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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2009年09月30日

理想という旗印

ヒット商品応援団日記No406(毎週2回更新)  2009.9.30.

前回、希望をなくしたその代替欲求、代償行為として過剰消費があったのではないか、と私は書いた。更に、巣ごもり消費生活を体験し、「必要とは何か」を考え、その必要の意味が変わってきたのではないかとも仮説した。古い諺に「立って半畳、寝て一畳」という言葉があるが、必要消費の意味が「立って一畳、寝て四畳半」であったという「過剰」への自覚である。
過剰消費の先には何が待ち受けているか、その一つは依存症の世界であろう。私自身も過去そうであったが、マーケティングの主要な仕事の一つに、「いかに頻度多く購入してもらうか」があった。5〜6年前、サプリメント依存症という言葉がマスメディアに取り上げられたことがあった。痩せたい、キレイになりたいという女性であれば誰でもがもっている心理であるが、ほとんど食事を採らずにサプリメントだけ、そうした生活を続けていくと次第に胃が小さくなり、・・・・・・そうした健康被害者を産み出しているという事実であった。

2年ほど前に、バラバラとなった個人化社会にあって、失ってしまった個族の居場所を提供する消費についてブログに書いたことがあった。
『ヒトリッチというキーワードは最早当たり前で、お一人様用の小さな隠れ旅館や隠れオーベルジュが人気だ。ヨン様から始まった韓流ブームやセカチュウ(世界の中心で愛を叫ぶ)、ハンカチ王子といった白馬の王子ブームも個族の精神的飢餓感から生まれたものだ。』
敢えて言うと、ヒトリッチ市場とは「何かに依存しないと生きていけない」個人化社会が産み出す必然的な市場のことであると。

あまり良い事例ではないが、酒井法子に代表されるような薬物汚染は依存症時代の典型であるが、覚醒剤や大麻は今やコンビニのようにいとも簡単に手に入る時代だ。つまり、簡単に依存症になってしまう時代ということである。しかし、時代の空気感は「依存」から「自立」へと向かいつつある。消費という面では、既に2年ほど前から過剰なものへの削ぎ落としが始まり、その影響を直接受けてきたのが周知の流通である。巣ごもり生活とは身の丈消費ということだ。更に言うと、リーマンショックの1年前に、既に東京の地価は下がり始めマンションは売れずに在庫となり、戸建住宅も建築費は坪20万円台前半という価格競争となっていた。リーマンショックによって、輸出企業、大手企業にも遅れて直接影響が出たということだ。

この2年間、様々な崩壊を目の当たりにし、生活という可能な場から生活者は再生へと踏み出した。今、やっと新政権になって多くの「過剰」を削ぎ落とすことに国も踏み出した。JALの再生問題の背景として、政官業一体となって産み出した過剰な空港問題があらわになったが、これも「必要」とは何かが問われている問題である。国も、家計も、「身の丈」という至極当たり前の考えに立ち戻ったということであろう。

ところで、私は鳥取県の委員を務めてきたが、前知事片山善博氏の話を聞いてのことであった。片山さんは破綻寸前であった鳥取県の行財政改革のために県民の多くから懇願されて知事になった人である。私の友人もその一人であったが、県庁へ行けば破綻寸前という実態がすぐに分かる。キレイに掃除はされてはいるが古くて暗い庁舎のままである。鳥取市と米子市を結ぶ県道は所々補修工事がなされ、でこぼこの道路である。計画中であったダム工事を見直しさせ、ダムの代わりに河川工事を行い予算の節減につとめたり、他にもさまざまなところで実態を目にするが、「身の丈」とはこうしたことである。しかし、多くの鳥取県民の方達と会ったが、一様に感謝の念を話していた。国家戦略室の「予算編成の在り方検討委員会」に片山さんが参加されると報じられたが、鳥取県はその良き先行モデルとなっている。

話を消費に戻すが、生活者にとって物という過剰からの脱出はなんとかなったが、「希望」への精神的飢餓感は依然として残っている。世代や環境によって希望は全て異なるが、やはり「自分の居場所」があってのことだ。それが家庭であったり、職場であったり、何らかのコミュニティであるが、もっと単純化してしまえば、「話し相手がいる」ということだ。
以前、「人力経営」という本を書くために、渋谷109、渋谷という街を研究したことがあった。1990年代後半渋谷に集まってきたティーンは、この話し相手を求めた個族の芽であった。大人にとって一種異様にも感じられる渋谷という街は、彼女達にとっては居心地の良い自由な舞台空間、学校にも家庭にもない「居場所」であった。そして、何よりも「大人」になるための学習体験の場であった。私はそうした社会体験の場の象徴として渋谷109を「大人の学校」と呼んだ。それは、時に援助交際や薬物中毒といった、大人の罠にはまってしまうという社会問題も引き起こすのであるが。そうした清濁、善悪混在した大人という希望への一種の通過儀礼空間としてあった。

個人化社会という現実はこれからも続くであろう。その個人は「話し相手」を求め、つなぎ合う行動へと向かう。それが家族であったり、職場やクラブ、組織、団体、さまざまな社会の単位で再編されていく。その時、問われるのが理想という旗印だ。どんな家庭を目指すのか、どんな街であったら良いのか、どんな会社を目指すのか。政治であれば、どんな国を、どんな地方を目指すのか、理想をどうデザインするかへと向かう。
今起きつつある変化は、多様な価値観の衝突によって混乱・混迷の世界を産む。政治課題は別にして、消費という視点に立つと、ある意味顧客に対する「理想力競争」という市場の変化となって現れてくる。その理想には勿論価格もあるが、作り手の思い描く理想もあるであろう。過剰を削ぎ落とした後、作り手と生活者が「理想」を間に話し合うことによって「依存症時代」を超えることが出来る。理想と現実とは違う、そんな時代から現実を理想に引き寄せる時代へと向かう。つまり、理想が新たな消費を創るということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:42Comments(0)新市場創造

2009年09月27日

希望と消費

ヒット商品応援団日記No405(毎週2回更新)  2009.9.27.

巣ごもり生活に入り、既に2年近く経過した。私はこの数ヶ月間、巣ごもり生活から「何」を体験し、学び、どんな「次」に向かうのであろうか、を考えてきた。そうした意味を踏まえ、敢えて低価格わけあり消費ブームは終わり、代替消費(○○したつもり消費)に向かっているとも書いた。久しぶりに連休中に近くのエブリデーロープライス業態のOKストア用賀店を見に行った。周知のわけあり商品をどこよりも早く導入し、米国ウォルマートを見に行かなくてもOKストアを見れば、そのディスカウント業態がわかると言われているスーパーである。午前中にも関わらずかなりの人が買い物をしていて、ああごくごく普通のショッピング、日常化しているなというのが印象であった。つまり、わけあり商品理解が定着しているということである。

何故、大手新聞社が取り扱わないのか、おそらくは景気に悪影響を及ぼしかねないニュースであるという判断からと思うが、東京新聞はエコカー補助金の支払いが遅延し問題となっている実態を報じている。

『経済危機対策として導入された総額3700億円に及ぶエコカー補助金制度。6月に申請の受け付けが始まってから3カ月が過ぎた。これまでの申請件数は全国で64万件に上るが、実際の支払いは約2割の15万件にとどまる。経済産業省は「書類確認を慎重に進めているため」と釈明するが、補助金を購入理由にしたドライバーからは「いつ支払われるのか」との不満が噴出している。』(東京新聞 2009年9月24日 朝刊)

申請から審査〜支払いというオペレーションの不味さによる遅延もあるが、ディーラーへの問い合わせが殺到し、不満の声が多く上がっているという。ここで注目すべきは購入後振り込まれる補助金を当てにして購入している人がいかに多くいるかということである。それは需要の先食いであり、総額3700億円の補助金は280万台分の補助金であり、3ヶ月で64万台のエコカーが売れた訳だが、これから先200万台以上のエコカーが売れるかどうか。もし、売れないようであれば、この大不況の深刻さは、車購入の中心である中流層へとかなり広がっていると見なければならない。

先日までのシルバーウイークはどうであったか。40kmから50kmという長い高速道の渋滞ばかりのニュースのみで、その消費実態を報じるマスメディアはほとんどない。これも心理的悪影響を及ぼしかねないとの考えからであろうが、逆にその深刻さに気づいている生活者も多いであろう。この夏のお盆休暇を取り戻すべく、旅関連企業は低価格メニュー、例えば深夜バス利用による東京ディズニーリゾート観光といったように数多く用意してきたが、その成果については限定的であったようだ。ゴールデンウイークの時は安近短のドーナツ現象であったが、このシルバーウイークでは「近」が更に近場になり、東京では郊外の昭和記念公園といった自然の中で遊ぶ、つまりお金を使わない小さなドーナツ行楽となった。消費氷河期へと、また1歩向かっているように思える。

この1年半ほど所得が増えない時代の生活工夫、消費傾向を書いてきたが、消費から見るパラダイムチェンジは徐々に明確になってきた。消費は所得の関数ではあるが、確実にこの数年間の体験学習によって変わり始めている。その意味は単純に所得減少に比例した消費減少ではないということだ。わけあり消費や代替消費の先にある新しい価値観への転換という意味である。例えば、食では周知のように外食から中食、更に内食へと変わり、調理道具も土鍋人気のように手間をかけるようになった。家庭菜園はいつしかベランダ菜園へと広がり、安心ということもあるが、自ら育てて食べる食へと。勿論安さもあるが、野菜や鮮魚も直売所で購入する生活者も増えてきた。手間をかけることを惜しまない、逆にそれを楽しむことへと向かっている。

5〜6年前、「スイッチ族」という言葉が流行ったことがあった。スイッチひとつで常に快適な空間となり、スイッチひとつでプロ顔負けの料理が出来る。その象徴例がオール電化住宅であろう。最近では一人住まいでペットを飼っていても、携帯でどんな様子かチェックもできるし、場合によっては食事すら自動的にあげることができる。生活に必要なことはスイッチひとつで可能になる、そんなライフスタイルの象徴としてつけられたネーミングである。そうした便利で快適な生活も経済的理由から難しくなっている。しかし、一方では暑い時には避暑のために水やりなど工夫をする。最初は失敗したが、徐々に土鍋の扱い方もうまくなり、我が家自慢のメニューが増え、食卓を囲む楽しさが増えてきた。・・・・・・何か手間をかけることが、ごく普通の生活なんだと気づくようになってきた。そして、手間をかけたらその分美味しくもなり、快適にもなり、物や道具の大切さも実感する、そうしたことに気づき始めたということだ。

大量生産大量消費という時代が長く続いてきた。必要を感じ、物を満たすことに充足感を覚えた時代であったが、おそらく「必要」の在り方が変わってきたということである。企業は「必要」を差別化するために新たな「必要」、付加価値を創造し、これでもかとマーケティング&マーチャンダイジングしてきた。しかし、10年間で100万円所得が減少し、リーマンショックによる今回の大不況によって、多くのことを自己認識し始めた。「必要」とは何であったのかと。ある意味、日本人が古来から持ってきた慎み深さ、謙虚さ、勤勉さ、消費で言えば、質素、倹約、節約、そんな原点、昭和の時代に戻っていくように私には感じる。この10数年間社会現象として現れてきた多くの回帰現象の一つの帰結である。

先日、音楽プロデューサー小室哲哉が著書「罪と音楽」の出版に際し、インタビューに答えていたのが印象的であった。詐欺事件による有罪判決以降、毎日曲を書き、50曲以上になった。今までの曲は「分かりやすい曲」であったが、これからは違う曲を創ると。このインタビューを聞いて、ああやっと原点に戻ってきたなと実は感じた。「分かりやすさ」とは過剰な時代に生まれたキーワードである。「便利さ」と「分かりやすさ」はどこか共通しているところがある。ここ数年間というもの、作曲家作詞家はカラオケで歌われることを前提に曲が創られてきた。結果、どの曲も同じような曲ばかりとなる。当然であるが、時代が求めたメガヒット曲は生まれてこなくなってしまった。

昭和と平成の境目を生きた作詞家故阿久悠さんは、晩年「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念する。阿久悠さんが嘆いた歌が痩せていくとは、心が痩せていくということであった。
便利さと分かりやすさ、共に平成という時代に手に入れたものである。それと引き換えに、阿久悠さんの言葉を借りれば「心が無くなっていった」ということだ。あるいは、作家村上龍氏が「この国(日本)には何でもあるが、希望だけがない」と指摘したことにも相通じることだ。恐らく、村上龍氏は、仮説として「無くした希望の代償行為として過剰消費があったのではないか」という考えが根底にあるようだ。そして、どれだけ消費しても「心の充足」「希望」を得ることは無かった。これがバブル崩壊以降20年間にわたる生活、その先の巣ごもり生活から学んだ結論だ。手間を惜しまない、モノを大切にする、そうした昔からの日本文化に消費も立ち戻ったということである。消費氷河期を前にして、求められているのは希望であり、政治にも、経済にも、社会にも、もっと身近であれば働く場所においても、家族においてもである。便利さと分かりやすさの過剰を削ぎ落とした先に見出したもの、それは希望ということだ。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:02Comments(0)新市場創造

2009年09月23日

再び、価格と消費について

ヒット商品応援団日記No404(毎週2回更新)  2009.9.23.

前回の物語づくり産業、コンテンツ産業を踏まえた文化価値の在り方、特にブランド再生への道について書きたいと思っていた。しかし、少し前に読んだ文芸春秋10月号の「ユニクロ栄えて国滅ぶ」(浜矩子氏寄稿)を読んで、どうにも我慢がならず再び価格と消費について考えを書いてみたい。
浜矩子氏の考え、指摘を一言でいうと、価格競争という消耗戦を続けていくと経済は縮小しデフレという悪循環に落ち入る。結果、企業も、労働者も、消費者も損することはあっても得することはない、という主旨であった。こうした市場競争、安売り競争を「自分さえ良ければ病」と呼んでいる。浜矩子氏は大学の教授という研究者であり、一つの問題提起にすぎないが、私の知る限りビジネス現場に於いては10数年前から議論され、いくつかのチャレンジすら実施されてきている。
結論を言えば、「何をいまさら」ということになるが、市場競争は既に江戸時代からあった。以前、ブログで次のように書いたことがあった。

『既に江戸時代でも価格を根底に置いた商売があった。庶民の人気を博した小料理屋江戸橋際の「なん八屋」では、何を頼んでも一皿八文で皿数で勘定する仕組みだ。回転しない回転寿司のような業態である。また、浮世絵にも描かれている「ニ八蕎麦」だが、その店名由来には二説ある。一つは小麦粉と蕎麦粉の割合を2:8とする説。もう一つは蕎麦の値段が二×八が十六文という説である。前者の方を正解とする人が多いようであるが、「ニ八蕎麦」以外にも「一八蕎麦」や「二六蕎麦」あるいは「三八蕎麦」があったようで、価格をネーミングとした後者の方が正解のようである。』

江戸も戦国の世から100年も経つとライフスタイルにも変化が起きる。「夜鳴きそば」という言葉がまだ残っているように屋台や小料理屋は24時間化し、更には食のエンターテイメント化が進み、大食いコンテストなんかも行われていた。つまり、必要に迫られた食から、楽しむ食への転換である。その良き事例が「初鰹」で”初物を食べると75日寿命がのびる”という言い伝えから、「旬」が身体に良いとの生活風習は江戸時代から始まった。上物の初鰹には現在の金額でいうと20〜30万もの大金を投じたと言われている。こうした初物人気を懸念して幕府は「初物禁止令」を出すほどであった。

市場(=顧客)が変われば、当然メニューも価格も変わる。当時の江戸は一種のグローバル経済の縮小版のようなものであった。鎖国という建前はあっても輸入品もあり、その中には象やらくだ、あるいは植物ではチュウリップやひまわりといったものまで輸入され園芸愛好家を喜ばせていた。また、屋台や損料屋(レンタルショップ)といったビジネスが流行ったのも江戸の人口の半分は武士で単身赴任が多く、庶民も核家族化が進み、独居老人も多かったという背景があった。しかも、地方から参勤交代で江戸に集まった武士達の方言、訛りが強く、会話するにも難しかったようである。つまり、「見知らぬ人」が行き交うある意味インターナショナルな都市、それが江戸であった。

その江戸時代を私たちは封建社会と呼んでいるが、この「封(ほう)」とは領内という意味で、領内での自給自足経済を原則とした社会の仕組みのことである。こうした村落共同体をベースとした経済も度重なる飢饉と貨幣経済によって、天保の時代(1800年代)に大きく転換する。その転換を促したのが「問屋株仲間制度」の撤廃であった。今日でいうところの規制緩和で素人も参加できる自由主義経済の推進のようなものである。しかし、幕府は問屋株仲間からの上納金(冥加金)がとれなくなり、10年後に撤廃するのだが、この10年間によって市場経済は大きく変わっていく。
江戸時代の商人は、いわゆる流通業としての手数料商売であった。しかし、この天保時代から、商人自ら物を作り、それまでの流通経路とは異なる市場形成が行われるようになる。今日のユニクロや渋谷109のブランドが既成流通という「中抜き」を行ったSPAのようなものである。理屈っぽくいうと、商業資本の産業資本への転換である。

実は、この「封」という閉じられた市場を壊した中心が「京都ブランド」であった。この京都ブランドの先駆けとなった商品が「京紅」である。従来の京紅の生産流通ルートは現在の山形県で生産された紅花を日本海の海上交通を経て、軽工業都市京都で加工・製造され、京都ブランドとして全国に販売されていた。ところが1800年頃、近江商人(柳屋五郎三郎)は山形から紅花の種を仕入れ、現在のさいたま市付近で栽培し、最大の消費地である江戸の日本橋で製造販売するようになる。柳屋はイコール京都ブランドであり、江戸の人達は喜んでこの「下り物」を買った。従来の流通時間や経費は半減し、近江商人が大きな財をなしたことは周知の通りである。
勿論、京紅だけでなく、従来上方で製造されていた清酒も同様に全国へと生産地を広げていくこととなる。醤油、絹織物、こうした物も江戸周辺地域で製造されていく。そして、製造地域も東北へと広がっていく。従来海上交通に規制されていた物も陸上交通も使うようになる。こうして「下り物」としてのブランドが広がっていく。ある意味、産業の構造が大きく変わっていく。

今、私たちはグローバル経済の問題と言うが、既に江戸時代から消費が市場の在り方、生産、流通、価格を決めてきた。江戸時代、人口40万都市が世界一の120万まで膨れ上がり、過剰消費と思われるほど市場が広がったことによる問題点は、今日のグローバル経済に酷似している。江戸時代の過剰消費時代を元禄時代と呼んでいるが、今日で言うところの「バブル期」であった。昨年金融バブルがはじけ、崩壊した経験をしてきた、いや今なお崩壊から立ち直れてはいない。江戸も200年を過ぎると既成は腐敗、堕落し、解決策を見出せない幕府は幕を閉じることへと向かう。今また、金融崩壊を建て直すための過剰な資金がエネルギー資源や食料資源に向かい、先物取り引き相場がじわじわと上がり始めている。

ライブドア事件、村上ファンド事件が起きた時、学生の頃読んだマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を再び読んだ。ウェーバーは資本主義の原点にピューリタンの自制、節約、といった禁欲的精神を見出すのだが、日本にも同じような精神、近江商人の心得「三方良し」がある。売り手よし、買い手よし、世間良し、であるが、今その世間が地球規模になったということだ。競争というと、何か新自由主義的理解になってしまうが、決してそうではない。競争の根底には競争相手からも、顧客からも学ぶ自己研鑽があり、倫理を失ったマネーゲームなどではない。浜矩子氏の言う、「自分さえ良ければ病」とは、実は真反対のことで一部のカジノ資本主義を生きてきた企業や人達のことである。ただ、グローバル経済には米国流金融資本主義に代わる新しい秩序、ルールが求められていることだけは事実であろう。新しい秩序づくりには、寺島実郎氏による「国際連帯税構想」(http://www.nissoken.jp/rijicyou/hatugen/index.html)や「公益資本主義」を掲げる原丈人氏(「新しい資本主義」PHP新書)も出てきている。

生活現場においても、生産者と顧客をつなぎ直し、「適正価格」を模索しているケースが数多く見られるようになった。以前取り上げた京都の上田米穀店がそうであるし、同じ京都府のスーパーNISHIYAMAなんかも米づくり生産者を支援し、そのことを顧客にも伝え、いわゆる「適正価格」で有機米を提供しようと努力している。理想を掲げ、現実課題としては互いに壁を低くし、越えられるところから進めているのだと思う。実際にインタビューした訳ではないので推測になるが、生産・流通・顧客が互いの「得」を減らし、バランスのとれたところで実行されているのだと思う。浜矩子氏の「自分さえよければ病」を100歩譲って病気を治すとすれば、互いの得を減らす文化、日本が古来から持っている「互いに育て合う文化」を再構築するということだ。金融資本主義が「売り抜ける資本主義」とするならば、「育てる資本主義」と言える。

更にもう1つは寺島実郎氏や原丈人氏が指摘しているように、世界を駆け巡るお金への規制であろう。人、物、金、の内、お金は自由の名の下に利益を求めてどこへでも行くが、一番移動できないのが「人」である。人件費の安い国に製造現場が移動せざるを得ないのがグローバル経済である。それでは日本は空洞化してしまうのではないかと指摘されるが、当分の間はその通りであると私も思う。多くの人が指摘しているように、これから何で食べていくのか、産業構造の転換が求められている。ユニクロを例に挙げるとすれば、製造現場は中国やベトナムであるが、どんなに類似商品が出てこようが唯一優位性を保ち得る世界として素材開発力を置いている。H&Mがデザイン開発力を置いているのと対照的である。こうした開発力は、シャープを始め日本の製造メーカーの多くは国内に置いている。それを「マザー工場」と呼んでいるが、要は研究開発の根幹を国内に置くということであろう。製造業だけでなく農業においても高い開発力、品種開発などのノウハウを持っている国である。大企業だけでなく、日本の大半を占める中小企業がグローバル市場を顧客として見ていく、つまり内需も外需もないビジネスを行うことこそが産業構造の転換であると考える。
日本は島国である。異端の歴史学者網野善彦さんがいみじくも明らかにしてくれたように、室町時代に丸木舟に乗り太平洋を越え南米ペルーに渡った日本人がいた。海の道を通じ世界へとつながっている歴史・経験を持っている国である。しかも、高い倫理性を持った国として。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:02Comments(0)新市場創造

2009年09月20日

もう一つのビジネス大国ニッポン

ヒット商品応援団日記No403(毎週2回更新)  2009.9.20.

鳩山新政権が矢継ぎ早にマニフェスト実行に取りかかっている。共同通信を始めとした世論調査では各社70%を超える高い支持率である。政権交代という変化を望んでの選挙ではあったが、多くの生活者にとって、新政権が行う変化がどんなものであるか、まだまだ分からない。こうした現実に応えるためのスピードあるアクションであろう。しかし、もう一つの理由は、恐らく今年の11月末頃には雇用を含めた不況の深刻さが更に拡大することが分かってのことだ。昨年秋、H&Mが銀座に出店した時、銀座の風景が変わったと私はブログにも書いた。それと同じような光景が福岡にも及んでいると、9月18日の日経MJが1面で報じている。「低価格店主役 街の顔がらり」という見出しである。基準地価が2年連続して下落したことを受けての商業の変貌である。

変化とは、既成、既得権益者にとって生き残る術を探ることであり、一方その変化をチャンスに変えようとする人々との戦いでもある。必ず、混乱、混迷、時には予想外の痛みも伴う。群馬八ツ場ダム工事中止ばかりでなく、政治が変わるとはビジネスの在り方も、生活の在り方も変わるということである。今回の政権交代に一番注目していたのは海外メディアであった。概ねどんな変化を見せるか注目したいとする好意的なものであったが、逆に日本国内の方が変化を遠巻きにして見ているような感がしてならない。そうした変化への視点の違い、視座の違いについて書いてみたい。

この政治変化に対する外国と日本の受け止め方の違いは日本文化の受け止め方の違いと良く似ている。数年前から、日本のコミックやアニメといったサブカルチャーに対し、欧米では「ジャパン・クール」というキーワードで広く知られていた。そのきっかけとなったのが、周知の宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」がアカデミー賞最優秀長編アニメ賞受賞に始まる。1995年以降、こうした注目を追いかけるように「機動戦士ガンダム」や「どらえもん」といったアニメが世界へと浸透していった。勿論、そうしたアニメと併行して「ポケモン」などのコンピュータゲームも世界へと広がっていくのだが。一言でいえば、日本人が知らないところで、世界中から高い評価を受けていたということだ。

2000年代に入るとイタリアやフランスでは禅ブームが起きたり、確か3年ほど前だと思うが北米全体のジャパニーズレストラン登録は1万店近くにまで至っている。勿論、そのオーナーの多くは米国人や中国人であるが、寿司はsushi barとなって世界都市へと広がったことは周知の通りである。世界の人達は、sonyやHondaと同じようにジャパンブランドとしてアニメやコミック、あるいは禅や寿司といった日本文化の理解をしているということだ。

こうしたいわゆるコンテンツ産業が周辺産業のキラーコンテンツとなっていることに、日本人の理解はごくごく限られた人達だけとなっている。秋葉原を歩けば分かるが、家電量販店とアニメソフトといった集積の周辺には、例えばメイド喫茶といったアンダーグランドファッション、コスプレのようなニュースタイルが生まれ、そうしたスタイルは既に韓国や中国の若者へと浸透している。1990年代半ば、エヴァンゲリオンを最後に真性オタク(おたく)はいなくなるが、産み出したサブカルチャーはマスプロダクト化され、表舞台へと出てくる。その先にグローバル化という市場があったということだ。

実はこうしたコンテンツ産業の原型は江戸時代にある。今日のライフスタイルの原型が江戸時代にあることは私の持論でもあるが、コンテンツ産業としても立派に成立をしていた。浮世絵、歌舞伎、人形浄瑠璃、落語、といったエンターテイメント(娯楽)ビジネスであるが、特に浮世絵は見事なくらいにプロジェクト化されており、今日私たちが耳にする写楽や北斎はプロジェクトチーム名のことである。「案じ役」というプロデューサーのもとに、絵師(画工)、「彫り師」、「刷り師」が集まりチームとして活動していた。こうした浮世絵を支えていたのが、「連」という好き者、職業や年齢、性別を超えて「好き」という一点で集まった集団によってであった。今日でいうところの「オタク」である。この連を束ねた総合プロデューサーの一人が蔦屋重三郎と言われている。今日で言うと、ご本人も浮世絵に影響を受けたと言っている村上隆氏によるアーチスト集団「カイカイキキ」といったところである。

日本は製造業、モノづくりの国と言われてきた。しかし、そうしたモノづくり評価と共に、こうしたサブカルチャーが世界中に輸出されている。ある意味、「モノづくり」と対比した言い方をするならば、「物語づくり」と言える。今、新政権発足と共に、日本の進むべき道について成長戦略か成熟戦略かが議論されている。成長戦略のシンボル的存在をユニクロとするならば、成熟戦略としてはサブカルチャーにおける物語づくり産業、コンテンツ産業だと私は思っている。考えがまとまったら書こうと思っているが、ブランドという文化販売の再生に、この「物語づくり」戦略が鍵になることだけは間違いない。(続く)  


Posted by ヒット商品応援団 at 14:19Comments(0)新市場創造

2009年09月17日

終わりの始まり              

ヒット商品応援団日記No402(毎週2回更新)  2009.9.17.

過去、私はパラダイムチェンジというキーワードをかなり使ってきたが、ここ数ヶ月間実感をもった使い方に変わり始めた。それは単に消費における生活価値観変化だけでなく、政治においても、社会においても大きな価値観変化の波が押し寄せているからである。今回の新政権誕生を、明治維新以来の変化であると単純に言う気はないが、地殻変動のようなことがどこかで起きていることは間違いない。この変化が明治維新と比較するに値するものであるか否かも分からない。しかし、変化の大小があったとしても、変わっていくことだけは間違いない。この4年間消費の変化を追い続けてきたが、もっと単純に言えば、政治においても変わって欲しい、変わろうとする人が圧倒的多いということだ。

こうした変化の内容について、既成と革新、新と旧、あるいは若い世代と老成世代、といった具合に対立・対比させることばかり行ってきた。特に、マスメディアはそれが一番分かりやすいとばかりに、異なる価値観に対し、Yes or No、正しいか間違いか、あるいは好きか嫌いか、といった二者択一的論議しかなされてこなかった。つまり、変化という「現実」そのものを見ようとはしない不毛な論議から、生活者は一歩離れたところで見ている。例えば今回の新政権誕生にしろ、新聞各社の調査結果を見ても分かるように、今回は民主党中心で政権運営を任せるが、自民党にも再生して欲しいとする人が70%前後いる。ちなみに、小泉政権以降、「国民に人気がある」という理由で与党は総理を選んできたが、生活者はそんな「好き嫌い」といった人気による政権運営、一種の衆愚政治に対しNoという答えを出した。もし、自民党再生があるとすれば、人気などではなく、「現実」を真摯に見つめ直すことから始めるということだ。そして、新政権の内閣人事を見ても、「あっと驚かせる」ことはまるでなく、小泉流劇場型政治のまるで正反対の在り方であった。

私にとって「現実」とは、この点についてはYesそれ以外はNo、あるいは4年間はYes だがその結果次第ではNo、そして時間経過と共に変化もするといった具合である。文化人類学を持ち出すまでもなく、集団関係については「敵でもあり、味方でもある」ということを前提としているのが人類の歴史である。こうした視座で、他者、他のグループ、他国を見なしてきたのが人類の歴史であった。特に、日本の場合は四方を海に囲まれていることから、実は日本こそ「敵でもあり、味方でもある」関係を知恵を持って対処してきた歴史がある。少し短絡的な言い方になるが、海の向こうにある米国とも、中国とも、朝鮮半島とも、更にロシアとも戦争をしてきた歴史がある。勿論、その是非については言うまでもないが、結果として憲法9条をもつ平和国家となった。

朝鮮半島を中心に南からも、北からも多くの人を通じた交流によって日本が形づくられてきた。異端の歴史研究者である網野善彦さんが指摘してくれたように、既に室町時代に日本人は丸木舟に乗って太平洋を越え南米ペルーまで出かけていたのだ。そうした歴史の教科書を持ち出すまでもなく、日本は文明・文化の交差点であった。
例えば、沖縄に今なお残るニライカナイ伝説のように海の向こうには黄泉の国があると。海を通じて他国、他民族あるいは神と交流してきたと言うことである。いみじくも沖縄には文明、文化の交差点を表した言葉が残っている。それは「チャンプルー」、様々のものが混ざり合った、一種の雑種文化の代名詞のようなものだ。地政学的に言っても、四方を海に囲まれているとは、まさにインターナショナルな交差点国家といってもかまわない、コスモポリタンな国、それが日本である。

戦後、古くは明治維新以降、近代化・都市化の進行によってそれまで持っていた共同体の「共通理解」を喪失してきた。戦前であれば村落共同体であり、戦後は家族や会社が共同体の代わりを果たして来た。共同体崩壊の歴史的なことはここでは書かないが、経済的豊かさと引き換えに個人化社会はいつしか私人化し、家族バラバラな社会へと変貌してきた。会社はと言えば、バブル崩壊以降「会社は誰のものか」論議のように「勝ち組vs負け組」のように荒んだ光景が多くなった。それぞれの共同体にあった共通理解が崩壊してしまったということだ。個人の欲望を認めながらも、「公」としてのモラルをどう創っていくべきか、ゴミ屋敷問題のような小さな街単位から、恐らくテーマとなるであろうG20での金融の在り方のように、「共通理解」の道が模索され始めた。

ここ数年、私がブログに書いてきたように、失ってしまったものの取り戻しが消費においても始まっていると。それが家族の再生、絆の復活であり、歴史文化では「洋から和」への転換であり、自然・健康でも最近では農家レストランやネイチャースポーツといった新たな芽も出てきた。決して近代化・都市化を否定しているのではなく、多くの生活者は二者択一的発想から脱却し始めているということだ。そうした変化の様を私は「振り子現象」と呼んできた。これが「新しい現実」である。

ビジネス現場に置き換えてみるともっと分かりやすい。例えば、どこまで進行しているのか分からないが、サントリーとキリンが合体し、世界市場に臨むというのも二者択一的発想からは生まれない。恐らく、国内市場では従来通り互いに競争し合う関係であるが、世界市場では互いに市場開拓のための良きパートナーとなる関係を模索していると思う。こうした大企業ばかりでなく、数年前に地方の商店街活性のためのアイディアとして「ワンコイン商店街」を取り上げたことがあった。ワンコインをテーマに、100円、500円単位の売り出しを共同で行うイベントである。日常では競争相手であるが、この日この時だけは良きパートナーとして集客をはかろうとするのと同じである。こうした「共通理解」のことを、私たちは企業間であればコラボレーションとかコンソーシアムと呼んできた。

今回の新政権の政策発想が旧来の政策と全く異なる点でまさにパラダイムチェンジというキーワードにふさわしい。特に「こども手当」に象徴的に現れている。マスメディアはその支給額や財源ばかりを取り上げているが、その発想の斬新さはダイレクトに「家庭」へ支給することにある。ビジネス視点で言うと、旧来の流通の「中抜き」に該当する発想である。間に介在する会社や団体、組織を通さずに直接支援するもので、介在する組織の既得権益を壊し、その効果をより高める発想である。つまり、即座に消費もしくは貯蓄という結果が得られる内需の特効薬であろう。

さてどんな新しい消費が生まれるか予測することは難しいが、少なくともこの10年で100万円所得が減少したことを踏まえ、わけあり消費や代替消費といった体験学習によるものが土台となる。多くの専門家が指摘しているように「二番底」が訪れようとしている。私は少し前に「消費においては、巣ごもり生活から、氷河期生活へと向かうかもしれない。」と書いた。雇用情況は更に悪化し、更には今年のボーナスは減額され、減税やエコポイントによる車や家電の需要の先食いも長続きはしない。この夏天候不順による売上減少が大きいとされてきた「旅行」は、この秋の連休で取り戻そうと懸命である。しかし、わけあり旅行や代替旅行はあっても、以前のような旅行の在り方には戻らない。もし、戻るとすれば、こども手当など新政権の政策が財源を含め確実となる来春以降であろう。この半年間、混乱のなかの氷河期となる。戦後60数年続いてきた生活価値観から、未知なる価値観へと変化していく。終わりの始まり を迎える。私のブログも、「何が」始まるか、新しい芽を見出すことが主要なテーマとなった。(続く)  


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2009年09月13日

激変の中へ

ヒット商品応援団日記No401(毎週2回更新)  2009.9.13.

先日、鳥取に住む友人と話す機会があった。当然の如く話題は新政権のこれからとなったが、疲弊した地方にとって15兆円に及ぶ補正予算の執行は命綱のようなものだと友人は言う。たとえそれがひも付き補助金であっても、いわゆる景気の「二番底」を畏れ、今は必要であると。いや「二番底」という表現より更にひどい情況であると言った方が正確であろう。鳥取西部の境港に水木ロードを中心とした妖怪タウンがある。周知の漫画家水木しげるさんの生まれた地であるが、ゲゲゲの鬼太郎を始めとしたモチーフで町が飾られている。1993年オープン以降観光客は増え、一昨年には年間観光客数は147万人にも及び鳥取砂丘を超えた観光スポットに育ったところだ。衰退していた商店街も次第に活性化され妖怪土産等も広く販売するようになった良きモデルケースである。しかし、今年に入り、新型インフルエンザの影響もあって約3割ほど観光客が減っていると言う。更に、同じ西部にある大山リゾートはこの夏閑散とした状態であったとも。

私は、それではいつ変わるのですか、という言葉を口に出せずに呑み込んでしまった。勿論、正解などないことを分かっての問いであったが、同じような困難さは地方の至る所で起きていると思う。新政府は変化を提示し求めるが、地方、特に地方議会の多くは従来の自民党が多数派である。「変化」を間にして、国と地方とのねじれは当分の間解消することはない。当然のことであるが、混乱・混迷ばかりでなく、新政権による良き政策もスローダウンするであろう。既に、新政権発足前から、八ツ場ダム建設中止を始め、補正予算の執行が中止されるのであれば法的手段をとる可能性があると発言した宮崎県東国原知事まで出てきた。鳥取をかなり知っている私ですら、友人との会話で、意識の持ち方、認識の差は最後まで埋まることはなかった。恐らく、「変化」への臨み方は都市と地方との間で、利害関係の有無、変化の及ぶ直接・間接の差となって現れてくる。

新政権が「何を」どのように「変えていく」のか、次第に明らかになってきた。環境問題についても、2020年には1990年比CO225%削減も、その裏側には省エネ製品や技術の輸出、あるいは排出権取引の構想といった次なる産業への取り組みが見えてきた。その環境政策と矛盾するのではないかと短絡的に考えてしまいがちな高速道無料化についても、地方から段階的に実施するという現実的なものだ。全国実施される頃には日本ばかりか世界の自動車産業はHV車と電気自動車の時代になっているであろう。また、都市部で一番困っているのが保育所不足で働く主婦が最初に解決して欲しい問題である。恐らく、保育所の認可基準を家賃の高い都市部にも造れるように基準を改定するであろう。都市においては道路を造る前に、保育所を造るといった公共工事に予算化されるであろう。また、補正予算15兆円のゆくえについても、一律的にストップさせるのではなく、明確な基準を明らかにした上での実行ということだ。つまり、変化の内容が次第に明らかになってきた。

前回、政治に必要なのは「哲学」であると私は書いた。革新はいつしか当たり前の日常となり、明日も昨日と同じようになるであろうと、自分に言い聞かせる。その繰り返しによって「今」がある。それを危機認識の無さ、情況認識の手前勝手さと言ってしまえば、それで終わる話であるが、地方の多くは再び夕張のような悲惨な状態へと向かうかもしれない。ある人はそうした首長を選んだ住民自身の問題であると言うかもしれない。あるいは今回のように、政権が交代するのだから仕方がないと言うかもしれない。
ここ数年、私が地方で経験したことは、まず第一に相互に情報が届いていないという実感であった。都市、地方互いにどちらが悪いと言うことではない。私に言わせれば、同じ土俵に立っていない、あるいはどちらも自分勝手な無関心であったということである。

例えば、地方分権には多くの人は賛成であろう。財源も地方に委譲することも賛成であろう。しかし、何に使う財源なのか、何一つ明確に伝わってはいない。道路を造ろうが、橋を架けようが、地域住民の賛同のもとで行われれば良い。何のための道路なのか橋なのか、明確にすれば良いということだ。必要なことは、その道路や橋の「先」にあることである。造れば何十年間もの間使う訳であり、どんな町を目指すのか、どんな県を目指すのか、その構想次第である。その構想が相互に伝わらない、ということである。そして、その構想の根っこにあるのが、哲学である。
米国の道州制はそれぞれの州誕生の「いわれ」という哲学を背景にしたもので、単なる行政単位としての道州制ではない。哲学の違いが州法の違いとなって現れている。日本の地方分権も哲学こそが求められており、その哲学の基づく地域構想力ということだ。

このことは地方企業が都市市場を開拓していくことにおいても同様である。また、逆も同様である。哲学などと言うと、何か構えた話になってしまうが、それほど難しく考えることではない。前回、政権交代に触れて「小売りであれ、物づくりであれ、生き方、生きざまが見えることに支持が集まる。つまり、生活哲学の時代に向かっている」と書いた。生活哲学をコンセプトと言ってしまうと、やはりどこか軽くなってしまう。かといって、構えた重いものでもない。以前、日本人の生活思想に触れて次のように書いたことがあった。

『日本には「用の美」という考え、いや美学思想がある。勿体ない精神の根底にある美学、使い続ける美学、生活美学。少し理屈っぽくなるが、使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた顧客の使用価値集積の美学と言った方が分かりやすい。そこには「あっ」と驚くような美はないが、何故かしっくりする、手に馴染む、変わらないけれどそれがうれしい、そんな美への共感である。食で言えば、変わらぬ味、ふっと和む味、何度食べても飽きない味、そんな表現となる。そうした美への共感を元に、実は「信用」が生まれてくる。私たちは、それを「暖簾」と呼んできた。暖簾をブランドに置き換えても同じである。それは大企業であれ、商店街のお惣菜屋でも同じである。大きな価値潮流に置き換えて言うと、トレンドライフから、ロングライフへと価値の転換が起き始めているということだ。』

大きな生活者潮流はこのようなロングライフ価値へと向かうであろうが、そこに至までには「変えていくこと」と「変わらぬこと」の衝突が消費においても必ず起きる。いや、既に起きている。この変化への振り子の先の一つが「変えていくこと」としての低価格商品、わけあり消費という極である。もう一つの消費の極はと言うと、「変わらぬこと」としてのロングライフ商品、初回は少々高いが長期間の使用を考えれば結果安上がりとなる新合理的な消費である。しかし、現在はと言うと、まだまだロングライフ価値へのウエイトは低い。
榊原英資氏を始め多くの経済専門家は今年の冬場に「二番底」という更に景気が悪化すると指摘している。つまり、雇用は更に悪化し、所得も更に減るということである。12月のボーナスは惨憺たる情況になるということだ。消費においては、巣ごもり生活から、氷河期生活へと向かうかもしれない。しかし、ビジネス的には「変化」によって無くしてしまうこともあるが、また新たに生まれることもある。そうした激変の時に入った。(続く)  


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2009年09月11日

再び、出版のお知らせです

ヒット商品応援団日記No400(毎週2回更新)  2009.9.11.

目まぐるしく価値観が交錯し、しかも洪水の如く押し寄せる情報の時代にあって、どうビジネスを生きるか極めて難しい時代だ。その指針となるのが、やはり経営理念であろう。松下からパナソニックへと社名は変えても、創業者松下幸之助の志しを今に生かすべく原点に戻る試みがなされていると聞く。事業の成長と共に、人は増え、組織も運営も複雑化する。「創業の志」とはなんであったか、年数を重ねていくことによってやむなく風化していかざるを得ない時代だ。
お掃除用品のレンタル、ミスタードーナツで知られるダスキンも同じような課題を抱えている。しかも、フランチャイズビジネスであり、具体的ビジネスを推進している加盟店も次の世代へとバトンタッチする時を迎えている。そうした課題を少しでも解決しようとして生まれたのが「祈りの経営通信」であった。
この「祈りの経営通信」は毎週1回発行され、創業期にダスキン創業者鈴木清一の教えを身体と心で感じ取った人間が、その志を伝えるいわば体験記として書かれたものである。どのようにしてダスキンが誕生したのか、革新的な流通組織愛の店へのチャレンジ。また人と人との縁から生まれたミスタードーナツ。創業期とは、理屈ではなくリアリティ、言葉ではなく行動、経済だけではなく生き方として鈴木清一の志は存在していた。そのような体験記として、ダスキンOB8人によって書かれたものである。また、その時々生まれた社会的な関心事や話題を「時代の風」として私が書いてきた。ライブドア事件を始めとした経済から、山形新幹線のカリスマ販売員と言われた齋藤泉さんまで。あるいは少年犯罪の裏側に潜むネット社会、大人の知らないところで読まれている大ベストセラー「ライトノベルズ」のように、多種多様な社会の舞台に上がってきた変化とその意味を毎号コラム記事として書いてきた。
この「祈りの経営通信」は3年間発行されたが、配信先有志の方々の要望から、この度再編集し、書籍という形で出版することとなりました。

○書籍名:「人づくり経営の教え/創業者鈴木清一と教えを受けた者たち」
○発行者:(株)エフシーサポート
○価格:上下巻セット3000円(消費税込み)/送料500円
           四六版、上巻415ページ、下巻419ページ
○申し込み方法:
  次のメールアドレス宛、お名前、ご住所、電話番号及びメールアドレスを明記してお申し込みください。折り返し、書籍と代金振り込み用紙をお送りいたします。
メールの宛先:fcs161@carol.ocn.ne.jp

創業の志しはどのように伝えられてきたか、少し異なる視点であるが、お釈迦様の言葉に「自明灯」というキーワードがある。お釈迦さまが死に臨んだ際、 弟子たちは、誰もたいへん嘆き悲しみ、「お釈迦様が亡くなられたら、私たちはどうやって、 いったい何にすがって生きて行けばいいのでしょう!..」と問われたとき、 お釈迦さまは、「自明灯」という言葉を伝えたと言われている。意識して常に自分の心に明かりを灯すように心がけなさい。自ら灯をつけて生きて行きなさい、という意味だ。他者の灯りに頼ろうとせず、 自ら進んで灯していく、という気持ちが大切であること。そんな感動の灯が、次から次へと点火され伝わって行くことを「灯々無尽」と言うそうである。
創業の志しもまた、同じように「自明灯 」であると思う。この:「人づくり経営の教え」もそうした小さな灯として生まれた。

また、2年前になるが、私が書いた「人力経営」も少しの在庫があるとのこと。この本も人が財産、人の成長が会社の成長であると考え、ユニーク、常識はずれ、前例なし、そこまでやるのか、変わった企業、こうした感想が寄せられた5社の経営リーダーを取材して書いた本である。
祈りの経営理念という心を上場させ、株主にも共感をもって迎えて欲しいと言うダスキン伊東会長(当時は社長)。創業者の志を引き継ぐとは一人ひとりが革新を引き継ぐことと語る和菓子の叶匠寿庵芝田社長。あぶないからやめてくださいとの社員の声に同意しつつも、琵琶湖の湖上通勤をするボート製造の桑野造船古川社長。創業者である父の志を継ぎ、現実を理想に近づける「夢」を語り合える企業にしたいと話すレストラン業の野の葡萄小役丸社長。右肩下がりのファッション業界にあって、今なお成長させカリスマを輩出し続けるSHIBUYA109のエゴイスト鬼頭社長。
この「人力経営」の購入は紀伊国屋書店を始めとした書店、あるいはAMAZONにてお取り寄せください。(続く)

「人力経営/ヒットの裏側、人づくり経営を聞く」
星雲社刊、新書判、153P
定価:735円(消費税込み)  


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2009年09月08日

選挙結果をマーケティングとして読み解く 

ヒット商品応援団日記No399(毎週2回更新)  2009.9.8.

衆院選挙の結果分析が盛んである。何故自公政権が破れたのか、何故民主党が大勝したのか、新聞各紙が分析している。政権交代を常に可能とする2大政党政治を主眼としたドント方式という方法によって、今回も郵政選挙の時も起こりえることである。こうした選挙の在り方の是非については言及しないが、4年前の郵政選挙と今回の政権交代選挙との違い、特にマーケティング手法の違いは明確である。そして、この違いは今日の消費マーケティングの在り方の違いとして明らかに映し出されている。

そうした違いをコミュニケーション視点を中心に整理すると次のようになる。

■郵政選挙
・劇場型コミュニケーション戦略/マスコミ、特にTVメディアの話題となるような刺客を送り込んでのサプライズ戦略。
話題を増幅させるための戦術としてホリエモンのような時の人を起用。あるいは郵政反対派には野田聖子vs佐藤ゆかりの  ような対立軸を創り、民主党との選挙の争点を外し、政治ショー化させることによって、マスコミ特にTVメディアにおいて圧倒的なシェアーを獲得する。
・戦略の背景/実際には特定の企業や市場に対してだけであるが、いざなぎ景気を超えたとした景気浮揚の中から生まれた。勝ち組・負け組、ヒルズ族、富裕層、といったキーワードに代表される空気感。

□政権交代選挙
・日常型コミュニケーション戦略/刺客を送り込んでの戦略は同じであるが、辻立ち、街宣、宅訪といった日常型対話コミュニケーション戦略。
一対一、小さな集会での対話による積み重ね戦術。対立軸は明快に政権交代、その政権交代によって得られる生活をマニフェストとして具体化。政治を劇場化・ショー化させるのではなく、生活化させる。マスコミ特にTVメディアにおいては取り上げられることはないが、茫洋としたイメージではなく、個人の中に具体的な期待値を植える。
・戦略の背景/過去10年で100万円所得が減少した生活実感を背景とした。医療崩壊、地方の崩壊と格差、郵政民営化におけるかんぽ問題、こうした諸問題を更に加速させたのがリーマンショックによる日本経済の瓦解。米国オバマ誕生におけるチェンジというキーワードが政権交代を後押し。

よく風が吹いた、暴風雨であったと言うが、そうではない。政治だけでなく、多くの偽装事件を体験し、学習してきた4年間であった。そのリアルな体験学習を踏まえた選挙結果である。既に、3年前のブログに「サプライズの終焉」というタイトルでコミュニケーションが変わってきていると指摘をしたことがあった。それは単なるコミュニケーションの手法ではなく、その裏に潜む価値観変化についてであった。自公政権は、東国原シアターを含め、決定的な過ちを犯したということだ。当時、次のように私は書いていた。

『小泉さんによる劇場型サプライズコミュニケーション以降、多くの人は「情報」の学習をしてきている。その結果であろうか、今回の「判定結果」事件(「亀田興毅×ファン・ランダエタ」戦に対する判定)も世代を超えて、「どこかおかしい」と潮目が変わってきているように思う。短期的成果を求めた強いインパクト、効率の良いレスポンス、コミュニケーション投資に見合うサプライズ価値、こうしたコミュニケーション世界も、長い眼で見る持続型継続型の日常的対話コミュニケーション、奥行き深みのある実感・体感といった納得価値へと変わっていく。「猫だまし」のような、あっと驚かせて瞬間的に大きな売り上げを上げていくビジネスから、小さくても「いいね」と言ってくれる顧客への継続する誠実なビジネスへの転換である。』

こうした変化の芽はお笑いや歌の世界にも現れていた。昨年の「M-1グランプリ」で準優勝したオードリー、あるいは一昨年のサンドウィッチマンの笑いは何かほっとさせるものである。しゃべくり漫才という漫才の本道をゆく、大きな笑い、奇をてらった笑いではなく、マギー司郎の笑いのようにくすっと笑える本格漫才であった。それまでのあっと驚かせるパフォーマンスを売り物としてきた小島よしお、少し前にはレイザーラモンHG、波田陽区がバラエティ番組から消えたことからも分かるように、サプライズ手法の一発芸は既に終焉している。更には一時期TVやイベントに引っ張りだこであったセレブの代名詞である叶姉妹はどこへ行ったのか、考えるまでもない。時代の空気感とはこういうことだ。

今回の衆院選挙によって政権交代が現実のものとなったが、米国オバマ大統領誕生のような熱狂も高揚感もない。騒いでいるのは内外マスコミと一部市民革命がなされたとするグループもいるが、多くの生活者は何か醒めた目でみているような気がする。米国人と日本人との気質の違いであると言ってしまえば話は終わってしまうが、かといって2大政党制を静観していると理解しても何か違うような気がしてならない。恐らく、民主党に1票入れた背景には、多種多様、多元的な価値観がそうさせ、結果バランスの良い議席数になったというのが正解であろう。そして、新政権への期待という言い方をするならば、私が3年前に書いた「奥行き深みのある実感・体感といった納得価値」を「生活が第一」とする政策のなかに実現することであろう。

つまり、サプライズという言葉が死語になったように、生活者は劇的な「変化」とは未だ遠くのところにいると言った方が正解である。消費という視点に立つと、以前書いたように「こども手当」を含めた子育て支援は恐らく究極の内需刺激策であろう。「支援」という言葉を使ってはいるが、ある意味公共工事にお金を使う代わりに、国が直接家庭にお金を使うことである。いわば子育て主婦が準公務員の如き存在となり、国が、社会が子を育てるということだ。恐らく、この政策が実施される来年春以降、「変化」を実感・体感することとなる。

しかし、多くの専門家が指摘しているように、需給ギャップはこれから先簡単には埋まらない。しかも、当分の間はデフレが続き、GDPの約60%近くを占める消費を活性させるしかない、そう考えたのであろう。そのための子育て支援という公共投資となった。つまり、新政権は新しい産業が生まれ育つ当分の間仕事が増えることはないという厳しい現実に向き合う。雇用情況は良くならないどころか、更に悪くなると考えており、「家庭」への究極の投資が内需拡大への道筋になると。

こうした「家庭」への公共投資がどんな消費へと向かうか分からないが、従来の消費の在り方とは異なる芽が出ている。今、エコカーが売れ、今年のヒット商品番付に入ると思うが、減税や補助金による需要の先食いであり、来年度は極端に売れなくなる。それどころか、都市部で急成長しているのがカーシェアリングである。物所有の価値観から、使用への価値観への転換であるが、間違いなく消費スタイルは変わっていく。新政権が打ち出した高速道無料化が不人気なのも、低価格や無料といった「価格」の先にあるものを生活者は見出そうとしているからに他ならない。その先にあるものとは何か、それは「哲学」である。政権交代という変化が起こっても、哲学のないところに、熱狂も高揚感もない。既に、生活者はその哲学を持ち始めている。大仰に言うと哲学となるが、生きざま、生き方のことである。今は、遅れた政治がどれだけ哲学をもって国家運営できるか、注視しているということであろう。
勿論、消費においても、小売りであれ、物づくりであれ、生き方、生きざまが見えることに支持が集まる。つまり、生活哲学の時代に向かっている、ということだ。(続く)  


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2009年09月05日

デフレの波

ヒット商品応援団日記No398(毎週2回更新)  2009.9.5.

新政権誕生によって何が変わるか、先行指標である株式市場などに注目点が出てきている。しかし、現実の消費に変化が表れるのは子育て支援のような新たな政策が実施されるのは来年の春以降である。9/2の日経MJも「子ども手当」と共に、巣ごもり状態の主婦に対し、財布が緩む「ママ友消費」に着眼した記事を掲載している。しかし、そうしたトップ記事の裏の2面では消費価値観の変化を調査を元にコメントしている。その結論であるが、好みや個性といった価値は下がり、とにかく値段の安いものへの比重が高まっている、という至極当たり前の結果だ。一つだけ注目すべきは、私が何年も前から指摘している「誰を顧客とするのか」という点である。調査ではいくつかのライフスタイルグループに分類し、その価値観を明らかにしている。

そうしたライフスタイルセグメントも必要ではあるが、もっと単純化した戦略を採っているのが幅広い顧客層を取り込んでいるファストフードやファストファッションである。調査などやらなくても、実際に「個性×価格」の関係を具体的メニューとして行っている企業があり、それらは良きケーススタディとして学習すればよい。
幅広い顧客層を取り込むには、明確な戦略が必要であるが、例えばユニクロであれば中心にユニクロブランドを置き、低価格ゾーンには980円ジーンズのguといった具合である。恐らく、利益を出し得る量産単位を見据えながら個性×価格=商品(ブランド)をセグメントしながら導入していくと思う。ファストフードのマクドナルドにおいても、個性×価格=商品という同じ構造の戦略を採っている。中心にはビッグマック等を置き、低価格ゾーンには100円バーガーを置き、若者向きにはガツン系の「メガシリーズ」、あるいは今実施している「月見バーガー」(270円〜290円)のような季節・限定商品で変化を取り入れるといった具合である。

しかし、こうした「個性×価格」という構造はどちらにウエイトがかかるかは別として、商品の基本的な構造としてある。ここ2年ほどの巣ごもり生活における「個性×価格」の構造は次のように表すことができる。

   「個性」 < 「価格」
      ↓
   ・代替消費
   ・○○したつもり消費
   ・アウトレット消費

個性を「こだわり」というキーワードに置き換えても同じである。更に言うと、他に変え難い、固有性、文化性、こうした独自価値は総体的に低くなっている。その象徴がハイブランドである。調査結果にも出ているが、こだわり、高級感、といったキーワードのグループは縮小している。

ちょうど次の号である9/4の日経MJに割安なPB(プライベートブランド)に対するNB(ナショナルブランド)の逆襲が始まったとする記事が載っている。その逆襲の代表例として、ハウス食品のカレーを挙げているが、嗜好性(辛さや味)の強い商品、その嗜好に応えた品揃えが用意されているからPBには負けないのであって、日経が書くほどの逆襲でもなんでもない。時に日経MJもスポーツ紙のようにタイトルアップしましたということであろう。

少し前に、消費氷河期の入り口まで来ていると書いた。これから年末にかけて、特に地方においては雇用も企業倒産も時間を追うごとに悪くなっていく。鉱工業生産といった経済指標は底を打ったというが、生活実感では更に悪くなる。デフレ傾向も更に進んでいる。銀座松坂屋では既に秋冬物のバーゲンが始まっている。スーパーマーケットのエブリデーロープライスと共に、エブリデーバーゲンが百貨店にまで進んだということだ。集客装置としてはそのほとんどが価格戦略であるが、それ以外では「食」となっている。日本で一番来店客数の多い、年間4500万人と言われている阪急百貨店梅田本店が9月3日建て替え棟を開業した。その阪急百貨店は食品売り場を3フロアにし、デパ地下ならぬデパイチという百貨店の顔である1階フロアを食品売り場にしている。従来であれば1階はコスメやジュエリー、あるいはハイブランドの売り場であるが、食品売り場にしたことはまさに象徴的な出来事としてある。

9/4の日経MJに一つだけ面白い記事が載っていた。不用不急の象徴である米国カジノ産業のラスベガスなどの今についてである。リーマンショックから1年弱経過したが、大不況を直接受けたカジノ産業であるが、運営会社は相次いで倒産し、高級ホテルも顧客を戻すために大幅な値下げを行っているが、回復するには来年後半であろうとの記事である。日本の場合はどうであろうか、30兆円産業と言われているパチンコ業界を調べたが、今年の1月時点では大手の倒産は無いものの中小の倒産は高水準で推移しているとのこと。直近の情報は得ていないので何とも言えないが、日本のパチンコ産業も大きな打撃を受けていることは間違いない。悪い冗談と思うが、来春から始まる「ことも手当」の消費先としてパチンコ業界も狙っていると指摘する人もいる。

いずれにせよ、大小あるがデフレの波が収まることはない。1990年代後半、デフレの旗手と言われたユニクロ、マクドナルド、吉野家、こうした企業の在り方は今や至極当たり前のこととなった。新政権の構想としては、まずは生活と雇用の安定への支援を行い、内需活性をはかりながら次なる成長戦略、おそらく東アジア、東南アジアへの輸出拡大と米国オバマのグリーンニューディール計画への参加といった方針であろう。つまり、消費という側面においてはそれほど大きな転換はないということだ。ただ、今までもそうであったように、好不況はまだら模様である。「誰を顧客とするか」は流通だけでなく、全業種にわたる課題だ。(続く)  


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2009年09月02日

出版のお知らせです

ヒット商品応援団日記No397(毎週2回更新)  2009.9.2.

目まぐるしく価値観が交錯し、しかも洪水の如く押し寄せる情報の時代にあって、どうビジネスを生きるか極めて難しい時代だ。その指針となるのが、やはり経営理念であろう。松下からパナソニックへと社名は変えても、創業者松下幸之助の志しを今に生かすべく原点に戻る試みがなされていると聞く。事業の成長と共に、人は増え、組織も運営も複雑化する。「創業の志」とはなんであったか、年数を重ねていくことによってやむなく風化していかざるを得ない時代だ。
お掃除用品のレンタル、ミスタードーナツで知られるダスキンも同じような課題を抱えている。しかも、フランチャイズビジネスであり、具体的ビジネスを推進している加盟店も次の世代へとバトンタッチする時を迎えている。そうした課題を少しでも解決しようとして生まれたのが「祈りの経営通信」であった。
この「祈りの経営通信」は毎週1回発行され、創業期にダスキン創業者鈴木清一の教えを身体と心で感じ取った人間が、その志を伝えるいわば体験記として書かれたものである。どのようにしてダスキンが誕生したのか、革新的な流通組織愛の店へのチャレンジ。また人と人との縁から生まれたミスタードーナツ。創業期とは、理屈ではなくリアリティ、言葉ではなく行動、経済だけではなく生き方として鈴木清一の志は存在していた。そのような体験記として、ダスキンOB8人によって書かれたものである。また、その時々生まれた社会的な関心事や話題を「時代の風」として私が書いてきた。ライブドア事件を始めとした経済から、山形新幹線のカリスマ販売員と言われた齋藤泉さんまで。あるいは少年犯罪の裏側に潜むネット社会、大人の知らないところで読まれている大ベストセラー「ライトノベルズ」のように、多種多様な社会の舞台に上がってきた変化とその意味を毎号コラム記事として書いてきた。
この「祈りの経営通信」は3年間発行されたが、配信先有志の方々の要望から、この度再編集し、書籍という形で出版することとなりました。

○書籍名:「人づくり経営の教え/創業者鈴木清一と教えを受けた者たち」
○発行者:(株)エフシーサポート
○価格:上下巻セット3000円(消費税込み)/送料500円
           四六版、上巻415ページ、下巻419ページ
○申し込み方法:
  次のメールアドレス宛、お名前、ご住所、メールアドレスを明記してお申し込みください。折り返し、書籍と代金振り込み用紙をお送りいたします。
メールの宛先:fcs161@carol.ocn.ne.jp

創業の志しはどのように伝えられてきたか、少し異なる視点であるが、お釈迦様の言葉に「自明灯」というキーワードがある。お釈迦さまが死に臨んだ際、 弟子たちは、誰もたいへん嘆き悲しみ、「お釈迦様が亡くなられたら、私たちはどうやって、 いったい何にすがって生きて行けばいいのでしょう!..」と問われたとき、 お釈迦さまは、「自明灯」という言葉を伝えたと言われている。意識して常に自分の心に明かりを灯すように心がけなさい。自ら灯をつけて生きて行きなさい、という意味だ。他者の灯りに頼ろうとせず、 自ら進んで灯していく、という気持ちが大切であること。そんな感動の灯が、次から次へと点火され伝わって行くことを「灯々無尽」と言うそうである。
創業の志しもまた、同じように「自明灯 」であると思う。この:「人づくり経営の教え」もそうした小さな灯として生まれた。

また、2年前になるが、私が書いた「人力経営」も少しの在庫があるとのこと。この本も人が財産、人の成長が会社の成長であると考え、ユニーク、常識はずれ、前例なし、そこまでやるのか、変わった企業、こうした感想が寄せられた5社の経営リーダーを取材して書いた本である。
祈りの経営理念という心を上場させ、株主にも共感をもって迎えて欲しいと言うダスキン伊東会長(当時は社長)。創業者の志を引き継ぐとは一人ひとりが革新を引き継ぐことと語る和菓子のエゴイスト芝田社長。あぶないからやめてくださいとの社員の声に同意しつつも、琵琶湖の湖上通勤をするボート製造の桑野造船古川社長。創業者である父の志を継ぎ、現実を理想に近づける「夢」を語り合える企業にしたいと話すレストラン業の野の葡萄小役丸社長。右肩下がりのファッション業界にあって、今なお成長させカリスマを輩出し続けるSHIBUYA109のエゴイスト鬼頭社長。
この「人力経営」の購入は紀伊国屋書店を始めとした書店、あるいはAMAZONにてお取り寄せください。(続く)

「人力経営/ヒットの裏側、人づくり経営を聞く」
星雲社刊、新書判、153P
定価:735円(消費税込み)  


Posted by ヒット商品応援団 at 15:03Comments(0)新市場創造