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ヒット商品応援団
「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2009年07月29日

成熟という閉塞感

ヒット商品応援団日記No387(毎週2回更新)  2009.7.29.

ここ1〜2ヶ月、消費にしろ今回の衆院選挙にしろ、若い世代、草食系男子(実際は男女と理解している)と呼ばれる平成世代が気にかかって仕方がない。この世代の特徴の一つとして、まるで欲望を失ってしまったかのように、車離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、といった「離れ現象」が数多く見られるからである。そんな平成世代を私は「二十歳の老人」と呼んだが、今ひとつ言い当てていると実感していない。
というのも、私のような団塊世代については、ビートルズ世代、あるいは全共闘世代といった「既成文化」や「既成権力」に対する一種の反抗があり、そうした行動に名前が付けられた。消費面で言うと、戦後の混乱期を終え高度成長期へと向かうモノが乏しい時代。まだオシャレという概念がなかった時代に平凡パンチと共にVANが生まれ、「みゆき族」という社会現象まで生まれた。つまり、まだまだモノが乏しくお金もない時代に欲望を満たそうとした、これも一種の反抗であったと言える。

若い世代の反抗を、未来に責任を負うための自覚の表れであり、決して甘えではないし、決して破壊衝動に基づくものでもないと分かったようなことを言う気持ちはない。つまり、大人になるための、成熟を受け入れるための反抗という一種の儀式を必要としていると、訳知り顔で言う気もないということだ。
反抗するとは、明確な対象があってのことだ。古くは江戸時代、上方に対抗、いや反(アンチ)上方として江戸文化が生まれた。あるいは、「おたく」は市民権を得てオタクとなったが、そのコミックの源流を辿れば1970年代後半のエロ雑誌にあった。1980年代から1990年代にかけて、このコミックやアニメという一種の反抗を担ったのが、新人類と呼ばれたポスト団塊世代であった。オタク文化をサブカルチャーと言うが、その源流はカウンターカルチャー、既成文化への反抗であった。私は「おたく」文化の研究者ではないが、「新世紀エヴァンゲリオン」を最後に、「おたく」はメディアの世界から逃亡することになる。オタクのマスプロダクト化が進み、「おたく」に代わって、秋葉原が観光地になったのは周知の通りである。つまり、マスプロダクト化とは反抗すべき対象を失うことでもあった。この延長線上に、ライトノベルやケータイ小説が位置している。こうしたカウンターカルチャーが「クールジャパン」と呼ばれ、今や外需の注目を集めている。

既成、今まで当たり前であったことへの、反抗、反逆には膨大なエネルギーを必要とする。ここ数年、書籍売り場には「脳力」を始めとした「パワー本」が並ぶ。いかに、「力」、「エネルギー」が枯渇しているかである。一方、言葉に表せない鬱屈した反抗、反逆する心は、いつしか逃亡する術を失い、不特定な人への殺傷へと向かわせたのが、秋葉原殺傷事件を始めとした事件であろう。以前、このブログにも書いたが、「誰でもよかった」と殺傷に向かった世代は、平成世代の上の世代である。つまり、そうした行動を見てきているのが草食系と呼ばれる世代である。反抗する対象も茫洋とし、何に誰に向かっていけばよいのか分からない。しかも、逃亡する術すら失っている、そんな風に見えて仕方がない。

「成熟」という言葉の反対側、つまり成長しない、変化しないものの一つがキャラクターである。人間が年を取り、容貌もこころも変化していくのが常であるが、ディズニーのミッキーマウスも涼宮ハルヒも成熟しないままである。キャラクターとはそうした存在であるが、周知の手塚治虫の「鉄腕アトム」の場合、「アトム大使」の初出版の時には異なる描かれ方をしていたとコミック原作者である大塚英志氏は指摘をしている。
『アトムは宇宙人から「きみもいつまでも少年でいてはいけない/今度会うときはおとな同士で会おう」と言われ、「おとなの顔」をしたパーツを与えられるのだが、この場面は手塚治虫自身によって削除されている』と。
こうしたエピソードを読むと、草食系世代も成熟することを拒否しているかのように思えてしまう。しかし、この世代はいわゆる小学校時代に「ゆとり教育」を受けた世代であり、詰め込み教育では果たし得ない創造的感性を目指した世代である。数年先には、従来とは異なる反抗、アンチとしての創造世界が生まれてくると予感してならない。そのとき、どんな「おとなの顔」をして登場するか楽しみである。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:21Comments(0)新市場創造

2009年07月26日

衆院選挙へのもう一つの視座

ヒット商品応援団日記No386(毎週2回更新)  2009.7.26.

このブログを書き始めて4年近くになる。ちょうど郵政民営化の是非を問う「郵政選挙」が始まろうとしていた時期であった。このブログにも「小泉ブランド戦略」というテーマで、「政治」をマーケティングの視点から書いたことがあった。勿論、その戦略手法は劇場化戦略であるが、今回の衆院選挙の情況とは大きく変わってきている。
しかし、情況が変わっているにもかかわらず、同じ手法による「東国原シアター」は失敗に終わるとブログにも書いたが、まさにその通りとなった。つまり、この4年間、「サプライズ」といったキーワードにどれだけ翻弄されてきたか、多くの生活者は体験学習してきたということだ。この間の消費の在り方を見ていけば分かるが、サプライズの裏に潜む本質を見極める目が養われてきたということである。つまり、最早サプライズによって創られた「曖昧な期待」などしないということだ。

マーケティングでは、顧客の「期待値創造」のコア(中心)となるものをコンセプトと呼んできた。そのコンセプトを分かりやすく、ワンフレーズで表現したのが、いわゆるキーワード、ネーミングである。名は体を表し、今回の解散をどう表現するか、マスメディアやネットメディアが伝えている。
与党サイドからは危機感というより悲鳴に近い「がけっぷち解散」「自滅解散」「土砂降り解散」、野党サイドからは「政権交代解散」「これしか選択肢がなくなってしまった解散」といった具合である。面白いものには、自民党の若手議員からは国会にはもう戻れないとの意味で「サヨナラ解散」とか、「泣きべそ解散」といった秀逸なネーミングもある。外野席のパロディスト、マッドアマノさんは「KY(漢字読めない)首相の、KY(解散時期読めなかった)解散」と呼び、更にネット上では祖父の吉田茂首相の「バカヤロー解散」をもじって「バカタロー解散」といった野次まで出てきた。同じ外野席からいつも秀逸な野次を飛ばすコラムニスト天野祐吉さんは、今回はいたってまじめに「自民党解散」選挙とストレートに言っている。選挙結果についてはここ1ヶ月ほどの都議選などの地方選挙の結果を踏まえ、既に多くのメディアがその当落についてシュミレーションしている。現実は別として、既に情報的には民主党が政権を獲得している。本来受けて立つべき与党は民主党を非難するネガティブキャンペーンを張り、一方野党はそれに応え政権交代を目指すと。つまり、情報環境的には、衆院においても与野党逆転が既に起きており、情報の時代ならではの現象である。

この1年ほど、周知のように消費の現場では「わけあり商品」が中心となってきた。「わけあって安い」「わけあって高い」という価格世界を表すキーワードであるが、もっと明確に言えば、リアル価値、納得価値、価格価値化が消費を決めてきた。そこには「あいまいさ」など全くない。つまり、政治においても「何か、やってくれそう」といった曖昧な期待など持ってはいないということである。
もう一つが、やはり信用・信頼ということであろう。産地や原材料の偽装体験をしてきた生活者にとって、その商品は信用足り得るか、本当にそうなのか、と身構えた消費だ。収入は増えない、不安は山ほどある、そうした背景を踏まえた生活実態を私たちは「巣ごもり生活」と呼んできた。どの調査を見ても、数年前から一番目に挙げているのは年金問題であり、医療を含めた社会保障を解決して欲しいという要望である。「東国原シアター」などといった軽い発想が論外であることは言うまでもない。

この信用、信頼こそ政治の原点であるが、このことは与野党共に等しく問われている。4年前の郵政選挙では、まだ経済的にも、社会生活上でも、生活者にとって少しの「余裕」はあった。そうした意味で、「曖昧な期待」が通用した訳である。しかし、最早そんな情況にないことは自明だ。信用、信頼とは一種の生活者と政治との「契約」「約束」である。公約、今ではマニフェストということになるが、もしそれが果たされなかったら弾劾するのが「契約」である。わけあり商品のその「わけ」が嘘であったり、単なる大言壮語に終わった場合、返金要求もしくは二度とその店には行かないであろう。奇しくも、ロッテリアの新製品であるハンバーガーのように、「まずかったらその場で返金します」というのと同じである。実施してみてどの程度の返金要望があったか詳しくは分からないが、このロッテリアの戦略は顧客の納得価値に応えたものだ。

ところで、「選挙」という商品ビジネスで一番マーケティングしているのはどこかというと、やはり抜きん出て行っているのは週刊誌の「当落予想」であろう。1990年代の金融危機の時は「金融機関破綻ランキング」によって経済紙が売れた。勿論、新聞やTVといったマスメディアも政党広告によってビジネスとなる。しかし、こうした興味本位、もっとストレートに言うならば覗き趣味的な欲望は少なからずあるが、今回の選挙はもう少し異なる様相を示すであろう。
従来の選挙は、「いかにマスメディアに露出するか」であった。選挙はタレントの好感度調査と同じで、良いイメージをマスメディアに載せることが当落を決めると。勿論、この延長線上に「劇場化戦略」もあった。先日、麻生総理の挽回策について、小泉政権時代の元秘書官がインタビューに、「今、麻生総理が行うことは土砂災害にあった山口防府市に防災服姿でかけつけることだ」と答えていた。小泉劇場の仕掛人らしいパフォーマンス発想であるが、もはや「東国原シアター」と同じ発想でそんな時代ではない。

それでは、どんなマーケティングをすべきかである。私のブログを読んでいただいている方は分かっていると思うが、巣ごもりしている生活者に対し、閉じられた巣の扉を開けてもらうためには、サプライズでも、広告でもない。まず政治自らが生活者に「聞く」ことから始めるということだ。勝手に作った商品が売れないように、価値観が錯綜する時代であればこそ「聞く」ことは全てに優先されなければならない。自らメーカーではなくマーケティング会社であると位置づけて来た「花王」も、20年以上前から消費者窓口に寄せられてきた情報を分析し、商品改良や新商品開発に役立ててきた。債務超過で倒産寸前であった「はとバス」が再生できたのも、「ならしか運動」(私ならこうする、私しかできないことをやる運動)と共に、その日の顧客の小さな声をメモに書き投函する「お帰りBOX」からヒット商品が生まれたように、全て顧客の声によって今日がある。政治も同様に「聞く」ことの積み重ねが政策になり、生活者へと返していく原点に戻らなければならないということだ。

企業にとっては至極当たり前のことであるが、今一番遅れている「政治」が選挙を通じ生活者に「聞く」ことを始めたと考えたい。米国オバマ大統領を支えてきたのは若い世代であった。高齢者もそうであるが、今聞くべきは若い世代、ともすると草食系男女と揶揄されている20代の若者である。彼らの約半数は非正規労働者として、バブル崩壊以降ここ十数年の矛盾と混乱を体現してきた。車離れ、結婚離れ、社会離れ、・・・・多くの「離れ現象」、モノ、ヒト、出来事離れを見せてきた世代であるが、政治離れであって欲しくない。
右肩上がりの時代は政党が「言う」時代であり、生活者は「曖昧な期待」で政策=結果を判断すればよかった。しかし、周知のような時代ではない。自民党の政策コンセプトは「安心社会の実現」である。まず「聞く」べきはこの世代からだ。聞くことを怠ってきた政党、政治家は落選するであろう。恐らく今週中には提示されるであろうマニフェスト、その政策の「何故」を聞くことになる。そして、生活者は判断するということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:54Comments(0)新市場創造

2009年07月23日

普通と特別

ヒット商品応援団日記No385(毎週2回更新)  2009.7.23.

流通は生活者のライフスタイルを映し出すというのがビジネスの原則であるが、その流通なかで百貨店業態はその主要な市場である中流層の崩壊と共にその過剰さを削ぎ落とし再編統合に向かっていることは周知の通りである。その一方で、既存店の売上を落とし始め、岐路に立たされ、多様な業態を模索していたのがコンビニであった。そのコンビニの今を、日経MJ(7月22日号)が特集していた。久しぶりに読み応えのある特集であったが、一言でいうと「おにぎりやお弁当、雑誌のコンビニ」から大きく変わろうとしている点である。日経MJは指摘してはいないが、これからのコンビニは「生活者が抱えている日常消費課題を解決する圧縮業態」を目指していると言えよう。

周知のように薬事法の改正により、風邪薬や胃腸薬といった大衆薬がコンビニでも取り扱えるようになった。この改正により、ドラッグ業界も再編統合へと向かっているが、コンビニの便利さに立ち向かうことは難しい。更には系列スーパーのPB商品をコンビニにおいても販売することが始まっており、商品MDの裾野を広げ成長してきたドラッグストアは、例えば「スギ薬局」のようにより専門的な医療分野に進出していくことに活路を見出していくと思う。
あるいは「300円弁当」がヒット商品に入る位価格競争が激化しているが、こうした低価格帯と共に、ローソンは「驚きの商品シリーズ」として従来の価格より2〜3割高い価格帯の弁当を販売するという。あるいはファミリーマートやローソンは刺身や果物などの生鮮品を拡充しているが、こうしたコンビニのMDを見ていくとミニスーパー業態とかなり重なるところも出てくる。
価格競争、困った時の大衆薬のような便利さ(コンビニエンス)競争、こうした競争の中軸に、コンビニもまたあるということだ。

もう一つ注目すべきがコンビニ利用の顧客層についてである。セブンイレブンの場合、50代以上の中高年層は既に全体客数の1/4を超えるまでに至っており、そのための施策が急務となっている。地域や商圏といった立地の違いによって商品MDを変えることは既に行われてきたが、これからは店舗づくりを含めシニアに優しいコンビニが生まれてくると思う。つまり、コンビニも少子高齢社会を映し出しているということだ。高齢シニアの常備惣菜は缶詰やレトルト食品とよく言われ、あるいは菓子類では和菓子を増やしていくといった短絡的発想ではコトの本質に迫ることにはならない。単身シニアが更に増加していくことは明らかであり、シニアライフ全体への設計が必要な時代だ。シニアのライフスタイルにコンビニもまだ追いついていないということである。

こうした生活者のライフスタイルを映し出しているコンビニであるが、その出店のスクラップ&ビルトはビジネス上日常的なものとなっている。2008年度のエリアごとの出店増減は、日本の消費のもう一つの時代の今を映し出している。日経MJは「首都圏への回帰 鮮明」と書いているが、人口移動とパラレル(比例)であると言えばその一言で終わってしまうが、首都圏、都市部への集中化が更に進んでいるということだ。コンビニ全体として店舗数は増加しているが、減少している地域はというと、山形、奈良、和歌山、香川といった地方となっている。都市部への集中と地方の商業空洞化という実態を物の見事に映し出している。このことは逆に鹿児島阿久根市のAZスーパーセンターが買い物のための100円バスを自ら運行したり、あるいは山間の過疎地における移動スーパー販売のような地域に対応した流通が求められ、ここにもビジネスチャンスが生まれているということだ。

1980年代までは生活者のライフスタイルの今を見るには百貨店が最適であった。しかし、その座はコンビニに譲り、そのコンビニも次なる変革に向き合っている。巣ごもり生活にあっては、消費対象が非日常的なものから、普段使いの日常的なものへと移行しており、そうした意味を含めコンビニは巣ごもり消費の縮図の如き在り方を示している。
今、消費支出の在り方をハレとケという言い方をすると、ケの方、日常へとそのウエイトが増している。そのケの中心にコンビニがあり、そうした意味でコンビニ市場は拡大していく可能性がある。 前回、バランス消費という視座の重要性について書いたが、最近のコンビニ の商品MDを見てみると、このバランスをよく取り入れているのが分かる。低価格帯商品と中価格帯商品、洋と和、ヘルシー系とガツン系、あるいは定番とトレンド、・・・・特徴のないMDと言われるかもしれないが、生活者感覚で言うと「普通が一番」ということになる。勿論、立地商圏によってその「普通」は変わっていくのであるが。

今までは価格帯の2極化による業態分化が指摘されてきたが、これからはそうした点を含め、コンビニのような日常、普通、小さな満足、身の丈消費、といった業態と、東京ディズニーリゾートのような非日常、特殊、特別、大きな満足、ここだけ消費、といった業態とに分かれていくと私は仮説している。百貨店業態はその主対象である中流市場が縮小してはいるが、学ぶべきは東京ディズニーリゾートということだ。繰り返しになるが、東京ディズニーリゾートが集客数を落としたとき本格的な「消費氷河期」に入ると私は指摘してきた。この夏の集客結果は出てはいないが、まだ氷河期には入ってはいない。東京ディズニーリゾートが子供達を含め夢中にさせるアトラクションを次から次へと導入している。今、百貨店が行っているのは、スーパー業界の後追いである下取りキャンペーンや300円弁当である。つまり、百貨店は夢中になるぐらいの「特別な店」にならなければ生き残ってはいけないということだ。
生活者はというと、この「普通」と「特別」とを財布の中身と相談しながらバランスよく消費していく。これが巣ごもり生活の実態である。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:49Comments(0)新市場創造

2009年07月19日

バランス消費という視座

ヒット商品応援団日記No384(毎週2回更新)  2009.7.19.

バランス、真ん中、中庸、あれもこれも、多様な好み、こうしたことは話題にならないため報道されたり、テーマとして取り上げられることは極めて少ない。最近の消費キーワードで言うならば、「身の丈消費」なんかがあてはまる世界である。しかし、何が身の丈なのか、各人各家庭の財布と相談しながらの消費であり、その実像を的確に言い当てているとは言い難い。実は、一番重要なことは、バランスを取る「軸」は生活者にとって何なのか、を見出すことがマーケティングの最重要課題となっている。例えば、時にハレの日として小さな贅沢をし、ケの日常はやりくり算段をして過ごすというライフスタイルにおいて、それは「どんなハレの日」なのか、そして「どんな小さな贅沢なのか」を言い当てることと言えよう。

少し前に、「アリとキリギリス」というテーマで米国と日本の消費の違いを書いてみた。日本の場合、米国と同様格差は生まれたが、今回の大不況によって米国のように激しく消費が落ち込むことには至ってはいない。先日、四半期単位で行っている消費関連企業への調査の一つである日経消費DIの7月の業況判断指数は1年3カ月ぶりに反転したと報道された。しかし、「3カ月後の見通し」や「客数」などの指標も改善したが、業況判断指数の水準自体は低く、いまだ1990年代後半の金融危機並み。また、「売上高」回復の足取りも重いとも。つまり、底は脱したが、消費は低水準のままであるということだ。日経にとっては「消費に夏の熱気を」といった記事の書き方にならざるを得ないと思うが、私ならば、これが「普通」であり、このような消費の潮流がここ数年は続くと考えている。

ここ数年間の消費傾向、そのメガ潮流の変化についてこのブログに書いてきた。古くは「洋」のライフスタイルから「和」へと、ファーストライフからスローライフへ、個人化から家族化へ(シングルライフからファミリーライフへ)、ヘルシー系からガツン系へ、サプライズ効果から素の魅力へ、最近では都市から地方へ、グローバリズムからローカリズムへ、外食から中食を通じ内食へ・・・・・直近では付加価値から価格価値へ、情報による心理価値から実体のあるリアル価値へ、と言ってもかまわない。このように振り子のように物差しとしての価値がふれる様を書いてきた。一見混乱しているかのように見える消費であるが、振り子は必ず右に振れたらいつしか左へと振れる。私はこうした傾向を振り子消費と呼んできた。

私の仮説であるが、昨年からの「巣ごもり」生活によって、過去に遡り、更に体験と言う学習によって、こうしたバランスへの視座を生活者は持つようになったと考えている。昭和回帰がそうであったように、今は明治維新の受け止め方へと過去への遡及が始まっている。歴史本が売れたり、NHKの大河ドラマ「篤姫」が高視聴率であったり、おそらく明治維新に登場した人物に焦点に当てたドラマや映像は静かなブームとなるであろう。勿論、書籍で言えば、村上春樹の「1Q84」のように、トレンドの必須アイテムとしての読まれ方も一方ではある。成熟した時代、大人の時代、どのように表現してもかまわないが、各人、各生活者固有のライフスタイルを持つようになり始めている。つまり、バランスへの軸が定まりつつあるということだ。

もう少し俯瞰的に価値観変化を見ていくと分かるが、バブル崩壊によって旧来価値観を捨て、新たな価値観によって政治・経済・社会が動かされてきた。ここでは消費論としてだけ見ていくが、この十数年間根底にあった価値観は「私生活主義」、消費場面でいうと「マイブーム」がその代表であろう。1円でも安く買いたい、1円でも多くの投資に対するリターンを得たいとするごく普通の欲望が、結果として資本の暴走を生み、その暴走へと至るメカニズムが今回の大不況を引き起こしたことを通じ、やっと分かり始めたということである。私生活主義、マイブームの概念の中に「市民」はいない。少し無理な喩えになるが、近江商人の商いの心得に「三方よし」があるが、売り手よしと買い手よしだけで、「世間よし」という価値観がなかったということだ。

この「世間よし」という価値観が、実は「バランス消費」の大きな鍵になりつつあると考えている。「暴走する資本主義」を書いたロバート・B・ライシュに言わせると「市民」ということになる。「世間よし」とか「市民」という概念というとエコロジーといったキーワードが出てくるが、生活者にとって他にも沢山ある。例えば安心・安全というキーワードもそうである。食、あるいは農業問題についてだけでなく、観光においても安心・安全は大きなテーマである。今週、北海道大雪山系でシニア登山で遭難者を出したが、そうした極端なケースだけでなく、安近短という追い風もあるが変わらず観光客数を伸ばし続けている京都の魅力の一つが安心・安全である。治安といったこともあるが、特にシニアにとって何よりも歩きやすく、しかも分かりやすい「優しい街」が京都である。

京都という事例は分かりやすいのでもう少し言うと、「和」の象徴である寺社仏閣や街並が残る街であるが、最近では古い町家にインポートブランドが出店していたり、賀茂川沿いの床(ゆか)には京都の食材を使ったフランス料理を食べさせる店もある。一部のお茶屋さんは一見さんお断りで高額ではあるが、総じて安い料金でもてなしてくれる。つまり、京都には「変わらない素敵さ」と共に「小さな変化」を常に提供してくれる街である。この「変わらない何か」と「変えていく何か」とがバランスよくなされているということだ。

1990年代半ば以降、マスメディアの言うところの分かりやすが一番とばかりに、Yes or No、勝ち組と負け組、人口増=善と人口減少=悪、最近では地方分権は是か非か、といった二元単純化の世界から脱してきたように思う。消費論的に言うと、情報による一極集中化現象、依存症的志向、こうした偏った世界から脱し始めたということである。あるいはライフスタイル的には洋と和、ヘルシー系とガツン系、あるいは定番とトレンド、こうした対極にあるものをバランスよく取り入れていくことに他ならない。つまり、生活者のバランスに応えるように、街も、店も、勿論商品やメニューにバランスという視座が必要な時代を迎える。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:46Comments(0)新市場創造

2009年07月15日

老舗への着眼 

ヒット商品応援団日記No383(毎週2回更新)  2009.7.15.

以前、世界で最古の会社である金剛組について書いたことがあった。創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている宮大工の会社である。何故、1400年以上も生き残ってきたのか。実は日本ほど老舗企業が今なお活動している国はない。創業200年以上の老舗企業ではだんとつ日本が1位で約3000社、2位がドイツで約800社、3位はオランドの約200社、米国は4位でなんと14社しかない。何故、日本だけが今なお生き残り活動しえているのであろうか。大不況と言われている今日、乗り越えるためのヒントがある。

その金剛組であるが、最大の危機は明治維新で、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れ、寺社仏閣からの仕事依頼が激減した時だと言われている。明治政府が行った神仏分離令であるが、その意図を超えて廃仏運動へと全国へと広がり、有名な話では国宝に指定されている興福寺の五重塔が売りに出され薪にされようとしたほどの混乱であった。
更に試練は以降も続き、今回の大不況と同じように米国発の昭和恐慌の頃、仕事はほとんど無く、三十七代目はご先祖様に申し訳ないと割腹自殺を遂げている。何がそこまで駆り立てるのか、守り、継承させていくものは何か、老舗に学ぶ点はそこにある。今風に言えば、ブランド価値とは何んであるか、ということにもつながっている。

金剛組の場合は、宮大工という仕事にその「何か」があると思う。宮大工という仕事はその表面からはできの善し悪しは分からない。200年後、300年後に建物を解体した時、初めてその技がわかるというものだ。見えない技、これが伝統と言えるのかも知れないが、見えないものであることを信じられる社会・風土、顧客が日本にあればこそ、世界最古の会社の存続を可能にしたと思う。金剛組の場合、数年前にも経営危機があり、潰させてはいけないと、同じ大阪の高松建設が支援に動いたと聞いている。前回、榊原英資氏が提案する「日本回帰」もこうした価値観を持った社会、風土だと思う。

日本には「用の美」という考え、いや美学思想がある。勿体ない精神の根底にある美学、使い続ける美学、生活美学。少し理屈っぽくなるが、使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた顧客の使用価値集積の美学と言った方が分かりやすい。そこには「あっ」と驚くような美はないが、何故かしっくりする、手に馴染む、変わらないけれどそれがうれしい、そんな美への共感である。食で言えば、変わらぬ味、ふっと和む味、何度食べても飽きない味、そんな表現となる。そうした美への共感を元に、実は「信用」が生まれてくる。私たちは、それを「暖簾」と呼んできた。暖簾をブランドに置き換えても同じである。それは大企業であれ、商店街のお惣菜屋でも同じである。大きな価値潮流に置き換えて言うと、トレンドライフから、ロングライフへと価値の転換が起き始めているということだ。

今モノが売れない、価格しか競争力はないと言われ、激しい市場競争下統合再編が起きている。これは一つの生き残り策であると思う。もう一つはやはりこうした老舗の生き方に学ぶことだ。金剛組の場合は、外側からは見えない、何百年後かには分かってもらえる、そんな視座が必要ではないかと思う。「非競争の力」とでも表現すると、オリジナリティやオンリーワンといったキーワードを思い浮かべると思うが、何のためにビジネスするのかといった原初的なことだ。変化を追い求め、わずか1年半ほどで数百店舗にまで急成長した専門店が、その臨界点を超え急速に売上を落としている事例は山ほどある。これは変化市場で生き抜くために通らなければならない壁である。しかし、一方で非競争という視座に立てば、こうした壁はない。あるのは「変わらぬ何かであり、変えない何か」である。そうした継続力を真剣に、誠実に、納得のいく品質で、・・・・日本に少し前までごく当たり前であった商人・職人の心構えや技に着眼すべきということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:41Comments(0)新市場創造

2009年07月12日

アリとキリギリス

ヒット商品応援団日記No382(毎週2回更新)  2009.7.12.

ここ数週間、マスメディアばかりか、ネットメディアにおいても政治の話題ばかりである。マーケティングの視点から、2回ほど劇場型社会の「今」を東国原シアターを通じて書いてみた。マスメディアは「何でもありが政治だ」と、その裏側には政治とは権力闘争であるからと説明するが、まるで古代ローマの剣闘士による戦いの如きを報道する。娯楽とは真逆の筈の政治がエンターテイメントショーとして創られている。
こうした政治劇に隠れるように扱われている経済の変調が実は気にかかって仕方がない。一時期、株価が1万円を超え、景気の「底」は脱したと政府も経済アナリストも口を揃えて言っていたが、そうした楽観的見方とは異なる指摘や指標が出てきている。その問題指摘の一つが表に出ていない不良債権、傷んだ証券化商品、金融派生商品が米国金融機関に未だかなりあるのではないかという指摘である。あるいは米国の失業率が更に悪化し9.5%となり、当然ではあるが消費も落ち込んだままである。日本においても週刊東洋経済は今回の特別補正予算を「麻生バブルの罠」とし、一過性の景気回復であると指摘。更には株式市場を始め8月あるいは年末にかけて再度暴落するとの予測記事まで出てきた。世界各国が超低金利政策をとることで、大量の資金が市場へと供給され、一種のバブル状態であると。つまり、大不況下の「バブル」状態ということだ。

どうしてこんな情況が生まれたのか分からない点が多いが、世界同時不況をもたらしたサブプライムローン問題を深刻な問題であると誰よりも早く唯一指摘してきたのが元大蔵省審議官榊原英資氏と三菱UFJ証券のチーフエコノミスト水野和夫氏であった。その榊原英資氏の近著「大不況で世界はこう変わる」(朝日新聞社刊)では面白い予測と展望が書かれていた。私は金融のプロでも、経済のアナリストでもないが、少なくとも消費については理解できる。
その消費であるが、周知のように米国のGDPの約70%が消費によるもので、その旺盛な消費が世界経済を牽引してきた。2001〜2002年のITバブル崩壊により、企業の設備投資がマイナスになっても、この消費だけは堅調で年2.5〜2.7%と増大している。しかし、リーマンショック以降、金融システムが破綻し、金融収縮が急速に起こり、消費者金融の貸し出しがストップする。つまり、単純化していうと、最早クレジットカード、リボ払いによる消費は行えなくなったということだ。つまり、ライフスタイル変更を否応なくつきつけられたということである。

榊原氏はその象徴例として米国の貯蓄率を挙げている。家計に占める貯蓄率であるが、1980年代は平均9.05%、1990年代は5.15%へと下落、更に2006年には0.4%と限りなく0となる。つまり、この20年間貯蓄を減らし続けることによって消費水準を維持してきたということだ。そして、ついにクレジットカードローンも使えず、消費そのものを減らすことしかなくなる。当然であるが、食品などの消費を減らすことには限度があり、耐久消費財の買い替えをためらい、あるいはあきらめることとなる。その代表商品が車であるが、破綻したGMの再生プランは今までの生産の30%減となっていることによく表れている。

確か、このブログにも書いたが、この春米国の貯蓄率がマイナス傾向からわずかながらプラスに転じたと。つまり、消費が美徳であったライフスタイル観から、貯蓄が美徳である価値観へと変化し始めたということだ。世界の消費エンジン役を果たして来た米国が変わり始めたということである。
日本の場合、リーマンショックによる株式や投資信託の評価額が下落したとはいえ、日銀の発表では2008年度末の家計が保有する金融資産残高は1410兆4430億円(前年度比3.7%減)となっている。その内訳は分からないが、予測するにリスクを伴わない現預金などは約50%位と推測される。喩えは悪いが、日本はアリで米国はキリギリスということだ。

面白いことに、日本が進むべき方向転換に関し、榊原氏の提案の一つが「日本回帰」である。勿論、狭く凝り固まったナショナリズムではなく、そのモデルとして挙げているのが江戸時代の政治、経済、社会である。私の持論の一つが、今日のライフスタイルの源流は江戸にあり、そこに回帰し、学ぶべきとの考えとほぼ同じであった。私たちが教えられてきた歴史の嘘は異端の歴史研究者網野善彦さんによってことごとく明らかになってきた。例えば、歴史的文書に残る百姓という言葉は農業従事車ばかりでなく、商業者も金融業者も海運事業者も含まれており、言葉一つ読み解くにも大きな間違いがあった。士農工商という身分制度も明治維新政府が江戸時代の社会を意図的にがんじがらめな階級社会であったと認識させようとしたものであった。結論から言えば、江戸時代は私たちが想像する以上に、自由で平等な、しかも文化を育むだけの豊かな社会であったということだ。詳しくは私の初期のブログに書いているので是非一読いただけたらと思う。また、「日本回帰」では地方分権についても提言されているので、このブログにおいても私見を書いてみたい。

話しを元に戻すが、日本で起こっている消費の在り方は米国のそれとは貯蓄率を見ても分かるように基本的に異なる。ここ10年ほどの間に、米国ほど格差社会にはなってはいないが、まだら模様の如く格差は生まれた。注目すべきは米国も日本も共通していることは、中産階級の崩壊である。社会の安定を形作る土台がこの中産階級であるが、消費においてもそのリーダーとしてあった。今、日本の百貨店が右肩下がりであるのも、顧客の中心であるこの中産階級の崩壊にあることは周知の通りである。過剰であるのはモノばかりでなく、流通も同様で縮小・再編はこれからも進んでいく。
ただ日本のライフスタイル変化を見ていくと米国のそれとは違って、今まで私がブログに書いてきたように、少しでも安くするための生活の工夫、そうした顧客要望に応えるメーカーや流通。結果、生まれたのが、「わけあり商品(消費)」や「代替商品(消費)」、更には「○○したつもり消費」、あるいはファッションから食品、住宅までもがアウトレット化し、顧客に応えているのが日本の消費の「今」である。アリとキリギリスの喩えで言うならば、アリらしい消費と言えよう。

日本のこうした「やりくり算段」上手な消費、したたかな消費はその根底に地政条件から生まれ育った自然思想のようなものが横たわっていると思う。一言でいえば、五風十雨といった湿潤な恵みをもたらす自然であると共に、また地震のような畏怖すべき自然の国であるとの考えである。こうした日本固有の風土と共に、回りの国々からもたらされるモノや文化をとにかく取り入れる地政学的条件が備わっている。日本が置かれている地政学的位置をパチンコ台のようだと指摘した人物がいた。名前は忘れてしまったが、世界地図を右に90度傾けて見てみると、打ち出した玉は上(ヨーロッパ)から中近東を通り、中国や東南アジアを過ぎ、下の受け皿である日本に全ての玉が落ちてくる、そんな地政学的条件に合致していると。つまり、ある意味強靭な胃袋を持つ民族、たくましい民族と言えよう。(続く)  


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2009年07月08日

納得劇場

ヒット商品応援団日記No381(毎週2回更新)  2009.7.8.

沖縄に行っていたのでブログの更新が遅れてしまった。前回のブログで東国原シアターについて書いたが、1週間も経たない内に、第一幕は指摘した通り終わってしまった。今回のサプライズに対し、瞬間「あっ!」と思わせたが、やはり前回小泉劇場の学習効果からであろう、その意図する世界はシナリオのレベルの低さ、演じる役者が稚拙であることもあって、国民から見透かされたということだ。マスメディアによる世論調査を見ても、自民党からの出馬に対し、70%前後が評価していない。第二幕は上がるのかもしれないが、もし上がるとすればより強いパフォーマンス、仰天プランしか残されていない。つまり、サプライズ戦略を採るとは、更に刺激的なパフォーマンスしか残されていないということである。つまり、第二弾、第三弾といったエスカレートさせるシナリオが用意されているのが普通である。

かなり前になるが、ある商業施設のリニューアルに際し、閉店セールを組んだことがあった。約1ヶ月半のロングセールで、最初の2週間は30%off、次の2週間は50%off、徐々にoff率を上げ最後は棚や什器までをも売るといったプランを実施したことがあった。最初の30%offはいわば認知拡大が主要な役割で、顧客は徐々にoff価格と欲しい在庫商品とのかねあいを考えるようになる。そして、最後の1週間が本当のセールとなり、全てを売りつくすプランであった。そして、この売りつくしの先に「生まれ変わった商業施設」があり、閉店セールは「次」への期待を促すプレキャンペーンのようなものとして位置づけていた。
今回の東国原シアターは地方分権というテーマの認知度を上げることには成功したが、「次」に見えるもの、期待を醸成する何かが見えてこないという致命的なシナリオとなっている。つまり、「生まれ変わった商業施設」の喩えで言うならば、旧自民党閉店セール後の「生まれ変わった自民党」、「生まれ変わった産業構造へと転換する日本」が見えてこないということである。私もそうであるが、多くの国民は地方分権に賛成である。しかし、見えてくるのは与野党どちらが政権を担当するにせよ、政局混乱後の再編をうかがっての自己PR、パフォーマンスしかない。

おそらくこれからも劇場型サプライズがマスメディアを賑わすことと思うが、少なくともそうした学習体験を積んだ生活者が驚くことは少ないと思う。何故なら、非日常的なサプライズ価値から、日常的な納得価値へと大きく転換してきているからである。ここ半年ほど盛んにキーワードとして使われてきた巣ごもり消費とは、日常的な納得価値のことであり、巣ごもりという内側にあっても知恵や工夫を働かせた活発な消費は存在している。
昨年9月のリーマンショック以降、日本にも起こった多くの出来事は異常事態であり、単なる経済の指標に表れているだけではない。もっと単純に言えば、異常な生活になったということである。こうした異常さに向き合い、手の届く範囲で生活を組み立てよう、次にまた異常事態が起きた時に備えよう、自己防衛しようと誰もが考えて生活している。そんな時代に、考えることを止めたような底の浅いサプライズ表現は逆に反発を買うだけとなる。これが「今」を表す空気感であろう。

前回、ブログの最後に「ブランドはその心理効果を失い、アウトレットで買われる時代である」と書いた。ブランドを政府自民党に置き換えて読み込んでみれば分かる。つまり、アウトレット商品を鮮度ある新品の如く売ろうとサプライズ効果を狙っても見透かされるということだ。
私は政治のプロではないが、マーケッターとして、アウトレット商品をより良く売るにはどうすれば良いか考えてみた。それは、誰の目にも分かるように、本当の閉店セールを組むことしかない。つまり、自ら命名した東国原シアターを即第一幕で閉じることだ。そして、批判を浴びることになると思うが、総裁選を行い、誰もがここまでやるのかといった新閣僚人事を大胆に行うことしかない。人気だけでなく、納得価値にふさわしい実績のある人材を登用することだ。例えば、東京副知事の猪瀬直樹を国交省大臣、幹事長もしくは政調会長に舛添要一、官房長官には野田聖子、総務大臣には鳩山邦夫の復帰、行革担当大臣にも渡辺喜美の復帰、つまり少しでも納得価値に迫ることができるオールスター人事、ヒットパレードということである。恐らく、見え方として、あたかも「政権交代」したかのようなキャスティングである。そして、その戦略はと言うと、抵抗勢力(競合)を民主党にはしないということだ。誰を競合とするのか、それは官僚組織となるであろう。つまり、官僚叩きである。

政治のプロではないので、このような第二幕となるかどうか分からない。ただ、こうした政治を劇場として見ていくならば、アウトレット商品再生の訳あり「納得劇場」とでも言えるであろう。
訳あり消費を見ても分かるように、生活者はしたたかであり、かつしなやかさを持っている。これから起こる政治に、どんな評価、判断を下すのか分からない。しかし、バブル崩壊後失われた十数年と言われているが、政治に於いてもやっと納得価値という成熟した大人の価値観を持つに至って来たと思う。つまり、与野党共々納得競争ということだ。(続く)  


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2009年07月01日

劇場化社会の構図

ヒット商品応援団日記No380(毎週2回更新)  2009.7.1.

ブログを始めて4年近くになる。ちょうど小泉郵政選挙の時期と重なり、当時の小泉総理を1個の商品、小泉ブランドとして見立て、その戦略を消費論的に分析したことがあった。その中で使ったキーワードが「小泉劇場」で、劇場化社会におけるブランドの創造と衰退がテーマであった。
劇場化社会とは、異なる言葉で表現すると、高度情報化社会のことで、情報発信という視点に立てば、商品ばかりでなく、街、店、人、勿論広告を含めあらゆるものがメディア(メッセージを伝える媒介)になりうる社会のことである。例えば、秋葉原駅周辺の街はアキバと総称されているが、自分でPCを作るような電気技術系若者、アニメに惹かれ更にフィギュアのコレクションが好き、そうしたチョット変わった若者をオタクと呼び、「電車男」や「メイド喫茶」が話題となり、街自体が一種のブランドを形成するようになる。結果、そんな街を観てみたい、メイド喫茶にも行ってみたい、と観光バスで訪れるようになる。
また、1990年代後半、山姥、ガングロといった婆娑羅ファッションのティーン達は渋谷109を目指し全国から集まるようになる。渋谷の街は彼女達にとっていわばストリート劇場になり、渋谷109はティーンファッションの聖地となる。マスメディアは競って話題として取り上げ、中学校の修学旅行のプログラムに東京ディズニーランドと共にマルキュウが選ばれるようになる。つまり、その街に行けば新しい「何か」と出会える、期待し得る「何か」があると想像する、そんなメディアによって引き起こされる社会のことを劇場化社会と呼んできた。

今また、郵政民営化を地方分権に置き換え、劇場ではなく自らシアターであるとマスメディアに登場したのが、周知の宮崎県知事東国原氏である。既に死語となったサプライズの復活である。私は既に1年半以上前から、劇場化社会は変化し、従来のサプライズ手法が効果を発揮する時代は終えたとブログに書いてきた。情報の時代とは、大量の情報が行き交う時代のことであり、情報も類似化を免れず、あっと驚かせる、一発芸のように差別化するために生まれたのがサプライズ手法である。平易に言えば、話題になりさえすれば、という本音が裏側に潜んでいる。いつしか、そうした刺激は麻痺し、更に刺激はエスカレートしていく。当時、そうしたサプライズ・コミュニケーションを次のように私は書いていた。

「短期的成果を求めた強いインパクト、効率の良いレスポンス、コミュニケーション投資に見合うサプライズ価値、こうしたコミュニケーション世界も、長い眼で見る持続型継続型の日常的対話コミュニケーション、奥行き深みのある実感・体感といった納得価値へと変わっていく。『猫だまし』のような、あっと驚かせて瞬間的に大きな売上げをあげていくビジネスから、小さくても「いいね」と言ってくれる顧客への継続する誠実なビジネスへの転換である。」

実は、この数年間劇場化社会の体験結果が学習され、政治の世界においても私が指摘した通りになりつつある。選挙は短期間の勝負と考える従来のやり方=サプライズ手法(マスメディアでのパフォーマンス)とは異なる選挙結果がここ数ヶ月地方選挙にも出てきた。もっと分かりやすく言うと、タレントの好感度ランキングとは異なる選挙結果ということである。
私は選挙のプロではないので、選挙区事情等は分からないが、横須賀市長選挙の結果などはその象徴例であると思う。元小泉総理の応援を受け、自民、公明、民主の推薦を受けた現職の市長が破れ、無名の33歳元市議吉田雄人氏が当選した。毎日新聞によれば、組織選挙を否定し、駅頭に立ち、地道に、オバマ大統領のように「チェンジ」を訴えたと。そうした活動が、若い無党派層へ浸透した結果であったと。これは推測の域を出ないが、主役は市民であり、脇役は吉田雄人氏、舞台は日常、そんな新しい劇場が生まれてきたと思う。

劇場型コミュニケーションは、その名の通り、舞台があり、主役や脇役がいて、どんなパフォーマンスを行えば観客は喜ぶかシナリオと演出が用意される。小泉劇場第一幕は総裁への予備選が舞台として用意され、自ら奇人変人と呼び「自民党をぶっ潰す」と呼びかけた。主役は小泉純一郎、脇役は女房役の田中眞紀子。観客はマスメディアで、取り上げやすいようにワンフレーズポリシー、予想もしないようなキーワードだけを連発する。さて、4年前の郵政選挙ではどうであったか。構図は全く同じである。主役は小泉純一郎、脇役は「抵抗勢力」であった。抵抗勢力との闘いを自ら持ち込み、マスメディアという観客に投げかける。ワンフレーズのみ、「郵政民営化は是か非か」と。そこには競争相手の民主党はいないばかりか、政策すら無かった。そして、マスメディア、特にTVメディアは一斉に抵抗勢力と刺客との闘いを面白おかしく取り上げる。リアルな権力闘争という芝居ほど面白いものはない。報道番組はお茶の間のワイドショーへと変化していく。

マーケティングをやった人間であればすぐ分かることだが、小泉劇場はNo1ブランド、No1シェアーをもつ者だけに可能な戦略である。トータルシェアーを確保・拡大するために、敢えて自社内競合商品を創り、市場に導入する戦略である。小泉劇場の場合は、抵抗勢力が自社内競合商品ということだ。これからの動きを見ないと断定できないが、宮崎県知事東国原氏を含めた劇場型政治は、衰退しつつあるNo1ブランドを果たして再生することができるであろうか。東国原シアターの主役は東国原知事、脇役は大阪橋下知事(?)、シナリオライターは古賀選対委員長、舞台は東京となるが、しかし本来主役であるべき麻生総理はどこへいったのであろうか。
これから始まる東国原シアターへの評価であるが、私もそうであるが、マーケティングのプロの判断は否である。恐らく、パフォーマンスすればするほど、刺激を強めれば強めるほど、逆方向へと振り子が振れる人間が増加しているからだ。その振り子の中心にあるのは劇場型政治の学習体験である。小泉劇場の体験結果、生活に「何が」生まれたのか、どんな成果が得られたのか、時間経過と共に学習してきたということだ。

ブログを書き始めて以降、ヒット商品の裏側にある生活者の価値観変化の推移を追いかけてきたが、書いたブログの中で一番多いテーマが実は情報偽装に関してであった。耐震偽装事件を始め、実は無数の事件を生活者は目の当たりにしてきた。情報の時代ならではの問題であり、信用できるのは自らの体験ということである。しかし、メディアサーカスが起き、東国原シアターへと報道が集中し、一定期間繰り返されることによって動く人間もいる。劇場化社会の成否はこのメディア・シェアをどれだけ取れるかによる。
政治は未来を描くことであり、そうした意味で期待値そのものとしてある。情報偽装に最も適している世界だ。これからも劇場化社会は続き、新しい、面白い、珍しいというサプライズ欲望は誰しもが今なお持っている。興味本位と見た目で、「何かやってくれそうだ」といった心理に動かされる人間も少なからずいる。しかし、そうした人間も体験を積むことによって少しづつ減っていくであろう。何故なら、一発芸の小島よしおやグーのエド・はるみはどこへ行ったのか。ブランドはその心理効果を失い、アウトレットで買われる時代である。さて、東国原シアターの第一幕が始まった。(続く)  


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