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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2010年05月30日

子ども手当と未来価値

ヒット商品応援団日記No470(毎週2回更新)  2010.5.30.

子ども手当がこの6月から実行されるが、百貨店を始めとした流通業はコーナーを設けたり、13,000円という価格キーワードに関連したお得感を全面に出したMDを行うようである。どの程度消費に向かうか、最近の日経MJによる調査結果もそうであるが、昨年12月に博報堂から発表された調査結果(http://www.hakuhodo.co.jp/pdf/2009/20091217.pdf " target="_blank"> http://www.hakuhodo.co.jp/pdf/2009/20091217.pdf )から大きくかけ離れたものにはならないようである。結論から言うと、博報堂の分析にあるように「教育財源として短期的ではなく、中長期的に使う傾向が見られる」。つまりある程度は消費に回すが、子の未来を考えて貯蓄に回すという極めて賢明な生活者像が浮かび上がって来る。特に、子育て中の専業主婦の場合は生活費に、有職主婦の場合は貯蓄に回す傾向が見られ、使い道については体験型教育に使いたいと答えている。

当たり前であるが、ここ2年ほどの巣ごもり消費傾向と同じ傾向である。例えば、短期的ではなく中長期を見据えた意味ある消費、更には使って終わりの物消費ではなく体験型消費に使うといった具合である。それらは何よりも不確かさばかりの時代の自己防衛策であり、LED電球ではないが新しい合理的価値が見出せるものへの消費と言えよう。もっと明確に言えば、2007年以前のような消費には戻らないということだ。今求められているのは、子どもへの新しい未来価値ということである。

日経MJも子育て主婦は何に使ったら良いのかとまどっている様子であると指摘をしている。つまり、市場には意味ある新しい価値ある商品やサービスが未だ現れてはいないということである。更には、来年度の子ども手当が満額の26,000円になるのか否か分からない。それどころか現政権がこうした政策を実行していけるのか不確かである。そんな不確かなままでは消費どころではないと、多くの子育て主婦は貯蓄へと「取り敢えず」回すこととなる。これが平均的な子育て主婦の心理である。

そして、パラダイムチェンジ(価値観の転換)の時代とは、こうした未来への向き合い方にその価値観が現れて来る。生活者・両親にとって未来とは子そのものであり、子へと消費するとは未来投資に他ならない。モンスターペアレントという言葉に象徴されるような私生活主義から、コミュニティ再生のなかの社会にあっての個人という振り幅のなかで未来への価値観を探しあぐねている。ビジネス現場はといえば、従来の欧米から中国を中心とした東アジア、東南アジアに移り、ビジネス内容も大きく変わっていることを実感している。少し短絡的な言い方になるが、1990年代子どもの育て方の一つとして、米国でのホームステイがブームとなっていた時期があった。それが単純に中国に変わると言うことではないが、仕事の場も、社会という広がりにあってもグローバル世界を見据えた価値観探しとなっている。

今回の子ども手当という官製支援ではあるが、その使われ方、消費内容には生活の未来が映し出されることとなる。しかし、未来価値が定まらない以上、子ども手当の多くは貯蓄へと回る。そして、消費への第一弾となるのが、この夏休み期間の過ごし方である。これは仮説ではあるが、従来のような家族揃っての海外旅行は減少するであろうし、故郷帰省も年々減少していくであろう。それではどこに出かけていくのであろうか、そのヒントはキッザニアにある。周知のようにリアルな社会体験を積ませる教育プログラムであるが、こうした体験型の過ごし方が増えていくと思う。特に、昨年のヒット商品に回帰型が多く見られたように、近代化によって失われた自然や歴史・文化の体験型旅行が出てくるであろう。例えば、米国へのホームスティではなく、国内の山村留学、農家へのホームスティということである。理屈っぽく言えば、子どもの五感体験を通じ、未来を育むということである。

もう一つは、若干唐突に思えるかもしれないが、発売されたiPadを子に買い与える両親も出て来ると思う。どんなアプリが用意されているのか未だ購入していないので分からないが、遊びを入り口にした楽しい知育道具になると思っている。ベストセラー&ロングセラーを続けてきた任天堂DS、Wiiの先へと進んだ情報端末である。読ませたい古典文学を購入する親もいれば、子自らピアノを演奏する場合もあるであろう。
全てが不確かである時代にあって、どんな子どもの未来を描くことに使われるか、巣ごもり生活の先を予感させることだけは確かである。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:53Comments(0)新市場創造

2010年05月27日

また君に恋してる

ヒット商品応援団日記No469(毎週2回更新)  2010.5.27.

坂本冬美が歌ういいちこのCMソング「また君に恋してる」がヒットしている。元々はビリーバンバンが歌った曲であるが、私のような団塊世代ばかりか若い世代にも共感を得て、ダウンロードは140万を超えたと報じられた。永く連れ添ってきた二人(夫婦/男女)の男心を歌ったものであるが、こぶしを効かせずに淡々と歌う坂本冬美の歌は、何故か男心にも女心にも、そして若い世代にも通じる歌へと変貌している。

私のような団塊世代の恋愛には、どこか自分に素直になれない「照れ」があった。ちょうどそんな恋愛時代を映し出した歌に沢田研二が歌う「勝手にしやがれ」(作曲大野克夫、作詞阿久悠)がある。1977年のレコード大賞受賞曲であるが、女性に対し素直になれない男は「窓際に寝返りうって 背中で聞いている やっぱりお前は出ていくんだな」「別にふざけて 困らせたわけじゃない 愛というのに照れてただけだよ〜・・・・」と歌う。真直ぐになれないから、気取ってごまかす、そんな若さ故の男と女の気分を歌った曲である。
以来、30数年照れはあるものの「また君に恋してる 」と心の中では言えるような年代になった。そうした意味で団塊世代が共感できる曲ではある。

その「また君に恋してる 」のなかに次のようなフレーズがある。

「若かっただけで 許された罪
残った傷にも 陽が滲む
幸せの意味に 戸惑うときも
ふたりは気持ちを つないでた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また君に恋してる いままでよりも深く
まだ君を好きになれる 心から」

団塊世代にとって、気持ちをつなぐ「君」は共に暮らしてきた女房であるが、若い世代にとって「君」は誰であろうか。
1年数ヶ月前、不安と未来が見えない時代にあって、アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかけた。そして、生まれたのが「手紙」という曲であった。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌を思い出す。恐らく、「君」は恋愛対象としての異性だけでなく、仲間も、そして「未来の自分」をも含めた広い愛すべき対象であるのではと思う。

愛しさ余って憎さ百倍という言葉があったが、男と女の間に愛しさが無くなり、憎さだけの男女の殺人事件が横行する時代。あるいは欲望を失ったかに見える草食系男子、逆に肉食系女子と揶揄される世代論が横行する時代。そんな時代ばかりであると勝手に思い込んできたが、「また君に恋してる 」のヒットはもう一つの時代の空気感を表している。それはひととき心和ませてくれている植村花菜が歌う「トイレの神様」にも通じる世界だ。亡きおばあちゃんと自身の思い出を歌った曲であるが、好きなおばあちゃんには素直になれる、そんな曲である。

ところで、「照れ」を歌謡曲にした阿久悠は、自らの青春時代の恋愛は免許制で資格を取得しなければならなかったと書いている。その免許とは何かというと、「教養講座としての文学を読むこと」、読まない人は「人を思いやり、自分を制御することを知る人間講座の実地を学ぶ」、どちらかを誰に言われることでもなく自覚していた、と言う。無免許で恋愛してはいけないということである。勿論、阿久悠が男から女を通して時代を見つめていたのに対し、女から見ていた松本隆という作詞家がいた。松田聖子という素材を得て、新しい女性像を創り上げたが、いつかこの二人を通し、1970年代以降の時代を見つめてみたいと思っている。
話を戻すが、今免許資格が個人にも勿論社会にも問われない時代にいる。「また君に恋してる 」はラブソングであるが、ラブソングを歌いたい、免許を取りたいとする若い世代も多いということだ。このことは太宰治を始めとした数年前からの古典文学ブームにもつながっている。

過剰な情報が行き交う騒々しさに辟易する時代であればこそ、淡々と語るように歌う坂本冬美の「また君に恋してる」に共感する。強引に消費へと結びつけるわけではないが、その「淡々さ」とは過剰なものを削り、更に削ぎ落とし残るものとしてある。素の魅力、シンプル・イズ・ベスト、ある意味本質・本物に戻ろうという潮流のなかにある。消費に明るさが戻りつつあるとブログにも書いたが、その明るさとはこうした「素に帰る潮流」と軌を一にしている。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:37Comments(0)新市場創造

2010年05月23日

足るを遊ぶ 

ヒット商品応援団日記No468(毎週2回更新)  2010.5.23.

前回、消費が少し明るくなってきたと書いた。1−3月の個人消費がプラス成長であったといった経済指標もさることながら、心理化された市場の在り方を見ていくとそんな感がしている。つまり、明るさがどこから発せられているのか、その心理はどういう理由からなのか、を感じ取ったからであった。
そして、過去2年間ほどのわけあり商品ブームは終わったとも書いたが、わけありという情報、それに基づく価格が日常化したとその理由を書いた。もう少し言葉を付け加えるとすれば、過剰なわけあり情報が行き交う日常にあって、生活者は重要なわけ情報と不用なわけ情報とを自らの実体験に基づいて峻別できるようになったということである。

このわけありブームを引き起こした巣ごもり消費生活の2年間、LED電球やHV車が代表するように長期間で見ていけば結果として「お得」といった新しい生活合理主義が生まれた。この点については既に何回か書いてきたのでここでは書かないが、もう一つをキーワード化すれば「納得消費」であろう。価格に対する納得を得るために、細部と全体、あるいは仮想と現実、これらを自由に行ったり来たりできることによって納得感が創造される。例えば、都市において急成長しているネットスーパーが典型で、この構図が理解できると思う。あるいはここ数年のプロモーションのほとんどが、無料お試しという体験実感によるものが実証している。

この巣ごもり生活というのは単に家に籠ることではない。昨年からのいわゆる1000円高速は大渋滞以外にユニークな副産物を産んでいる。それはキャンピングカーといった本格、構えたものではなく、自家用のバンにマットを敷いてSAで車中泊するといった旅の楽しみ方である。目的はカメラ撮影といった各人の趣味が多いようであるが、手軽に気軽にお金を使わずに楽しむファストファッションならぬファストトリップである。しかも、こうした車中泊を含めた生活用品が売れているという。従来から言われていた安近短は、更に安く、遠くに出かける奇妙な旅を生み出している。

4年ほど前、「今、地方がおもしろい」というタイトルで、都市の舞台には上がっていない多くの食を中心とした地方の物産に着目すべきであると指摘したことがあった。以降、東京銀座を中心に各都道府県のアンテナショップが次々と出店し、最近ではアンテナショップ巡りのガイドマップが作られ、シニア世代を中心に人気スポットとなっている。また苦戦する百貨店にあって常に集客できるのが全国駅弁大会であるが、東京に居ながらにして地方を楽しむ、これも巣ごもり生活の定番メニューとなった。

つまり、従来の概念、従来の商品や売り方から外れた巣ごもり生活の知恵、楽しむ工夫が至る所で出てきたということである。前々回のブログにも書いたが、家計(財布)という経済を考えると自ずと選択肢が狭まり、その範囲内での変数(工夫)を考えることとなる。消費を変えるその変数に個々人のお得であるための創意工夫、アイディアが付加されてきたということだ。こうしたアイディアグッズや材料というと東急ハンズや西武ロフトとなるが、100円ショップのダイソーや手芸用品のユザワヤにまで裾野が広がっている。
1000円高速の副産物は旅館・ホテルも、高速道路のSAも、等しく従来の考え方、多くの顧客がそうであるからといった延長線上に全てがあると考えてはならないことを教えてくれている。
少子化が進んでいる社会にあって、例えば使われない小学校の活用がオフィスを始めとした再生が計られているように、家庭内に既に在る物を異なる使い方をする生活者が増えてきたということである。そうした顧客を顧客としなければならない時代ということだ。

「足るを知る」という戒めがあるが、戒めではなく「足るを遊ぶ」、「足るを楽しむ」時代に入ろうとしている。従来の物充足ではなく、モノを生かすことを遊ぶということである。それはモノにとらわれない自由な発想を生む。消費という欲望が少しずつ変わり始めたのかもしれない。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:52Comments(0)新市場創造

2010年05月16日

明るさの予感

ヒット商品応援団日記No467(毎週2回更新)  2010.5.16.

上海万博や南アW杯観戦ツアーは予測以下の予約状態であると報じられているが、数年前の生活者の消費意識とは根底から変わっていることを考えれば、至極当然の結果である。万国博覧会という世界各国の未来を映し出すことへの興味も、未来を感じ取れない情況の日本の生活者にとってはそもそも論外のテーマである。南アW杯観戦ツアーも治安の悪さも加わり、40〜90万円という高い費用をかけてまで観戦にいくのはごく少数のサッカーフアンだけだ。地デジ対応のTVを買って家でゆっくり観戦するといったように、まだまだ消費は内向きである。

しかし、3〜4月と続いた天候不順も治まり、少しずつではあるが消費に明るさが戻りつつあるように感じる。それは百貨店で高額な宝飾品が売れ始めたとか、あるいは売れなかった春夏向け衣料品が売れ始めたということではない。それは前回書いた「お得感」という世界の理解に、提供する側も、生活者の側も、同じ価値観に立ち始めたということである。
例えば、2年ほど前食品から始まった「わけあり商品」も衣料品・雑貨のアウトレット商品人気として広がり、更にはホテルや旅館の料金設定まで、鮮度に価値を置いていた商品やサービスは、提供する側もされる側も互いに価格として理解&納得し、それが普通となった。つまり、「わけあり」はブームを終え、日常として定着してきたということである。

確か4月上旬であったと思うが、コラムニスト天野祐吉さんが朝日新聞のCM天気図で、新党「たちあがれ日本」というネーミングにふれ、若い世代に対し景気回復でも経済回復でもなく、いきいきと呼吸できるような「人間の回復」を期待したいと書いていた。そんな「人間の回復」を基本政策にする新党なら「たちどまれ日本」という名前がいいと。
私流に理解すれば、失われた10年、いや20年もの間、生活者はたちどまって次の座標となる価値観を探していたと思う。時代の踊り場という表現を私は使ってきたが、パラダイム転換期には一人の生活者のなかで振り子のように異なる価値観が振れる。勿論、顧客のそうした変化に合わせるように提供者側、特に流通も振り子にように振れてきた。しかし、デフレ下の低価格競争もある程度底を打ち、「お得感」への一種の折り合いがつき始めた感がする。

ここ数回、草食世代、だよね世代の消費価値観についてブログに書いてきた。それを裏づけるような記事が日経MJ(5/12号)に掲載されていた。日経産業地域研究所が行ったコンビニの利用情況に関する調査結果である。その消費分析によれば、2009年度夜間の利用商品数が大幅に減少し、夜間利用の多数を占めていた未婚男性客の購入が減少。その購入中心商品である雑誌の落ち込みが特に目立っていると。その背景には節約志向と共に、帰宅時間が早まったことによると分析している。
こうしたリーマンショック後の消費、巣ごもり消費についてはコンビニサイドも早くから分かっており、商圏分析を踏まえ、ドラッグストアを併設したり、生鮮食品や惣菜を充実させミニスーパー化したり、北海道のセイコーマートのようにPB商品の開発を充実させるといった対策を行っている。つまり、従来の夜間も利用できる少々高いが自宅の冷蔵庫代わり、あるいは雑誌という情報仕入れといったコンビニ業態も少しづつ変化してきたということだ。

以前このブログにも少し書いたが、東京秋葉原にガンダムカフェが4/24オープンした。内覧会を行わなかったので、オープン当日見に行くことになったが、案の定長い行列が出来ており、中で食事することができなかった。行列には子ども連れのファミリーが多いのではと思っていたが、40代、50代の男女もかなり並んでいた。日経MJにも大きく取り上げられていたが、後日デベロッパーからの話によると、具体的な数字を書くことができないが、予測以上の売上を上げ順調に推移していると。
特に秋葉原という街は異なる価値観をもつ人達が交差している街である。再開発地域にはIT関連企業が入る高層ビルとそこで働くアジアの国からの技術者。一方オタクの聖地と言われるようなサブカルチャーが誕生する街であり、最近ではAKB48が出演する常設劇場もある。多様な価値観がぶつかり合う一種猥雑な街であるが、そこにこそエネルギーが生まれる。こうした街では、明快なコンセプトが求められ、今回のガンダムカフェはそうした明快さが支持を得たということであろう。
つまり、生活者内側に新しい消費行動へのエネルギーがふつふつと生まれ始めたということだ。提供する企業の側の方が萎縮し巣ごもり状態となっている。需要は在るものではなく、創るものである、この基本に立ち返る時に来ている。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:16Comments(0)新市場創造

2010年05月12日

ライフスタイル変化の今

ヒット商品応援団日記No466(毎週2回更新)  2010.5.12.

この10年ほどの間に多くの消費キーワードがメディアを通じ流布されてきた。それらキーワードはライフスタイルという価値観のもとで、商品というモノとして生活へと取り入れられてきた。世相を反映したものとしては新語・流行語大賞を見ていけばその変化の有り様が分かるが、消費となるとまた異なるものとなる。ただ、新語・流行語大賞と共通する傾向としては、翌年には死語大賞になる、つまり「あっという間に終わる」速さであろう。消費の世界では、プロダクトサイクルが極端に短くなったと言われていることと同様である。

ライフスタイルを文字通りリードしてきたのが百貨店であった。1980年代始めの頃であったと思うが、西武百貨店が「おいしい生活」という広告キャンペーンを展開し、話題になったことがあった。糸井重里氏によるコピーであるが、「おいしいことに理由はいらない。好きか嫌いかがテーマ」だとする、つまりマス市場を構成する中流層がモノ消費の舞台の中心にあることを前提とした広告キャンペーンであった。ある意味、生活者はモノの豊かさ、おいしい生活を求め百貨店へと足を運んだ。こうした百貨店という業態が右肩上がりに成長していく市場情況とパラレルな関係であった。つまり、百貨店がライフスタイル創造のリード役、シンボル的役割を果たしていた。

1990年代の初頭、バブルの崩壊によってそれまでのライフスタイルの根底にあった多くの価値観(及び中流意識)が崩壊する。いわゆる不動産神話を入り口に、大企業神話、金融神話、終身雇用神話、といった神話崩壊と共に、国内における産業の空洞化、グローバル経済化が始まり、1998年以降収入も減少へと向かう。消費現場ではユニクロを筆頭に「デフレの旗手」が表舞台へと上がっていく。こうした傾向と共に、「違い」を求めた個性を売り物とした専門店群も出現する。この時代のライフスタイルをリードした流通はこうした多様な専門店を編集したSC(ショッピングセンター)であった。より独自な専門領域に特化したライフスタイル提案を行う。しかし、かたわらに神話崩壊による不安を抱えながらの「個性生活」、「上質な生活」がキーワードであった。

さて、これからが本題であるが、2000年代に入り、次のような2つの価値軸の間を振り子のように消費は振れてきた。勿論、過剰な情報の時代であり、その多くは断片情報であることから、振り子はキレイに弧を描くことは無い。ある時はいきなり反対へと振れ、ある時は小さく行きつ戻りつする。

・アーバンライフ(都市)とローカルライフ(田舎)
・ファストフード(ファッション)とスローフード(ファッション)
・エンターテイメント(リゾート)とナチュラル(リゾート)
・ヘルシー系とガツン系
・プロサービスとセルフサービス
・高機能と単機能
・個人単位と家族単位
・所有と使用

大きく言えば、過去と今、和と洋、情報(ヴァーチャル)と体験(リアル)、外向きと内向き、フローとストック、こうした多種多様な「変数」が消費のゆくえを決めている。

これだけの変数があると「正解」を見出すのは極めて困難である。しかも、周りばかりを見るキョロキョロ消費、情報に過剰反応する消費もあれば、そうした消費を冷ややかに見る我が道消費も出てきている。
ただ、こうした変数に囲まれながらも、家計(財布)という経済を考えると自ずと選択肢が狭まり、その範囲内での変数を考えることとなる。例えば、外食の頻度を減らし内食への転換であるが、ご飯を美味しく食べるために高機能な炊飯器は高くても購入する。この延長線上には、お弁当族に対し、5月末には炊きたての炊飯機能付き弁当箱も売り出されると聞いている。長い目で見れば、結果お得で豊かさを享受できるということである。

数年前、スローフード、スローライフが田舎暮らしとして注目されたが、いまやそんな経済的ゆとりはないと、そうしたスローライフ的ゆとりは影を潜めたように見える。しかし、スピード一辺倒の時代にあって、ひととき心和ませてくれているのが植村花菜さんが歌う「トイレの神様」である。亡きおばあちゃんと自身の思い出を歌った曲であるが、時間は通常の曲の倍以上の9分52秒である。全てが圧縮される時代に逆行するようなスローな曲である。あるいは、地方の村起こし、町起こしのB級グルメも新しい郷土料理であり、かたちを変えたスローフード、地産地消のメニューである。更にはファストファッションが今を映し出すトレンドとなり多数を占める中で、同じような低価格帯で買うことが出来る「森ガール」のようなナチュラルテイストのファッションも生まれてきている。これら価格という一つの時代要請を踏まえた、選択肢の範囲内での商品MDである。

つまり、財布のなかでの選択肢という狭まれたなかで、かたちを変えて消費の移動が起きている、あるいは「森ガール」のような隙き間市場も生まれている。わけあり商品も、代替消費も、あるいは何々をしたつもり消費も、全て狭まれたなかでの消費移動や新たな消費創出ということである。昨年特徴的な消費傾向であったのが、歴史・過去回帰とエコはお得とした新合理主義的なものであった。
その良き事例が既に出始めている。低迷する百貨店のお中元ギフトが既に始まっている。三越、高島屋のお中元テーマはエコ・ギフトである。有機野菜の詰め合わせセットなどが代表的ギフト商品となっているが、その中には懐かしい夏の風鈴なども入っており、一つの消費傾向は踏まえていると思う。ただ、想定されるギフト単価が昨年度とほぼ同じ5000円台と聞くと、今ひとつ「お得感」が乏しく、大きな消費移動を起こさせるようなヒットにはならないと思う。

ライフスタイル変化としては、「おいしい生活」から「上質な生活」を経て、今「お得生活」が広がっている。つまり、「お得」であることへの知恵や工夫、アイディアが求められているということだ。消費の変数それぞれに「お得」であるかを加えて検討してみるということである。その「お得」は経済ばかりでなく、時間や便利さといったお得もある。その「お得」がどんな消費の移動を起こさせるものなのか、新たな隙き間市場として創造できるものなのか、マーケティングのストーリーを考えてみることだ。そして、安心、安全という不安が一掃された前提で、そうした中から小さなヒット商品が生まれる。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:07Comments(0)新市場創造

2010年05月09日

過剰な関係消費

ヒット商品応援団日記No465(毎週2回更新)  2010.5.8.

前回、だよね世代、草食世代についてその消費価値観について書いた。1年前から折に触れて書いてきたが、どうにも気になって仕方がないからである。その気がかりとは、まるで欲望を失ってしまったかのように、車、ブランド、上昇志向、あるいは政治、多くの「離れ現象」が至る所に見られ、内向きになっているからである。消費は所得の関数であり、現状はと言えば1980年代半ばの所得に戻ったということである。私のような団塊世代にとっては「後ろに過去に戻った」という受け止め方であるが、だよね世代にとってそうした過去の推移は無く、「ただただ後退しているだけ」という感覚である。物心がつく幼い頃から、欲望をコントロールする術を本能的に持ってしまったと思う。
バブル崩壊後の就職氷河期世代をロストジェネレーションと呼んできた。一昨年のリーマンショックによって第二次就職氷河期を迎えている。最近では失われた10年ではなく、20年と言われているが、まさに「だよね世代」はロストジェネレーションの申し子であると言えよう。ロストの意味は、失ったという意味と共に、行き場の無い、迷子、という意味も含まれている。迷子にならないように、だよね世代はひたすらつながりを求めているという現実がある。

以前KY語の意味合いについて、私は次のように書いたことがあった。
ある社会集団が一つの制度として取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことだ。この「しるし」と「意味」との間には自然的関係、内在的関係はない。例えば、CB(超微妙)というKY語を見れば歴然である。仲間内でそのように取り決めただけである。つまり、記号の本質は「あいまい」というより、一種の「でたらめさ」と言った方が分かりやすい。
勿論、内側にいる友達にとってはでたらめではない。しかし、互いに理解を求めることではなく、つながっていることを確認し合う記号であり、その象徴的な言葉が「だよね」である。

以前、キョロキョロ消費というキーワードを使って、日本人が周り(外側世界)ばかりを気にする特性を持っていることをブログに書いたことがあった。だよね世代はまさに周り(小さな友達村)を気にし、そこから抜け出た、突出した行動・消費は行わない。勿論、つながりを第一義としているからである。結果、普通、標準、みんなと一緒。しかも、後退ばかりの経験しか実感していないことから、安いものしか購入しない。新人サラリーマンについて良く言われるように、飲み会なども極力参加せず、真直ぐ自宅に帰り好きな趣味や友達とのメール交換に時間を費やす。もともとアルコールは嫌いであるが、居酒屋ではなく、コンビニで第三のビールを買って自宅で飲む、そのようなライフスタイルである。

過剰なのは、こうした人と人との関係、つながりにある。過剰関係と表現した方がふさわしいが、これを可能にしたのがケータイ、デジタル化によってである。10年ほど前にスイッチ族という言葉が流行ったが、スイッチ一つで全てが進んでいく生活環境についてである。そのスイッチの裏側はブラックボックス化していて覗き込むことは出来ない。そうした日常が至極当たり前となって育ってきた代表がだよね世代である。極論ではあるが、電池の寿命は気にするが、どんなシステムとなっているのか、その独自性の裏側に潜む技術世界は気にしない。本格、本物といった物へのこだわりとか、手技ならではの深みなどといったアナログ世界とは無縁である。当然、物欲が枯渇しているように見え、みんなと一緒の普通が一番といった消費となる。図式化すると、最大消費は通信費となり、しっかりと貯蓄もする。わずかに残った範囲内で被服や食をまかなう。牛丼とコンビニ弁当、ユニクロで十分ということである。

ただただ後退し続ける世界を目の当たりにし、動きようも無いといった醒めた心理は分からないでもない。そして、恐らくこうした一種閉ざされた小さな友達村において流通する情報も内部流通という意味で均質化してしまっていると思う。彼らが使うキーワードに「リア充」がある。リアル(=現実生活)が充実しているという意味合いで使われ、サークル(趣味)や恋人との時間、ゼミ(仕事)、こうしたことが充実し、手帳が埋まっていることを指すらしい。前回ブログにも書いたが、一人で学食で食べているいるところを周りに見られたくない、そんな心理とつながっている。一人でいること、孤独が何よりも不安で恐いと感じている世代だ。

しかし、リア充は充実などとはかけ離れたものである。今年の3月末時点で就職が決まらない大卒・高卒者は20%に及んでいる。こうした第二次就職氷河期とは、リーマンショック以降日本の産業構造が転換し始めていることの証左である。寺島実郎氏は「アジアのダイナミズムと内向する日本」(「世界」5月号/岩波書店)というテーマで次のように日本の構造変化を指摘している。

『今、日本はアジアのダイナミズムに突き上げられ、かつ支えられつつある。この微妙な力学を冷静に認識すべきである。・・・・・例えば、昨年の日本の貿易収支を見てみよう。全体で二・八兆円輸出超過となったが、韓国への輸出超過は二・四兆円、台湾には一・七兆円、香港には二・九兆円となっており、とくに、韓国・台湾は日本製の部品(中間財)を輸入し、それを最終製品に組み入れて外貨を稼ぐ経済構造になっている。
日本こそアジアの「ネットワーク型発展」の受益者でもあり、それを促している推進基点でもあるのだ。昨年の日本の米国への輸出超過は三・二兆円と前年比で半減、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国を合計した輸出超過の七・一兆円が日本の外貨獲得の支柱である。相互補完性を認識し、この構造の中での日本産業の次なる展開を構想することが肝要なのである。』

つまり仕事の関係・場が、米国から東アジア、東南アジアへと変化してきたということである。大企業ばかりでなく中小企業も、製造業ばかりかサービス業も、一斉にこうした地域へと既に移動している。日本国内にはマザーファクトリーや研究開発といった部門や本社機能のみとなり、後は全てこうした現地の人達との共同ビジネスとなる。例えば、サントリーに入社しても来月には中国のビール工場勤務といったことは日常となる。外食産業もしかりである。外側の世界、異なる文化の人達、特にアジアの人達とビジネス共有することが不可避になったということである。異なる価値観が衝突し、対立することもある。しかし、それらを含めたものがリア充となり、ケータイに入力されたアドレスは友人からビジネスパートナーに変わる。つながりは対話による相互理解・相互信頼へと進化していく。その時、だよね世代の消費も初めて特徴をもって出現する。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:40Comments(0)新市場創造

2010年05月05日

だよね世代再考

ヒット商品応援団日記No464(毎週2回更新)  2010.5.5.

「だよね世代」の名付け親は「下流社会」を書いた三浦展氏である。ここ数ヶ月司馬作品を読んでいたので、買ったまま本棚に積んであった「情報病」(三浦展、原田曜平共著/角川書店)をこの連休で読んだ。三浦氏曰く「下流社会より5倍笑えます」と言うように、いまどきの若い世代、草食系と呼称される世代消費論である。サブタイトルにあるように「なぜ、若者は欲望を喪失したのか?」とあるように、周りを気にしてばかりいて、周りの空気を読むから物欲が縮小してしまい消費不況の原因は若者が作る「村社会」のコミュニケーション、情報病に罹っている、というのが主旨であり仮説である。最大関心事である周り、友達村社会という関係を維持するキーワードが「だよね」という差し障りの無い、軽い相づちである。対立や争いごとを好まないそうした軽い関係ですら無くすことが出来ない、ただ増え続ける関係に謀殺される世代。電車の中で誰もが目にする象徴的光景であるが、8〜9割の若者は等しく携帯電話を手にしてメールを確認している、いや確認せざるを得ない関係に呪縛されている世代である。それを三浦氏は「情報病」と呼んだ訳だ。

ところで、数週間前に、確かNHKの特報首都圏という番組で、学生食堂に一人では入れない学生が増えていると報じられていた。周りの目が気になり、一緒に食べる相手がいない自分を見られたくない。結果、どこで食べるかというと、一人でトイレで食べているという内容であった。信じられないような内容であったが、ここまできてしまったのかと変な納得もした。
友達とはケータイ友達のことであり、常時接続という常につながっていたい、孤独は嫌いという心理である。自分とは何か、自分らしさとはケータイに入力されている番号とメアドの数ということだ。ケータイ依存症はケータイ病、情報病にまでその症状を悪化させている。無縁社会の孤独を一番恐れているのがこの世代である。

ちょうど1年ほど前、草食系というキーワードがメディアを通じて流され始めた頃、同じような意味をこのブログに書いていた。

「これは私の仮説であるが、今後の消費の在り方、構造転換を計る上での指標とすべき顧客像は草食系男子(女子もであるが総称した意味で)である。欲望そのものを喪失してしまっているかのように見える若い平成世代である。その代表とでも言われている草食系男女を評し、車離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、・・・・多くの「離れ現象」に「私」が表れているところが特徴である。良い悪いではない、好き嫌いでもない、彼らは生まれたときから激変する1990年代の現実を幼い目で直視してきた世代である。団塊世代が戦後60数年という時を駆け抜けたと同じように、わずか10数年で駆け抜けてきたようなものだ。しかし、モノ不足を体験してきた私のような団塊世代とは全く異なる価値観を持つ。私たち世代の若い頃、例えば車は憧れのモノであった。少ない給料から頭金をつくり、ローンを組んで手に入れる。そして、働きながら少しづつモノを生活の中に満たしてきた。百貨店についても同じような夢のある存在であった。しかし、草食系男女にとって、モノは欲望の対象ではないように見える。モノを含め、あらゆることに「距離をおくこと」で自分を守っているかのようである。しかし、八方美人ではないが、回りとの関係もそれなりに如才なくこなし、誰からも好かれる。優しい世代、ナルシスト、・・・・なかなか良いキーワードが見つからない新しい人間像である。」(ヒット商品応援団日記No374(毎週2回更新)  2009.6.10.)

当時、情報病に罹った若者を私は「20歳の老人」と呼んでいた。つまり、情報的には体験を積み重ね既に老人の域に達している、という意味に於いてである。実は情報縁というキーワードがマーケティングに使われ始めたのはインターネットの普及からであるが、その申し子が平成世代、だよね世代である。正確なデータがないので憶測の域をでないが、小さな村社会に生きている草食世代、だよね世代は今流行のツイッターにどれほどの関心事を寄せているかである。既に、テーマにもよるが、ツイッターという仮想空間は草食世代におけるケータイコミュニティ、友達村共同体として先行して実現されているのかも知れない。
否、恐らく友達村共同体から個として自立しないかぎり、ツイッター上では相手すらされないであろう。少なくとも、ツイッター上では互いに異なる価値観を持っていることを前提にコミュニケーションが行われる。友達村共同体もツイッターコミュニティも同じような仮想空間コミュニティのように見えるが、その根底において異なっている、そのように今私は理解している。

その草食世代、だよね世代の消費であるが、このブログにも何回か書いてきたが、友達といった数百名単位の関係消費圏においてはそれなりの消費を見せるが、ポスト団塊世代、新人類と呼ばれた世代がサブカルチャーとして見せたような強い特徴をもった個性消費とは真反対のものとなるであろう。
「だよね」という差し障りの無い世界、オシャレも、食も、旅も、一様に平均的一般的な世界に準じることとなる。大きな消費ブームは起こし得ないが、そこそこ消費になる。こうした関係消費から抜け出せるかであるが、社会という競争世界に身を置き、それまで友達といったゆるいフラットな世界から否応なく上下関係や得意先関係といったビジネス世界を生きる時、それまで培ったフラットな横の友達関係がまた異なる消費として出現するかもしれない。あるいは現実社会はそこそこにして、避難場所として友達村社会が継続発展していくかもしれない。いずれにせよ、当分の間は消費の表舞台には現れては来ないであろう。(続く)  


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2010年05月02日

初めての日本人、勝海舟と坂本龍馬

ヒット商品応援団日記No4623(毎週2回更新)  2010.5.2.

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を楽しく見ている。スタートしてから3話まで見終えてブログにも書いたが、劇画、コミック動画として見事に創られている。司馬遼太郎の原作とはやはり異なるもので、それは脚本の福田靖氏と演出の大友啓史氏の二人による創作コミックである。劇画手法の持つ過剰さは逆に現代のスピード感によくマッチしていて逆に心地よいぐらいである。
当時のブログに、「龍馬伝」という仮想現実物語がどの程度消費に結びつくか、情報消費、物語消費のこれからを占う一つの指標になるからである、と私は書いた。多くの方も予測していたように、歴女や龍馬オタクが坂本龍馬ゆかりの地、土佐、長崎、京都を巡る旅が盛んであると報じられている。

ところで、この大河ドラマが一つの機会であったが、それほど熱心な司馬フアンではなかった私も今一度司馬遼太郎が書いた膨大な量の著作、小説、エッセイ、対談集などを再び読み始めた。
4月25日第17回「龍馬伝」は「怪物、容堂」がテーマであった。勝海舟と龍馬が容堂に会いに行き、海軍を造ることへと向かう大きなテーマである。そんなTV画面を見ながら、司馬遼太郎が「龍馬がゆく」を書いた20年後、勝海舟と龍馬の描き方について「自作再見『龍馬がゆく』」(「以下、無用のことながら」/文春文庫)で次のように書いている。

「幕末、勝海舟という人物は、異様な存在だった。幕臣でありながら、その立場から自分を無重力にすることができた上に、いわば最初の”日本人”だったといえる。」
また、海舟の性格の性悪さにも言及し、
「しかしながら、海舟のえぐさは、そういうえぐさをいわば糖化し、かれの中で、”日本人”として醸造し、それ以上に蒸留酒にまで仕上げたことである。
さらにいえば、かれはそのもっとも澄んだ分を門人である浪人坂本龍馬にうけわたした。」
そして、20年経っても海舟のことが気になり、司馬遼太郎は咸隣丸が造られたオランダの造船所を見に行ったりもしている。オランダは最も古く国民国家をつくった国であるが、そのことに触れながら
「当時かれ(龍馬)と海舟以外に存在しなかった。”国民”という宙空の光芒のような場所から出たものにちがいなく、そういう数行を『龍馬がゆく』で書き足したいように思うし、あるいはそれは説明にすぎず、無用だとも思ったりしている。」

司馬作品は多くの研究者、専門家によって夥しいほどの評論も書かれているが、歴史の表舞台ではなくその影にいる人物、時代の脇役のように見えるが実は大きな役割を果たしている、そんな人物ばかりを表舞台に上げて書いている、それが司馬作品の最大特徴だと思う。「坂の上の雲」の秋山兄弟、「功名が辻」の山内一豊、それほど多くの作品を読んだ訳ではないが、司馬遼太郎が作品の主人公に取り上げなければ歴史の片隅に置かれ忘れ去られてしまうような人物ばかりである。その最たる人物が龍馬であろう。

そして、明治維新という複雑怪奇な激動の時代を読み解くために、司馬遼太郎はわかりやすく勝海舟と坂本龍馬という二人の人物を配置してくれた。ある意味、一つの変革時代のモデル、革新モデルを提示してくれたと私は理解している。外へと開かれた世界へ向けて、日本とは何か、日本人とは何か、を終世書き続けた作家であったが、ウイキペディアを見たところ、読売新聞によると「龍馬がゆく」の発行部数は2400万部とのこと。藤沢周平や池波正太郎と共に、日本人が最も好きな作家の一人である。しかし、奇妙なことに、こうした作家の作品が翻訳され海外で読まれているという話は聞いたことが無い。漢字という表意文字とひらがなという表音文字をもつ日本語の特殊性。しかもコミュニケーションにおける関係によって主語が変わり、丁寧語すらも多様にある。そんな言語を翻訳することは極めて難しいと思う。しかも、司馬作品の底流にある「いたわり」、「他人の痛みを感じること」、こうした日本観、日本人観の理解が更に難しくさせているのだと思う。

「龍馬伝」に話が戻るが、龍馬が勝海舟と出会うことによって、単なる脱藩した浪人から、日本人へと醸造され、蒸留酒にまで至る道程がこれから番組として展開されていく。司馬遼太郎によれば、”国民”という宙空の光芒のような場所が何であるかが主題となる。劇画「龍馬伝」ではどんな描き方をするのか、私の「龍馬伝」の楽しみ方である。(続く)  


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