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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2015年01月22日

未来塾(13)「スポーツから学ぶ」(3)

ヒット商品応援団日記No6023毎週更新) 2015.1.22.

2015年最初の「未来塾」は「日本発エキデン」についてスポーツライター井上氏に投稿していただいた。多くの国民の共感を得た今年の箱根駅伝は青山学院大が初優勝したが、期待に違わず多くのドラマが生まれた。その駅伝の誕生と今後の可能性について学んでみた。


京都の鴨川三条大橋の東詰めにある「駅伝発祥の碑」同じものが東京・上野不忍池にもある。


「スポーツから学ぶ」

時代の観察

日本発エキデン


日本が生んだ人気スポーツ「駅伝」

 国内で人気スポーツランキングを予想すると、野球、サッカー、それにスター選手が登場するテニス、フィギュアスケートあたりがまず上位に違いない。今、全国的に「根強いブーム」となっているのが、日本生まれの陸上競技「駅伝」だ。個人の利益よりチームの栄光、1本の「たすき」に心をつなぎ、「たすき」を次の走者に渡すまでは、どんなにフラフラになっても頑張り抜く。その姿が感動を呼ぶ。大幅に遅れた走者を「ブレーキ」というが、ようやく「たすき」をもらったエースは、くさることなく、先行の走者を次々に抜き去るドラマ。個人のマラソンよりもレースに変化があり、テレビ中継の「商品」としても魅力的だろう。五輪競技ではなく、日本独自のスポーツであるところに「オリジナル感」さえある。そして、駅伝は、日本の産業構造を下支えする「家族経営」のひたむきさに、どこか通じるのだ。今回は、駅伝というスポーツをながめてみたい。

駅伝の発祥は大正6年

 駅伝の発祥は1917(大正6)といわれている。東京奠都(てんと)50周年を記念して讀賣新聞が主催した。4月27日午後2時に、京都は鴨川三条大橋をスタート、東海道を23区間約508キロ走り、2日後の29日午前11時34分に、東京上野の不忍池のほとりにゴールした、と記録にある。現在、そのスタート、ゴール地点に、「駅伝発祥の地」の記念碑がある。これは、毎年1月に京都市で開かれる全国都道府県対抗女子駅伝の第20回大会(2002年)を記念して、日本陸上競技連盟が建立した。

 「駅伝」という言葉は、日本書紀にもでてくる言葉だそうだが、この日本古来の言葉は、スキヤキ、テンプラ、スシと同様に「エキデン」として国際語になっている。ちなみに、国際陸上競技連盟での正式名称は「ロードリレー」だ。日本の東西の代表的な駅伝は、東京箱根間往復大学駅伝、いわゆる「箱根駅伝」と、京都市での「全国都道府県対抗女子駅伝(全国女子駅伝)」に落ち着くのではないだろうか。

新年の風物詩、箱根駅伝

 箱根駅伝は、関東学生陸上競技連盟と読売新聞社が共催し、出場校も関東の大学であり、スポーツ大会の位置づけとしては「地方大会」だ。しかし、注目度、人気は、みなさんご存知の通りだ。コースは、東京都千代田区の読売新聞東京本社前─神奈川県箱根町の芦ノ湖往復、往路5区間107・5キロ、復路5区間109・6キロ、計217・1キロだ。第1回大会は、駅伝発祥から3年後の1920(大正9年)だった。ストックホルム五輪(1912年)に出場した日本の五輪選手第1号、金栗四三が選手強化のために発案した、とされている。また、東京から箱根郵便局に手紙を届ける観光イベントだったという説もあるようで、手紙に見立てた「たすき」を使ったとする記述もある。

 いずれにしても、第1回箱根駅伝は2月14、15日に実施され、明治大、早稲田大、慶応義塾大、東京高等師範学校(現筑波大)の4大学が出場、東京高等師範が優勝している。戦時中の3年間は中断した。

 1987(昭和62)年に、日本テレビが生中継で全国放送を始めたことで「正月の風物詩」として人気を高めていく。出場する大学は、前回大会の上位10大学(シード権という)と、予選会を通過した10大学、ほかに関東学生連合チームの計21チームが基本。
 
 2014(平成26)年は第90回の記念大会として、シード10大学、予選通過13大学の計23大学が出場、過去最多となった。関東学生選抜チームはこの大会のみ編成しなかった。成績は東洋大学が往路、復路とも1位の完全優勝を達成した。

 ちなみに、山梨学院大学は、この第90大会こそ途中棄権しているが、箱根駅伝で活躍した結果、大学の知名度が急上昇。受験生が飛躍的に増え、受験料収入が大学経営に寄与した、という話もある。

全国都道府県対抗女子駅伝

 京都市の「新名物」ともいえるのが毎年1月の全国都道府県対抗女子駅伝だ。第1回は、1983(昭和58)年に開かれた。9区間42・195キロのコースに47都道府県が勢ぞろいし、中学1年生から42歳の市民ランナーが出場した。アンカーに増田明美さんを起用した千葉県が初代女王となった。京都では、その前年まで、男子の「京都マラソン」が行われていた。かつて、瀬古利彦さんが新人賞を獲得し、飛躍のきっかけになった、という歴史もある。

 一方、当時、日本の女子の中長距離種目は、「世界から10年遅れている」と指摘され、しかも、1984(昭和59)年のロス五輪では、女子マラソンが初めて採用されることになっていた。女子の強化を緊急課題とした日本陸上競技連盟では、京都陸協、京都新聞社などと協議し、京都マラソンを全国女子駅伝に切り替えた。最初からNHKがテレビ中継を行うことになり、冬の京都の美しい景色とともに、「たすき」と「黒髪」をなびかせて走る女子ランナーの表情を追った。京都に住む各都道府県の出身者が、「ふるさとチーム」を応援しようと、次々に県人会を組織、その連合組織も生まれて事務局を京都新聞社内に置いた。レースの前後の日に、県人会の会員らは、京都入りしたふるさと選手を囲み、激励やねぎらいの宴を開くことが多い。

 平成27年1月11日が第33回全国女子駅伝だが、日本の女子の一流ランナーは、ほぼすべてといっていいほど、この女子駅伝を経験し、飛躍のきっかけにしている。日本陸連の女子強化の思惑は「大ヒット」といえるだろう。マラソンの成績でみると、1992年バルセロナ五輪で銀メダル、96年アトランタ五輪で銅メダルの有森裕子さん、2000年シドニー五輪金メダルの高橋尚子さん、04年アテネ五輪金メダルの野口みずき選手らだ。有森さんは最初、岡山代表になったときに「補欠」だった。その悔しさ、都大路を選手として走りたい、という気持ちを失わず努力した。岐阜代表だった高橋選手は、まったくの無名で女子駅伝を走り、区間順位も下位だったが、大成した。



レースのスタート、ゴール地点である京都市の西京極陸上競技場のマラソンゲートの横には、有森、高橋、野口3選手の足型レリーフがある。

 全国女子駅伝の歴史は、箱根駅伝の3分の1程度だが、女子ランナーのレベルアップは目を見張る。第1回優勝の千葉県のタイム、2時間29分2秒は、平成26年の第32回の成績に当てはめると、47都道府県中46位、ブービー賞に相当する。現在、大会は9区間のうち、3区と8区は、中学2、3年生に限定している。中学生ランナーがチームの中で、高校生、大学生、実業団の花形選手と一緒に行動し、レースで「たすき」を受け渡しすることが、どれほど励みになるか、想像に難くない。全国女子駅伝は、第1回から47都道府県すべての出場が絶えたことがない。背景に京都に来る楽しさがあるにしても、陸上競技関係者の熱意が大会を支えているのだ。


全国高校駅伝(京都市)のコース図。全国女子駅伝も同じコースで、京都の名所を駆け抜ける。


地域、企業に拡がる駅伝

 全国規模の華々しい駅伝とは別に、全国各地で地域の駅伝が根付いている。私の身近な駅伝を紹介すると、京都市の近郊住宅都市、向日市、長岡京市、大山崎町の2市1町の小学校18校が参加する駅伝(6区間約9・3キロ)がある。その第1回大会で、飛びぬけて早い選手がいた。平成26年にJリーグを制覇したガンバ大阪のエース、宇佐美貴史選手だ。京都府では、府体育協会が主催する府民総合体育大会で「市町村対抗駅伝」が、男女混合メンバーで毎年2月に行われる。京都府庁では、職員の親睦のための「職場対抗駅伝」もある。

 平成26年4月7日付けの京都新聞紙面に、駅伝イベントを仕掛ける株式会社スポーツワン(東京都)の記事が掲載された。異業種間の交流を図る駅伝を2010年に初めて東京で開催。13年には700チームが参加したそうだ。千葉都市モノレールの開業25周年を記念した沿線の市民駅伝(2014年春)には約500組が集まった。

 また、瀬戸内海の家島(兵庫県姫路市)では、2013年9月に初めて駅伝を開催、約300人が出場し、民宿や飲食店など「島の経済」を活性化したそうだ。

 日本で生まれ、育んできた「駅伝」というスポーツ文化を、いずれは外国に輸出できるようになるのだろうか。スポーツは、その国の、あるいは地域の伝統、風習、歴史に影響を受け、民族性、地域性を反映する独特の競技がある。「駅伝」は日本人ならではの競技という枠を超えて、国際競技に成り得るだろうか。箱根駅伝にしろ、全国女子駅伝にしろ、地域への経済波及効果はどれぐらいだろうか。駅伝への興味はつきない。

 最後に、主な駅伝を付記する。

[社会人]
○国際千葉駅伝 (千葉市)
○全国都道府県対抗男子駅伝 (広島県)
○全日本実業団対抗駅伝 (群馬県)
○実業団の 東日本、中部・北陸、中国、九州各駅伝
○全日本実業団対抗女子駅伝 (宮城県)
○東日本女子駅伝 (福島県)
○FUKUIスーパーレディス駅伝 
○選抜女子駅伝北九州大会 (北九州市)
○富士登山駅伝
[大学]
○全日本大学駅伝対校選手権 (愛知県・三重県)
○出雲全日本大学選抜駅伝 (島根県)
○関西学生対校駅伝 (京都府)
○九州学生対校駅伝 (長崎県) 
○全日本大学女子駅伝対校選手権 (宮城県)
○全日本大学女子選抜駅伝 (静岡県)
[高校]
○全国高校男子、女子駅伝 (京都市)
[中学]
○全国中学駅伝 (会場持ち回り)
[身体障害者]
○全国車いす駅伝 (京都市)


スポーツから学ぶ


日本の精神文化スポーツ、駅伝

駅伝が日本発のオリジナル競技スポーツであることは分かっていたが、東京奠都(てんと)50周年を記念し、大正7年に京都三条大橋をスタート地点に東京上野まで508キロを3日間で走るスポーツとして始まっていたことは極めて興味深いものである。
周知のように東京奠都とは明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められ、京都との東西両京としたことを指す。この奠都によって政府を東京に移し、元号も明治と改められた。この奠都50年を記念したスポーツイベントとして駅伝が開発されたという指摘である。
ところで近代オリンピックは1896年に始まるが、その前身となる古代ギリシャで行われた「オリンピア祭典競技」、いわゆる古代オリンピックは、ギリシャを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事であった。
駅伝誕生になんらかの宗教的意味合いが具体的なものとしてあったのかわからないが、京都と東京を結ぶ駅伝という当時の発想は極めておもしろい。
この駅伝創設の原動力となったのが、マラソンの父として知られる金栗
四三で昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーであった。東西対抗で行わ
れたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となった。
この駅伝が広く浸透していった魅力は、個人の利益よりチームの栄光、1本の「たすき」に心をつなぐスポーツという精神性を重視する点にある。まさに日本人の精神文化をよく表したスポーツである。今やマラソンを走るための「入り口」として位置づけられているが、そうした競技の合理的世界を超えて、選手自身も観客も1本の「たすき」に託された精神世界に多くの人が共感する。
その襷(たすき)であるが、古事記にも出てくる神事の装飾品の一つであった。以降、庶民の日常生活にも和服と共に浸透していくが、今や洋服が主流となった生活スタイルでは特別な行事にしか使われることはなくなった。
日本には相撲をはじめ弓道、剣道、柔道といった伝統スポーツ、あるいは伝統文化における華道、茶道、のように、それらに通底しているのが「道」という日本の伝統精神である。そして、駅伝にもこうした精神世界が襷という形で継承されているということである。これが日本発、日本オリジナルスポーツを創らせているということである。このように書くとこの精神世界は欧米人の受け止め方として、クールジャパンにおける「サムライ」、「サムライスポーツ」といった表現が可能かもしれないが、そこまでの飛躍はないにせよ、駅伝が「世界のエキデン」として広げていくに際し、日本固有の精神性をもったスポーツであることをコンセプトとすべきであろう。
そして、外国のメディアやアスリートから「エキデン=サムライスポーツ」であるとの話題が広がる時、駅伝はエキデンになりグローバルスポーツになる。


女子ランナーの発掘と成長というインキュベーションシステム

マラソンを筆頭に女子長距離競技は長らく低迷し世界から10年遅れていたが、駅伝競技によって大きな変化をもたらしたと井上氏は指摘している。その全国女子駅伝だが、日本の女子の一流ランナー有森さん、高橋さんを筆頭に、ほぼすべてといっていいほど、この全国女子駅伝を経験し、飛躍のきっかけにしている。実はこうした個人を成長させる仕組みがこの駅伝ランナーの構成にあると。
大会は9区間のうち、3区と8区は、中学2、3年生に限定している。中学生ランナーがチームの中で、高校生、大学生、実業団の花形選手と一緒に行動し、レースで「たすき」を受け渡しすることが、どれほど励みになるか。つまり、中学生から将来目標が実感できる仕組みを内在させているということである。このアイディアはアスリートの裾野を広げ、しかも競技することによって未来のメダリストを発掘することも可能となる仕組みとなっている。
こうした個人の成長は一般企業における「仕組み」として応用が可能である。特に、変化の時代への対応として、プロジェクト型のビジネスが課題となっているが、そのチーム編成のなかに入社2〜3年の新人、駅伝でいうところの中学生や高校生を入れたプロジェクト編成にするということである。そんな新人に仕事ができるかという指摘もあるが、団塊世代が一斉に退職した後、その技術や経験の継承がなされず多くの企業が問題を抱え困っているという現状がある。特に形式知といった内容については業務マニュアルなどで継承されることは可能であるが、暗黙知、特に失敗経験の継承は未知を探るプロジェクトにおいてはその入り口となりえる。つまり、その新人は未来のプロジェクトリーダー、企業の舵取り役である取締役候補への成長のきっかけを得、企業にとっては有能な人材発掘の仕組みになるということである。(続く)

元京都新聞社運動部長 
スポーツライター  井上年央
ヒット商品応援団 飯塚敞士

  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:14Comments(0)新市場創造

2015年01月09日

大いなる決断の時/日本マクドナルド 

ヒット商品応援団日記No602(毎週更新) 2015.1.9.

日本マクドナルドがおかしくなっている。おかしくなっているとは、勿論経営という本質がである。1月7日に行われた異物混入に関する記者会見で一層その思いを強くした。社長ではなく、執行役員によるものだからと言う意味ではない。謝罪会見ではなく、単なる説明会見ということで、当日までに把握された異物混入の経緯についての説明であった。ここ数年日本マクドナルドだけでなく、食品偽装をはじめとした不祥事について必ず危機管理コンサルタントや弁護士の指導・サジェッションの上、記者会見が行われる。その目的はいかに企業を防衛するかに終始することになる。そこには異物混入の被害者やそれらに不安を感じている顧客はいない。

ここ2年ほど日本マクドナルドのメニュー開発や価格戦略についてブログ上で取り上げることが多数あった。その理由はデフレ下にあってどうメニューや価格をもってデフレの壁を超えようとしているかについてであった。結果についてはブログを読んでいただければと思うが、結論から言うと100円マックの値上げからすぐさま元の100円マックに戻したことに象徴される「迷走するマクドナルド」という一言につきるものであった。勿論、迷走の結果は赤字決算である。
ところで日本マクドナルドは1971年銀座三越の1Fにテイクアウト店としてオープンするが、周知のように藤田田氏のオーナー企業として運営された。当時私は外資系広告会社に勤務しており、隣のチームがマクドナルドを担当していた。米国から送られてくる各種のシステムやマニュアル類を読みながら、特にそのチェーンオペレーションの新しさに感嘆した記憶がある。ちょうど多店舗展開する拡大期であったと思うが、私もマーケティング実態について少しだけ手伝ったことがある。それはマニュアルには載っていない顧客要望、そうしたサービスの対応実態についてであった。例えば、ビッグマックをオーダーし、マスタードを塗って欲しい、といった個別注文である。米国マクドナルドでは多様なトッピングサービスが既にあるので、今ではそうしたことまでマニュアル化されている思うが、当時はそうした現場対応そのものが不可欠であった。そのためのトレーニングが極めて重要で、今で言うところの「現場力」「人間力」が成長のエネルギーになっていた。そうした現場力を育む必要性を説き、推進したのがその藤田社長であった。そして、日本独自の商品開発をはじめ、マクドナルドの日本化を進めるなど単なる米国のビジネスモデルの導入ではなかった。そうした異色のリーダーが藤田社長であり、当時から超ワンマン社長であった。毎週月曜日朝の幹部との朝礼は御前会議と称されるほどであると担当者から聞いていた。

マニュアルは言語や文化の異なる人間が集まった多国籍国家米国ならではの一種のノウハウで、マニュアルに準じてやれば一定のクオリティが得られるものとして策定されていた。一つのブランドとして均一な商品・サービスを提供するには不可欠なもので、ノウハウが凝縮されたものとしてある。しかし、マニュアルというツールに安住してはならないということが実は「現実」である。拡大・成長期こそ安住できる場所など無いということを藤田田氏は指摘していた。マニュアルはいわば提供する側の合理的なツールではあるが、今や多様に変化し続ける顧客要望に対してはマニュアルを超えた自在な対応力が求められている。そのことを藤田社長は一番理解していた経営者の一人であった。

たしか1980年代半ばであったと記憶しているが、「あのマクドナルドのハンバーガーの肉はミミズである」という根拠のない風説による都市伝説が流行ったことがある。勿論、根拠のないマクドナルドにとって迷惑な風評であるが、マクドナルドのハンバーガーは実はビーフ以外にも他の肉を使い、消費者に知らせていなかった事実があった。確かNHKが調査を行い指摘したと記憶しているが、その指摘を受けて1985年に日本マクドナルドは「100%ビーフ」として再スタートした経緯がある。
さて、この時の経験、ある意味日本マクドナルドの創業精神はその後どのように生かされてきたのであろうか。藤田商店として揶揄されてきたが、BSE問題などから売り上げが低迷し赤字決算を迎えてしまう。そして、日本マクドナルドの全てを米国に移管し、会長職を辞してからわずか2年後に藤田田氏は亡くなられた。その退任の記者会見でデフレからの脱却を願っているとの発言があったと記憶している。そして、周知のようにアップル社から原田氏を社長として迎えるのだが、それまでの直営方式からFC(フランチャイズ)方式に転換し、不採算店舗を積極的に閉めるなどして業績を立て直して今日に至るのである。

話を元に戻すが、理屈っぽくいうと、マニュアルという形式知を超えて、体験という暗黙知を踏まえどのような思いで今回の異物混入事件を見つめ直すかである。FC(フランチャイズ)方式の最大課題は現場の教育である。マニュアルによる絶え間ない訓練が必要となる。現状でのマクドナルドの人材については分からないが、現場でのモチベーションは下がり、しかも人手不足にあって教育も十分されていたとは思えない。
当時「ミミズである」といったうわさを払拭するには「100%ビーフ」といった大いなる経営決断を必要とした。いわんや異物混入が現実問題としてある以上、当時の経営判断以上のものが用意されなければならないということだ。

多くの食品を扱う企業の製造工程において、金属といった異物については発見、更には除去するシステムが用意され実行されている。しかし、ビニール等の非鉄金属については人間による「目視」が異物混入防止策となっている。しかも、大手外食チェーンの場合、中国やタイといった「顔の見えないところ」で作られている場合がほとんどである。消費期限を超えたチキンナゲット問題をはじめ、日本マクドナルドへの不安はいっさい払拭されていないどころか、異物混入問題によって増幅すらされている。それは昨年8月以降の売り上げ数字を見れば明らかである。
今回の記者会見は、「嘘」は言わないが「本当のこと」も言わない、そんな記者会見であった。この状態が続けば、更なる顧客離れが加速する。出来る限り早く大いなる決断」をもってカサノバ社長自身が記者会見に臨んで欲しい。これがグローバル経済、グローバル企業の常識である。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:16Comments(0)新市場創造

2015年01月03日

文化経済立国の時代へ

ヒット商品応援団日記No601(毎週更新) 2015.1.3.

明けましておめでとうございます。今年もまた元旦の主要新聞各紙を見ながらマスメディアはどんな年度として期待し予測するのか、そんな記事を踏まえながらブログを書こうと思っていた。しかし、年々そのジャーナリズムとしての分析力を踏まえた提言にみるべきものがなくなり、戦後70年という年にあたることから、外交・安全保障などいくつかの提言はあったものの朝日、読売、毎日、日経、東京各紙は同じように消費増税をはじめとした日本経済に関する記事は皆無であった。消費税引き上げは先送りされただけであるにも関わらず、あたかも経済・消費増税という課題が無いかの如くである。そして、勿論のこと2015年度予算への提言もふれていないことは言うまでもない。

昨年の日経元旦号では「常識を超え新しい世界へ」とし、あのアップル社の創業メンバーの一人であるスティーブ・ジョブズの言葉”ハングリーであれ、愚か者であれ”を入り口にして、創造と破壊の「イノベーションの歴史」を見開きで特集していた。さて今年はどうかと言うと、女性をはじめ外国人やシニアといった多様な労働、更には就業時間や就業場所を含めた多様な働き方の時代へと「変えるのはあなた」と呼びかける内容となっている。昨年に引き続き「働き方のイノベーション」提言と言えば言えなくはないが、どこかピントがずれている感がしてならない。

昨年秋、あるセミナーでの講演に際し、戦後の産業構造の変化と、それを受けとめる個人の自己投影の一つである「歌」の変化について確認のために再度調べたことがあった。
そもそも歌のスタートは労働歌であった。いわゆるブルースであるが、日本の場合は第一次産業の労働歌で、漁業であればソーラン節、林業であれば木挽き歌のような民謡であった。しかし、昭和30年代工業化の進展による第二次産業である製造業と共に生まれたのが歌謡曲であった。その歌は労働歌ではなく、工業化・近代化によって失った故郷とか家族あるいは自然といったものを取り戻す歌が歌謡曲となった。その代表が作詞家阿久悠さんで、シニア世代にとっては懐かしい石川さゆりが歌う「津軽海峡冬景色」などがその代表作であった。
ところでその「時代変化」であるが、

□第一次産業(農林漁業)の従事者の割合は、1955 年の 21.0% から 2008 年の 1.6%まで継続して低下。
□第二次産業(鉱業、建設業、製造業)の割合は、1955 年の 36.8%から 1970 年には 46.4%まで上昇し、2008 年には 28.8%まで低下。
□第三次産業(サービス 業、卸売・小売業など)の割合は、1955 年の 42.2%から 2008 年には 69.6%まで上昇。

1955年という年度はいわゆる高度経済成長期のスタートの時期であり、そのピークである1970年における製造業従事者の割合は46.4%で2008 年には 28.8%まで減少している。実はその差は大きく17.6%も減少し、製造業の国内空洞化と言われている数字である。製造業による輸出立国と言われてきた日本とはまるで異なる産業構造に既に転換してしまっている事実である。円安による輸出が増えるどころか輸出入は赤字化し、海外投資などによる所得収入によってなんとか貿易を成立させているのが実態である。最早、従来の物づくり貿易立国ではなくなっているということだ。

このブログを書き始めて10年目を迎えるが、その当時から海外における日本食の浸透を取り上げてきた。例えば2005年度のデータであるが全米のジャパニーズレストランは9000軒を超えており、世界中が日本の食文化に注目しブームとなっていると指摘をしてきた。勿論、和食とは言いがたい”なんちゃってジャパニーズレストラン”がほとんどであるが、世界の興味関心事は禅やサムライ、コミック・アニメ等のサブカルチャーといった日本文化にある。ある人に言わせると、現在の日本はまるで江戸時代に酷似していると。約270年間大きな戦乱もなく、つまり外に向かう成長ではなく、内に成熟した江戸文化を指しての話である。しかし、江戸時代というと鎖国を思い浮かべるが、長崎出島を窓口に貿易は結構盛んであった。当時の輸出品は陶磁器やお茶であったが、その包装資材に浮世絵が使われていた。その浮世絵がヨーロッパの人たちの目に留まり、周知のように多くの画家へと影響を及ぼすに至るのである。クールジャパンは江戸時代から始まっていた。少し短絡的ではあるが、日本文化の輸出によって立国していたということである。

今、周知のように「和食」が世界のブームとなっており、食材や調味料、料理人という人材までもが輸出へと向かっている。昨年度の訪日外国人は1300万人を超えていると思うが、この訪日外国人を更にリピーターとすることが、次のステージに上がることにつながる。そして、8%の消費増税導入にも関わらず昨年4月の百貨店売り上げを唯一プラスとした銀座三越の右にならえと多くの小売業が免税カウンターを設け取り込みに努力をしている。その延長線上のセールとして、元旦から営業の西武そごうグループでは訪日外国人向けの「福袋」を用意している。円安をマイナス面だけでなく、新しいマーケットが表に出てきたと、やっと認識し理解され始めている。

ところで話は戻るが、産業の転換と共に「歌」もまた変化してきている。民謡の次に歌謡曲が衰退し、今日に至っている。その象徴的人物は阿久悠さんであるが、何回かブログにも書いてきたので繰り返さないが、晩年、阿久悠さんは「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いと
わかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念する。つまり歌が痩せていくとは、心が痩せていくと感じたのであろう。

しかし、ここ数年前から若い世代、特に中高生にとっての「歌」はAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」となるが、特に代表的な歌となるといきものがかりの「YELL」になる。歌は労働歌から失ったものを取り戻す歌謡曲を経て、互いに応援し合う「共有歌」へと変化してきたということである。少し理屈っぽく言うと、第三次産業従事者が70%を超えた時代の応援歌は、素人同士、ごく普通の人間同士が共に励まし応援し合う歌、「共有歌」が求められている時代であるということだ。歌という自己投影を別の言葉に置き換えるとするなら、共有場所、一種のコミュニティが求められているということである。既にWeb上ではSNSという仮想コミュニティが無数創られているが、これを現実の場とする試みが課題となっている。特に若い世代にとってはこうした集い合える「場」が不可欠な時代となっている。そして、この「場」は性差や年齢差、あるいは地域差や人種差を超えることが前提となる。その象徴がシェアーハウスであろう。従来のスポーツや趣味などの会員制やクラブといった閉じられた「場」ではなく、一定のルールの基での自由な個人参加となる。

今、特に東京においては、街も交通機関も飲食店においても至る所で訪日外国人と出会うことが多い。もっと分かりやすく言うならば、百貨店だけでなくドンキ・ホーテにも、100円ショップにも、ドラッグストアにおいても、勿論私たちが日常利用している安い天丼店やお好み焼き店、新宿西口の飲屋街である思い出横丁にも・・・・・なかでも訪日外国人の一番人気はやはりラーメン店である。新横浜ラーメン博物館の活動をみていても分かるが、クールジャパンにおける「和食」の次はラーメンであるとグローバル市場を視野にいれている。その先頭を走っているのが一風堂であろう。実は訪日外国人にとって私たちが考えている以上に、日本は身近な存在であるということである。FacebookやYoutubeといったネットメディアを通じ場合によっては私たち以上に日本の情報に精通している。そして、何よりも求められ、そして信頼されているのは「お・も・て・な・し」といった構えたサービス日本ではなく、もっと日常的にふれあう「ファミリーな関係」ということである。

ここ数年訪日外国人が泊まるゲストハウスとして注目されている東京根津の旅館「澤の屋」はまさに家族でもてなすサービス、いやもっと端的にいうならば「下町人情」サービスという「お・も・て・な・し」である。これも澤さん一家が提供する固有なサービス、日本の下町文化に絶大な評価を得ているということである。そして、重要なことは澤の屋だけでなく地域の街全体が訪日外国人をもてなすという点にある。グローバル経済、日本ならではの固有な文化ビジネスが既に国内において始まっているということである。但し、勿論円安を全て肯定している訳ではない。そのしわ寄せは輸入価格の高騰=物価高となり、消費を縮小させている。そして、何よりも過度の円安は日本の「国力」、海外の日本への評価が極めて低くなったということを忘れてはならない。グローバル経済において、何を輸出するのか、それは日本文化でしょということだ。(続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:10Comments(0)新市場創造