マーケティングの旅(1) 「旅の始まり」前半

ヒット商品応援団

2023年07月02日 14:15

ヒット商品応援団日記No818(毎週更新) 2023.7,2

体調が優れず3ヶ月ほどブログの更新ができなかった。その間これからのブログをどうするか考えていたが、過去のの実務経験と「今」を重ねてマーケティングを考えてみたいとの結論に至った。過去の経験をどこまで思い出せるか、更にうまく書けるかどうか自信はないが、とにかく前へ進めていくつもりだ。





マーケティングの旅(1)
                「旅の始まり」

豊かさと共に始まった新たなマーケティング
調査分析と実感
そして心理市場の出現と生成AI


ブログを始めてから20年近くになる。当時は全国のブログ数が70万に満たないネットメディアであった。消費を中心に生活者の動向をレポートしてきたのだが、よりブログ情報を深めるために長文になり、テーマを決めてのシリーズとなった。その最初が「街から学ぶ」で時代の変化が街に映り込む、その変化を観察しレポートした。更には時代の大きな変化である1990年代初頭のバブル崩壊やコロナ禍といった生活に劇的変化をもたらしたテーマを「未来塾」として公開し今日に至っている。そして、今回過去50年マーケティング実務の経験を通じ得られた、今なお大切にしてきた経験(特に暗黙知)を公開していく予定である。ある意味50年の「まとめ」のようなものだが、「過去」に遡りつつ「今」を考える、そんな分析をしてみたい。

“過去のなかに未来を見る
 
「街から学ぶ」にも書いたことだが、東京のヤネセン(谷中・根津・千駄木)を歩くと常に感じることであるが、「どこか懐かしい」と。特に根津から谷中にかけての路地はその多くは曲がりくねった通りで、狭い路地裏に木造住宅が密集している。そうした横丁・路地裏を歩くということは、いわば「記憶の生産」をしているようなもので、その生産に際しては、実は自分のお気に入りの風景や出来事を重ねている。つまり、現実の横丁・路地裏を歩いている訳ではない。
20年ほど前になるが、若い世代の間で揚げパンブームになったことがあった。それは過去印象深かった学校時代の「何か」、仲間との遊びや授業を揚げパンと一緒に思い起こし食べているということである。
つまり、それらは全て過去の忠実な再現ではない。そこに新しい「何か」を付与して思い出すのである。
Old New、古(いにしえ)が新しい、という意味はまさにそうした「何か」を意味したキーワードとしてある。
“レトロ、下町、というコンセプトは単に「古さ」を懐古することではなく、ある意味未来への入り口、過去のなかに未来を見るという創造的な試みということである。
学ぶべき点は、今顧客はどんな課題・興味を抱えているのか、失われた30年と言われ、大きな曲がり角に立つ今日、解決すべきは興味を入り口としたコンセプト着眼と創造的なテーマづくりである。そのために拙い体験ではあるが、自身の「過去」を振り返りつつ、マーケティング体験を書くこととした。”

ところで「マーケティング」というと何をする仕事かと言えば、簡単に言ってしまえば言葉どおり「市場・顧客をどうつくっていくのか」そのための一連の仕事である。広告代理店の企画部門に身を置いた広告企画以外の最初の大きな仕事がサンキスト社の広島での「ライフスタイル調査」であった。サンキスト社については未来塾においてそのブランディングについてレポートしているのでここではその入り口となったライフスタイル調査についてレポートすることとした。
サンキスト社は米国の柑橘類の生産者組合で本格的に日本への輸出を始める時期であった。そして、市場をどうつくっていくのかその第一歩が広島におけるマーケティングの旅の始まりであった。その後多くの調査を経験してきたが、「ライフスタイル」の調査というのは初めての経験であった。

その「ライフスタイル」と言うキーワードも高度経済成長機を経て、豊かさが実感できる時代の象徴でもあった。カラーテレビ(color TV)、クーラー(cooler)、自家用乗用車(car)が、それぞれの頭文字を取り「3C」と呼ばれて普及していった新しい生活時代。1970年代団塊世代が社会へと出て家庭を持ち、新しい生活をニューファミリーとともにそんな生活をライフスタイルと呼んだ。ちなみに1974年には東京江東区にセブンイレブンの1号店が誕生する。1970年代とは生きるための必需消費から便利さや好みや楽しみといった選択消費への転換の時代であった。

調査から始まった旅




そのライフスタイル調査対象地域として広島を選んだのは、「民力」つまり人口をはじめとした経済力、学校をはじめとした教育の充実度、商業施設や語録施設など多くの指標が全国平均に近かったことによる。つまり全国を市場として考えた訳で、候補地には静岡も挙げられていた。後にサンキストオレンジジュースのテスト販売エリアとしたのが静岡であった。
ところでそのライフスタイル調査であるが、柑橘類の消費実態などの調査項目の他に、どんな生活志向を持っているか、健康をはじめとした生活における価値観の項目も多数ある面接調査であった。つまり、使用実態の裏側にある「価値観」を探ることからいくつかの「クラスター(かたまり)」を見出し、その「意味」を分析する事が調査の主眼であった。コンピュータを使ったいくつかのクラスターの分布を見ながらその「意味」、つまり市場開発の可能性その着眼点を探ることは極めて興味深いものであった。その大きなクラスターは今で言うところの「健康生活志向」でちょうど高度経済成長を果たし豊かさの象徴として市場をポジションすることとなった。図式化すれば、豊かさ=健康=ビタミンC=サンキストレモン、訴求するメディアはTV広告ではなく、徹底した雑誌広告でレモンの黄色を強く印象付ける戦略を採った。勿論、レモンを使ったレシピは雑誌から店頭のPOPまで訴求することとなった。戦略を組み立てるには調査が不可欠で、そのことによって以降のマーケティング活動、更にはビジネスを大きく変えていくものであった。

調査と実感、その第一歩

実はそのライフスタイル調査であるが、ここで学んだことは分析の手法もさることながら、数字で表される「結果」(情報)をどう読み取るかでそこにはどれだけ実感できるかであった。
若いアシスタントであった私を調査対象となった広島を旅させてくれたのは、そのフィールド実感、現場実感を少しでも取得させてあげようと言う配慮からであった。このことは後のほとんどの活動の基礎となった。過剰な情報が日々生まれる今日において、「何」を選び読み解くかその第一歩となった。つまり、実感を伴わない情報は意味のないことであると理解した。




その広島であるが、被曝からの復興が進み数年後には政令指定都市として100万人の人口となる日本の典型的な地方都市である。冒頭写真の夜行列車に乗ったか記憶は定かではないが、東京駅発の特急で翌朝広島駅に着く列車であった。初めての寝台夜行ということから翌朝首筋が痛んだことは記憶に残っている。
広島というと原爆の被災地ということから現場資料館を訪ねることから始めたが、薄暗い館内に焼け焦げた被覆や被災者の写真が展示されており、その悲惨さに眼を背けてしまいたいほどであった。一方、訪れた目的であるサンキストレモンの売り場のある天満屋、広島と岡山の売り場を観察し、写真を撮ったのだが、売り場の方から館内撮影は禁じられていると指摘されバックーヤードに連れて行かれたことを覚えている。名刺を出して事なきを得たのだが。その時の感想であるが、原爆資料館を観てきた後ということから天満屋いう当時は中国地方を代表する百貨店、豊かさを象徴させる新しい商品に溢れた商業との「差」を実感したことを覚えている。

選択消費時代の「調査」

1970年代を生きるための必需消費から選択消費時代への転換の時代であると書いたが、顧客市場を分析するための調査も大きく変ってくることとなった。その「選択」の中心には「ブランド」というが大きな物差しとなっており、ブランドを形成する心理要因が消費に大きく関わってきた。それまでの生きるに必要な必需消費の中心は「食」でありその消費に占める比率をエンゲル係数とよび、その変化を調べる事が調査の第一歩であった。しかし、そのエンゲル係数のウエイトが次第に調査の中心ではなくなってくることとなる。
新しい、面白い、珍しい、そんな商品やサービスは雑誌メディアに取り上げられ、百貨店にはそうした豊かさが店頭に並び消費は活性化した。その中心は若い世代、しかも女性たちであった。詳しくは「昭和文化考」を読んでいただきたいが、ブランド消費が大きな要因となっており消費心理、つまりこの時期から心理市場化しており、調査の分析はこの心理分析へと向かうこととなった。

つまり、モノ不足の時代にあっては「需要と供給」といったマクロ経済学のモデルを一つの仮説として量的
課題、例えば「モノシェア」を上げるための「仮説」が調査の大きなテーマであったが、今日の豊かな時代の「心理」が強く働く市場下にあっては従来とは異なる「心理市場モデル」とでも言うべき新たな方法が必要となっていた。その時整理したのがtし「心理市場下での2つぃの構図」であった。
つまり、従来からあるる調査の転換、質的な調査のあり方を整理したものである。消費という現実社会としては、モノ消費から情報消費、もっと端的に言えば顧客における「物語消費」への転換であった。
この図はアンケートなど多くの調査設問の中の自由解答部分、フリーアンサー(定性情報)」の重要性のために書いた図である。



 ところでそのポスト団塊世代が起こした一大消費ブームが「DCブランド」であった。「丸井(OIOI)」や「PARCO」などのファッションビルやデパートの周辺には前日から行列ができるほどの盛況でニュースにも

取り上げられるほどの社会現象であった。周知のように松田光弘・菊池武夫・三宅一生・川久保玲・高橋幸宏のメンバーが渋谷PARCO PART2の広告として、「デザイナーブランド」にコメントを寄せたことから始まる。
中でも今尚活躍されている川久保玲氏のファッションブランド「コム・デ・ギャルソン」はそのコンセプトの斬新さに当時の若者は熱狂した。マス・メディアにはほとんど登場しない、ある意味伝説の人物であり多くの川久保玲評があるが、それまでの「美」の概念をここまでもかと変えた衝撃は大きかった。
女性らしい体に沿ったライン、カラフルで華やかな色使い、といった「既成」を破壊するかのよう
なゆったりとした黒、しかも所々まるで穴が空いたようなデザイン。既成にとらわれない、自立した強い女性のための服である。

一方、男性服ブランドの「コム・デ・ギャルソン オム プリュス」はこれまた既成概念にとらわれた「男らしさ」から男を自由にした服で、肩パッドのないシワシワのジャケットや花柄のデザイン。
川久保玲氏による生き方としてのファッションは、あのシャネルを思い起こさせる。当時のヨーロッパ文化のある意味破壊者で、丈の長いスカート全盛の時代にパンツスタイルを生み、男っぽいと言われながら、
水夫風スタイルを自ら取り入れた。肌を焼く習慣がなかった時代に黒く肌を焼き、マリンスタイルで登場した。そして自分が良いと思えば決して捨て去ることはなかった。過去の破壊者、自由に生きる恋多き女、激しさ、怒り、・・・多くの人がそうシャネルを評しているが、シャネルにとっての服とは、そうした生き方や生活、アイディア等、全てが一つのスタイルとして創られたことにある。川久保玲氏もまさに「自由な生き方」を着る、そんな服である。当時はクールジャパンなどといった言葉は無かったが、世界に誇る新しいデザイン潮流が誕生していた。)後半へ続く)


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