠」は今閉鎖され会員制となっているが、そのHPの中でインタビューに答えてつぎのように語っている。

「我々が行う心の相談にはルールがあって。メールの返信は3行、電話は5分、それ以上はダメ。メールでも電話でも、つらい話を聞いて受け入れてしまうのは危険なんです。つらい過去ではなく、明日を語らせなければいけない。過去を蒸し返し、自分のことしか考えられない状態を、僕は“自分の呪縛”と呼んでいます。過去を抱え込む子からいかに過去を切り離すか。外に意識を向けさせることで、救える可能性があるのです。 」(http://jp.getronics.com/today/helpful/mizutani_1.htm

野の葡萄の小役丸さんが「夢」を語るのと、水谷先生が”自分の呪縛”を解き放すために「明日」を語らせることに、どこかでつながっている。多くのものが崩壊していく中、バラバラになった個と個をつなぐもの、それは夢であり、明日であるということだと私は思う。(続く)  


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2006年11月05日

標準語から方言へ

ヒット商品応援団日記No113(毎週2回更新)  2006.11.5.

この6ヶ月ほど、このブログで取り上げてきたことは、次のフェーズ、価値観、次の生活へと変化していく「踊り場」についてであった。最近では回帰現象という次に向かうために「現在」から「過去」へと向かう思い出消費についてであったり、既成の観光=表通り観光から路地裏観光への変化であったり、表メニューから裏メニュー=賄い料理等への興味深化であったり、外側のメイクアップから内側(こころと身体)の美の追求への深化であったり、・・・・・こうした多くの視座と共にそこに起きる消費変化について書いてきた。生活者の価値潮流はどこにあるのか、私たちマーケティング用語で言うと「パラダイムチェンジ」(価値観の変化)のちょうど踊り場に来ていると思っている。こうした変化をキーワード的に言うと、表から裏へ、外側から内側へ、現在から過去へ、非日常から日常へ、個人から家族やコミュニティへ、規格標準品から手作りへ、話題・サプライズから体験・納得へ、過剰からバランスへ、洋のライフスタイルから和のライフスタイルへ・・・・・いくらでも変化を整理するための比較はできるが、今まで着眼してこなかったことが一つある。それは文化、言葉についてである。

江戸時代のライフスタイルについては過去かなり取り上げてきた。当時の識字率、今風にいうとリテラシーは70%にも及び当時の世界都市パリやロンドンと比較し、図抜けて高かった。ところで日本語の誕生はいつ頃かというと専門家によって若干違うものの、漢字が中国から朝鮮半島から渡ったのは紀元前2世紀頃で、日本語としての完成は、万葉仮名と略された片仮名(カタカナ)が生まれ、もはやどこから見ても漢字ではない文字・平仮名(ひらがな)が生み出されたとき、日本語(和語)が本当に始まったと言われている。そして、平安中期からから全国へと普及し、鎌倉〜室町時代、戦国時代へと、武士階級から農民へと広がっていった。実は、ながながと日本語の歴史を簡略化したのも、日本語は漢字・カタカナ・ひらがなを持ち、漢字は音と訓を持つ。しかもその漢語の意味も音ももはや中国語ではなく、かつ日本語も固有語の影を残しながらも形成されて来たものである。にもかかわらず、外来(漢意=漢字)と固有(和心=ひらがな)の匂いをなお持ち続け、一つの文字を二つに読み分ける世界唯一の稀有な言語が日本語である。日本人はわからない民族だとよく言われるが、日本語の複雑な構造、文化の構造を理解するには日本人ですら少なくなっている。天野祐吉さんのように、若い人達を駄目だというのではなく、逆に新しいことば遊びから生まれる感性に期待することになるのだろうが、日本語のもつ魅力・文化を再認識、勉強して欲しいと思う。

このブログにも書いたが、沖縄を訪れた時、「もあい」という講の一種が行われており大変興味深く思った。私が沖縄に強く惹かれた一つにことばがある。沖縄には何度となく行っているが常にリゾートホテルや観光ルート、あるいは那覇の国際通りであった。丁度10年ほど前、一人で散歩気分で好きな路地裏散歩をしたのがきっかけとなった。国際通りから公設市場へ、そして更に奥へと行くとオバアが一人野菜や果物を売っていた。並べられた中に、奇妙な形をした果物があった。今ではドラゴンフルーツと分かっているが、その果物についてどんな果物でどんな食べ方をするのか聞いたが、まるでオバアのことばが分からなかった。ああ、沖縄は全く異なる文化があるのだと強く実感した。琉球語とアイヌ語、2つの文化圏が過去あったと勝手に理解していたが、いや今なお琉球語文化が日常にあることに驚いたのである。沖縄の人に聞くと、琉球語も若い世代にとって分からない言葉(文化)になってしまいつつあるという。しかし、オバアやオジイの琉球語を子供たちへと伝える動きもまたあると聞いている。日本語という標準語と琉球語という方言の2つを生きる訳である。丁度、世界の標準語である英語と日本語という方言の2つのことば、文化をビジネスマンが生きているのと同じである。日本人はわからないと言われているが、一方世界の注目は日本に注がれている。分からないのは3つの言葉、特にひらがなという日本の風土が育ててきた固有文化であると言われている。このひらがな世界とどうつながっているのか私にはわからないが、注目の先は、世界に24,000もの店がある日本食レストランやアニメ、漫画、あるいはデザインという文化に対してである。表文化に対する裏文化と言ったら、自ら日本人であることを否定するようであるが、「方言」というコミュニティ文化に間違いなく注目が集まる。機能・合理、スピードの標準語から、歴史が堆積する生活文化そのものである方言への変化である。こうした「文化」が地域経済を活性化させ、そして世界へとつながっていくと私は確信している。地域起こしとは文化起こしである。(続く)  


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2006年11月01日

個人化というストレス社会  

ヒット商品応援団日記No112(毎週2回更新)  2006.11.1.

今年の年頭ブログで混乱の一年になるだろうと書いたが、今いじめによる子供たちの自殺や大学受験のための履修科目の偽装など教育現場が混乱の極みとなっている。更には、親殺し、子殺し、幼児虐待、陰惨な事件も多発している。また、飲酒運転をはじめ、ゴミ屋敷や違法駐輪などの違法行為や迷惑行為が日常となっている。誰もがおかしい社会になっていると実感しているが、なかなか議論が噛み合ない。私はこうした混乱の背景には象徴的に言うと個人化の進行に伴う「家族の崩壊」があると考えている。5月7日号の「家族のゆくえ」で次のように私は書いた。
”ケータイによって、個人から個人へといつでもどこでも瞬時につながり、情報を取り入れることがいとも簡単になった。しかし、同時に情報によって翻弄される「個」でもあった。その象徴例と思うが、たった一人、若い個達は友を求め街へと「漂流する」か、「ひきこもる」ことになる。「夜回り先生」こと水谷修さんが街へと夜回りしながら掲示板を開設するのもこの時期からである。既に、家族は崩壊していた。まだまだ残すべき家族という「過去」があると声をあげて言う人は少なかった。”

結論から言うと、こうした混乱や事件の裏側には、社会の最小単位が個人となり、自己責任という名のもとに「私(生活)主義」が大きな価値観として占めるようになったことによる。よく言われる核家族化とはバラバラ家族のことであり、そこには自分だけがいて他者はいない。戦前あるいは昭和30年代ぐらいまでは家族が社会としての最小単位であった。そこには寺内貫太郎一家ではないが、働き者のがんこオヤジがいて社会への窓口であった。子はオヤジという社会を通して多くのことを学んだのである。今や歌舞伎や伝統を受け継ぐ職人の世界、あるいは結婚や葬儀などの冠婚葬祭時の形式にのみ「家」が存在している。そして、戦後社会では家に代わるものとして会社があり、名刺には肩書きが必ず書かれている。崩壊した家(家父長という階層)の代わりが会社であると指摘をしたのは丸山真男さんであるが、その家の代替物である会社は1990年代半ばから終身雇用制から個人契約制へと変化した。そして、初めて「公的」な私と「個人」としての私の2つの私に向き合うことになったのである。公的とは平易にいうと、世間であり、世間という法のもとで生きることである。しかし、法は常に時代変化の後を追う。また、個人単位の小さな日常にまでは介入しない。幼児を虐待していても親権を立てにするため幼児を社会へと奪い返すことはできない。
あるいは今回の履修科目偽装に見られるように、2つの私の狭間に悩む学校長の自殺、あるいは公という「みんなで渡れば怖くない」式の無責任体系が現出する。個人が2つの私を我がものとするにはまだまだ未成熟である。しかし、一番弱い子供やお年寄りに対して放置してはならない。

江戸時代には大家(おおや)という町の治安や長屋などの共有スペースの運営維持、店子(たなこ)の世話をするコミュニティのリーダーがいた。”大家といえば親も同然、店子といえば子も同然”といわれるように、夫婦喧嘩の仲裁から酔っぱらいの保護にいたるまで重要な役割を担っていた。大家とはその名のごとく大きい家の主であった。江戸の人口は120万人、大家は2万人いたと言われているので、60人ぐらいのコミュニティのリーダーであった。今も残る祭りが町単位で行われるのも、わが町を良くしていこうという競い合いの表現でもあった。介護や育児も町ぐるみで行い、そうしたことを誇りとしていた訳である。今、家族という単位は崩壊し、全ての解決場所が個人になった。いじめる方もいじめられる方も家庭に原因があると指摘する専門家も多い。全てが個人解決になることからストレス社会になるのは至極当然で、それは子供の世界にまで及び始めている。いじめが直接的なストレス社会の産物だとはいわないが、しかし一度立ち止まって考えることが必要だと思う。そんなこころの持ちように詩人の谷川俊太郎さんが一つの示唆をしてくれている。これは糸井重里さんが主催する「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で読者であるお母さんと子供のやりとりに答えたものである。

【質問六】
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)
追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした
   質問です。目をうるませながらの質問でした。
   正直、答えに困りました〜
   
■谷川俊太郎さんの答え
ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

「アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね」と答える谷川俊太郎さんの温かいまなざしに多くの人は共感すると思う。アタマという言葉を理屈という言葉に置き換えても、ココロを素直にと置き換えても、カラダを行動すると置き換えてもいいかと思う。そして、この答えはお母さんに対してだけではない。教育者にも、社会に対してもである。(続く)

追記 前号で福岡県岡垣町の「野の葡萄」についてレポートしますとお知らせしましたが、代表の小役丸さんはじめ素敵な方々と出会い、常に行列ができる店の心髄にふれさせていただきました。中途半端になることもあり、ブログではなく、きちっとした形にてレポートさせていただきます。  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:40Comments(0)新市場創造