2021年06月13日
生活文化の継承
ヒット商品応援団日記No791(毎週更新) 2021.6.13.
3年半ほど前に未来塾で「生活文化の時代へ」というタイトルでブログを書いたことがあった。副題として「成熟時代の消費を考える」、つまりモノ充足を終えた時代、成熟した時代の消費傾向である「生活文化価値」をテーマとしたことがあった。前回のブログ「人流・考」においても少し触れたが、大型商業施設特に百貨店における「生活必需品」論議の中で、なんとも古くさい生活必需品という言葉が出てきた。既にほとんど死語となった言葉・概念であるが、そうした言葉を使えば使うほど生活実感からは離れていく。結果、不要不急と言った言葉同様不毛な論議になるだけである。
実は1990年代初頭のバブル崩壊、次に大きな変化であった2008年のリーマンショックを経て、「消費」の世界、特に生活消費・日常消費に一つの「変化」が現れてきた時期に書いたブログであった。その消費は、表通りではなく、横丁・路地裏と言った「裏通り文化」の魅力であった。その火付け役はテレビ朝日の番組「『ちい散歩』で、以降散歩ブームが起こるのだが、実は「知らない町」「知らない人々」、そこで営まれている「生活」がいかに知っているようで知らなかったかを教えてくれた番組であった。つまり、表通り以外にもいかに多くの「魅力」があることを教えてくれ、しかも2000年代前半にあったような業界人だけが集まる「隠れ家」ブームではなく、誰でもが日常利用する「魅力」の再発見であり、後に話題となったTV東京の「孤独のグルメ」のような日常の「豊かさ」である。
この豊かさの担い手である飲食業がコロナ禍にあって危機的状況にあることは周知の通りである。前々回のブログで「なんとか倒れないでほしい」と願ったのはこの「豊かさ」を失わないでほしいとの思いであった。一見倒産件数はそれほど多くはないように見えるが、周知のように倒産には法的倒産と私的倒産の2つがあり、飲食業の多くは経営規模が小さな個人事業主が極めて多い。結果、表立って公表される倒産は少なく、私的倒産あるいはその前段階での「廃業」が多い業種である。しかも、タイミング的には政府系あるいは民間金融機関からの借入が1年経過し、返済が始まる時期である。
飲食業界の18団体が10日、都内で「外食崩壊寸前、事業者の声」と題した緊急記者会見を行い、「資金面、精神面で我慢の限界がきております」と訴えたのもこうした背景からであった。
このことは個々の飲食店の経営危機ではあるが、その根底には食文化の危機であると認識すべきである。「食」はライフスタイルを構成する分野、衣食住遊休知美などの中で一番「変化」が起きる分野である。生活するうえでの「豊かさ」も「食」、特に外食へとダイレクトに反映する。生きるため、必要に迫られた食の時代ではない。
私の仕事の中心は商業施設のコンセプトづくりであるが、そのコンセプトの大半を占めているのが「食」であった。時代変化を辿っていくとわかるのだが、例えば1980年代はライフスタイルのコアな部分にはファッションがあり、性差や年齢差、民族差など境目のない情報の時代が特徴であった。そして、バブル崩壊後はそれまでの価値観が大きく崩れある意味で失われた20年、30年とも言われる時代を迎えた。それでも「食」への変化は進み、それまでの海外の変化を取り入れてきたものから、逆に海外へと輸出する時代・日本ブームを迎え、国内においても「食」への認識は変わっていく。それは特別な日の「食」ではなく、ごく当たり前である日常の「食」への再認識で、ハレとケという言い方をするならば「ケ」の日の食である。「豊かさ」はこうした日々の日常の中にある。
この日常を壊したのがコロナ禍であるが、これに代わるフード宅配サービスが急成長しているが、これは日常食であっても日常食文化ではない。Uber Eatsや出前館は忙しい年生活者にとっては必要なサービスではあるが、そこには「文化」はない。今から3年半ほど前になるが、久しぶりに大阪らしい味、元祖きつねうどんの店「うさみ亭マツバヤ」で食事をしたことがあった。明治26年(1893年という老舗で大阪ではよく知られた店であるが、まさに「うどん」という日常食の店である。元祖きつねうどんも好きだが、一番好きだったのが冒頭写真の「おじやうどん」である。うどんもいいがおいしい出汁を含んだおじやご飯も欲しいと言った大阪らしい欲張りメニューである。今も価格は変わらないと思うが、おじやうどんは780円、エビの天ぷらをトッピングしても1000円でお釣りがあった。元祖きつねうどんも、甘辛く炊いた揚げを「かけうどん」とは別に出していたが、客はその揚げをうどんに乗せて食べているのを見て、それなら最初から揚げを乗せたらという。ある意味、顧客から教わったメニューであるが、「文化」はそうした顧客とのキャッチボールから生まれ磨かれる。
成熟した時代とは成熟した生活者・個人がいるということである。コロナ禍によって音楽業界を始め飲食業界と同じように苦境を強いられているが、同じように成熟した顧客はいる。コロナ禍によってライブ演奏ができなくなり、ネット配信をはじめたミュージシャンもいたが、やはり代替サービスでしかない。1990年代から2000年代に入り、ネット配信サービスが主流となり、それまでのCD販売による経営は成立しなくなった。その窮地を救ったのが顧客を前にした「ライブ」であった。つまり、「音楽好き」な顧客、成熟した顧客によって「次」の世界へと転換することができた。それを可能にしたのが「文化」ということだ。飲食業もまた同様に成熟した顧客は間違いなく存在している。そうした顧客がまた通えるまで倒れないで欲しい。(続く)
3年半ほど前に未来塾で「生活文化の時代へ」というタイトルでブログを書いたことがあった。副題として「成熟時代の消費を考える」、つまりモノ充足を終えた時代、成熟した時代の消費傾向である「生活文化価値」をテーマとしたことがあった。前回のブログ「人流・考」においても少し触れたが、大型商業施設特に百貨店における「生活必需品」論議の中で、なんとも古くさい生活必需品という言葉が出てきた。既にほとんど死語となった言葉・概念であるが、そうした言葉を使えば使うほど生活実感からは離れていく。結果、不要不急と言った言葉同様不毛な論議になるだけである。
実は1990年代初頭のバブル崩壊、次に大きな変化であった2008年のリーマンショックを経て、「消費」の世界、特に生活消費・日常消費に一つの「変化」が現れてきた時期に書いたブログであった。その消費は、表通りではなく、横丁・路地裏と言った「裏通り文化」の魅力であった。その火付け役はテレビ朝日の番組「『ちい散歩』で、以降散歩ブームが起こるのだが、実は「知らない町」「知らない人々」、そこで営まれている「生活」がいかに知っているようで知らなかったかを教えてくれた番組であった。つまり、表通り以外にもいかに多くの「魅力」があることを教えてくれ、しかも2000年代前半にあったような業界人だけが集まる「隠れ家」ブームではなく、誰でもが日常利用する「魅力」の再発見であり、後に話題となったTV東京の「孤独のグルメ」のような日常の「豊かさ」である。
この豊かさの担い手である飲食業がコロナ禍にあって危機的状況にあることは周知の通りである。前々回のブログで「なんとか倒れないでほしい」と願ったのはこの「豊かさ」を失わないでほしいとの思いであった。一見倒産件数はそれほど多くはないように見えるが、周知のように倒産には法的倒産と私的倒産の2つがあり、飲食業の多くは経営規模が小さな個人事業主が極めて多い。結果、表立って公表される倒産は少なく、私的倒産あるいはその前段階での「廃業」が多い業種である。しかも、タイミング的には政府系あるいは民間金融機関からの借入が1年経過し、返済が始まる時期である。
飲食業界の18団体が10日、都内で「外食崩壊寸前、事業者の声」と題した緊急記者会見を行い、「資金面、精神面で我慢の限界がきております」と訴えたのもこうした背景からであった。
このことは個々の飲食店の経営危機ではあるが、その根底には食文化の危機であると認識すべきである。「食」はライフスタイルを構成する分野、衣食住遊休知美などの中で一番「変化」が起きる分野である。生活するうえでの「豊かさ」も「食」、特に外食へとダイレクトに反映する。生きるため、必要に迫られた食の時代ではない。
私の仕事の中心は商業施設のコンセプトづくりであるが、そのコンセプトの大半を占めているのが「食」であった。時代変化を辿っていくとわかるのだが、例えば1980年代はライフスタイルのコアな部分にはファッションがあり、性差や年齢差、民族差など境目のない情報の時代が特徴であった。そして、バブル崩壊後はそれまでの価値観が大きく崩れある意味で失われた20年、30年とも言われる時代を迎えた。それでも「食」への変化は進み、それまでの海外の変化を取り入れてきたものから、逆に海外へと輸出する時代・日本ブームを迎え、国内においても「食」への認識は変わっていく。それは特別な日の「食」ではなく、ごく当たり前である日常の「食」への再認識で、ハレとケという言い方をするならば「ケ」の日の食である。「豊かさ」はこうした日々の日常の中にある。
この日常を壊したのがコロナ禍であるが、これに代わるフード宅配サービスが急成長しているが、これは日常食であっても日常食文化ではない。Uber Eatsや出前館は忙しい年生活者にとっては必要なサービスではあるが、そこには「文化」はない。今から3年半ほど前になるが、久しぶりに大阪らしい味、元祖きつねうどんの店「うさみ亭マツバヤ」で食事をしたことがあった。明治26年(1893年という老舗で大阪ではよく知られた店であるが、まさに「うどん」という日常食の店である。元祖きつねうどんも好きだが、一番好きだったのが冒頭写真の「おじやうどん」である。うどんもいいがおいしい出汁を含んだおじやご飯も欲しいと言った大阪らしい欲張りメニューである。今も価格は変わらないと思うが、おじやうどんは780円、エビの天ぷらをトッピングしても1000円でお釣りがあった。元祖きつねうどんも、甘辛く炊いた揚げを「かけうどん」とは別に出していたが、客はその揚げをうどんに乗せて食べているのを見て、それなら最初から揚げを乗せたらという。ある意味、顧客から教わったメニューであるが、「文化」はそうした顧客とのキャッチボールから生まれ磨かれる。
成熟した時代とは成熟した生活者・個人がいるということである。コロナ禍によって音楽業界を始め飲食業界と同じように苦境を強いられているが、同じように成熟した顧客はいる。コロナ禍によってライブ演奏ができなくなり、ネット配信をはじめたミュージシャンもいたが、やはり代替サービスでしかない。1990年代から2000年代に入り、ネット配信サービスが主流となり、それまでのCD販売による経営は成立しなくなった。その窮地を救ったのが顧客を前にした「ライブ」であった。つまり、「音楽好き」な顧客、成熟した顧客によって「次」の世界へと転換することができた。それを可能にしたのが「文化」ということだ。飲食業もまた同様に成熟した顧客は間違いなく存在している。そうした顧客がまた通えるまで倒れないで欲しい。(続く)
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Posted by ヒット商品応援団 at 13:10│Comments(0)
│新市場創造