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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2017年03月27日

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)

ヒット商品応援団日記No672(毎週更新) 2017.3.27.

テーマとは市場(顧客)の興味・関心事の集積情報のことであり、時代はこの集積力競争の只中にいる。そして、テーマはテーマを呼び、よりインパクトのあるテーマパークの形成へと向かう。今回取り上げたのは、歓楽街として明治時代に誕生した2つの街が、都市におけるテーマパーク・観光地としてどんな歩みを辿ってきたのか。「何」が人を惹きつけ、あるいは衰退し、今日の観光魅力となってきたのか。時代の変化をくぐり抜け今日に至る、そんな観光地の「原型」となっている東西2大観光地東京浅草と大阪新世界を取り上げてみた。

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)











「テーマから学ぶ」

観光地となった2つの歓楽街
浅草と新世界
時代の変化と共にあるテーマパーク


「観光地化」というキーワードが時代のテーマになったことはこの未来塾において様々な角度から学んできた。都市が成長し進化していくに必要なテーマパーク化(テーマ集積)もあれば、街の商店や住民が創り上げたテーマパークもある。前者は前回取り上げたターミナル東京駅地下にある「グランスタ」もそうした事例の一つである。後者のテーマパーク事例はオタクが創り上げた秋葉原・アキバであり、聖地となった2つの原宿、中高生の原宿とおばあちゃんの原宿・とげぬき地蔵。更に人の賑わいを創るテーマ商店街という視点に立てば、上野のアメ横を筆頭にハマのアメ横興福寺松原商店街もそうしたテーマパーク化が消費社会の表舞台に出てきた良き事例である。テーマとは市場(顧客)の興味・関心事の集積情報のことであり、時代はこの集積力競争の只中にいる。そして、テーマはテーマを呼び、よりインパクトのあるテーマパークの形成へと向かう。


今回取り上げたのは、歓楽街として明治時代に誕生した2つの街が、都市におけるテーマパーク・観光地としてどんな歩みを辿ってきたのか。「何」が人を惹きつけ、あるいは衰退し、今日の観光魅力となってきたのか。時代の変化をくぐり抜け今日に至る、そんな観光地の「原型」となっている東西2大観光地東京浅草と大阪新世界を取り上げてみた。
多くの人は浅草と新世界を比べた時、まるで異なる観光地であるとして、比較について一種の違和感を持つかもしれない。しかし、そこには歓楽街として誕生した2つの「場所」が時代の変化を受け、生活者の娯楽も変わり、異なる街へと変貌しながらも、人を惹きつけてやまない共通する「何」かと、2つの地域固有の「何」かをそのエネルギーとして発展してきていることが分かる。それは後述するが、観光地化という時代要請は共通してはいるが、人を惹きつける観光コンテンツ、いわばその地ならではの「文化」、誕生のルーツの「違い」によって異なる観光地へと進化している。
そして、そうした観光コンテンツは外へと向かう「発信力」に他ならない。観光地化の成功はこの「発信力」が対象となる人たちに上手く応えられているか否かである。後述するが、2016年度訪日外国人が2400万人を超えた。ホテルなどの施設や交通インフラなどの受け入れづくりのみならず、インターネットの時代には、例えば私たちが日常的に利用している店に訪日外国人が突然入ってきて顧客となる時代のことである。中国人の「マナーが悪い」といった表層的な感慨だけに終わらせるのではない一種の覚悟を必要としている時代にいる。更に、当然のことであるがデフレ時代における観光地化であり、そうした課題も含め、今回も2つの街を観察した。

歓楽街誕生のルーツに見られるランドマーク

浅草寺・雷門
浅草寺の歴史は古く飛鳥時代に隅田川から見つかった観音様を本尊とした寺である。以降参拝者が増えていくが、特に江戸時代徳川幕府の祈願所として民衆信仰を集めた。現在上野を含めれば年間約4500万人の観光地となり、富士山とともに訪日観光の中心地としても必ず訪れる一大観光地となっている。ところでランドマークとなっている雷門の名が書かれた大提灯は1795年に初めて奉納されたものたが、火災による消失もあり、山門や提灯はその都度変化してきている。その雷門には風神雷神の2つの像が立つ門であるが、その大提灯の底にも竜が刻まれており、浅草寺観音様の「守り神」としてある。
新世界・通天閣
1903年に開催された博覧会(推定入場者500万人)の跡地開発によって新世界は生まれた。パリとNYを手本としたテーマパークで、初代通天閣はエッフェル塔、遊園地はNYのルナパークであった。ランドマークとなっている通天閣も昭和18年(1943年)に、通天閣のそばの映画館が炎上し、その影響で通天閣の鉄骨がねじ曲がり、ついには戦時下の鉄材供給の名目で解体されてしまう。その2代目通天閣は昭和31年(1956年)に誕生し今日に至る。この通天閣には「ピリケンさん」の愛称で呼ばれる像があるが、初代ピリケン像は「幸福の神様」として人気を呼んだもので、足を掻いてあげるとご利益があるとされている。

ランドマークは当該地域・街を代表象徴するシンボルであり、なおかつその性格や実態を分かりやすく表現したもの、つまり目印を超えて「物語」を語ってくれる施設や建造物のことである。特に観光地化した都市や街、場所には必ず物語は存在する。
表紙の2枚の写真を比較すれば一目瞭然であるが、浅草雷門は江戸時代から続く、浅草寺という聖地の山門の「守り神」としてあり、その参道に並ぶ仲見世商店街を含めた一帯が観光スポットとなっている。
一方、新世界通天閣は人を楽しませるテーマパークをそのルーツとしており、通天閣のピリケンさんは楽しみを求めて訪れる人の「幸福の神様」として見守ってくれる。そんな2つのルーツ物語がランドマークとなって今なお継承されている。

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)昨年大ヒットしたアニメ映画「君の名は」のロケ地となった岐阜県飛騨市を始め東京四ツ谷 須賀神社前階段には多くの人間が訪れる、いわゆる聖地巡礼が見られた。古くは「冬のソナタ」からであるが、特に数年前から顕著な現象となっている。映画それ自体を楽しむだけでなく、さらにリアル世界の追体験として楽しむ二重の楽しみを意味している。こうした映画の聖地巡礼はせいぜい複数回で終わるが、聖地巡礼の本質は、「聖なる」場所に自分を置くことによって得られる日常から離れた異次元な時空体験を送ることにある。そこには心の安寧もあれば歓喜もある。例えば、前者のランドマークは巣鴨高岩寺の「とげぬき地蔵尊」であり、後者は原宿のラフォーレや竹下通りとなる。

ところでランドマークにはその街の「らしさ」を物語っているものが多い。例えば、大阪梅田の若者ファッションを集積した阪急ファイブは1998年に「HEP FIVE(ヘップファイブ)」としてリニューアルをした。その商業ビルの上には赤い観覧車が造られていて大いに話題になったことがあった。当時、大阪梅田のランドマークとして広く知られ若者たちの長い行列ができた観覧車である。その誕生の背景であるが、ミナミのアメリカ村に集まった若者文化を梅田に取り戻す目的によるリニューアルであった。
そして、多くの大阪人は阪急グループの創設者である小林一三の発想、例えば阪急沿線の奥・宝塚に宝塚歌劇を造り、観劇という「楽しさ」が人の移動を活性させる。あるいは買い物だけの百貨店にいち早く「食」の楽しさとして大食堂を造る、そんなビジネス発想の系譜の中に赤い観覧車があると受け止めていた。
昭和初期の阪急百貨店の大食堂には「ライスだけのお客様を歓迎します」という張り紙がなされ、ウスターソースをご飯にかけただけのシンプルなメニュー「ソーライス」が大人気であったという。ちょうど昭和恐慌の時代であり、ライスだけを注文し、卓上のソースをかけて食べる。百貨店として売り上げが上がらないと思いがちであったが、小林一三は「確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子どもを産む。そのときここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れてまた来てくれるだろう」と語ったと言われている。卓越した経営者の逸話であると同時に、「大阪らしさ」を物語るものである。
つまり、街は面白くなければならないということだ。面白い街梅田という物語のランドマークとして赤い観覧車はあるということである。

共通する歓楽街の変容

明治から大正・昭和へと浅草も新世界も共に歓楽街として人を惹きつけてきた。いつの時代もそうであるが、その時代の「今」を楽しませるコンテンツが歓楽街を創っていく。その歓楽の在り方であるが、ハレとケ、非日常・特別と日常・普通という表現を使うとすれば、2大歓楽街はハレの歓楽街であり、実はそのハレの世界が変わっていく。つまり、ハレという「特別」が時代とともに変わってきたということである。そして、面白いことにこの異なる地域、異なるルーツの歓楽街を構成するコンテンツは極めて酷似していることにある。そのコンテンツ構成を整理すると、以下のようになる。

1、劇場・映画館

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)浅草:
浅草は大正から昭和にかけて、日本一の娯楽の中心地として繁栄していく。その核となるエリア六区ブロードウェイは日本で初めて常設の映画館がオープンしたところである。大正時代日本の喜劇王と呼ばれたエノケンといったスーパースターも浅草オペラの出身であり、今日の人気者ビートたけしも浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイをしていた。
しかし、娯楽のあり方も戦後の東京オリンピック以降テレビの普及などによって大きく変わり、次第に閉館していく。ハレの娯楽は娯楽の進化と多様さによって、どんどんケの娯楽、日常の楽しみへと変化していった結果である。今もなお「木馬座」をはじめ小さな芝居小屋もあるが、娯楽もこうした変化の荒波にもまれ、浅草のランドマークの一つであった国際劇場は浅草ビューホテルへと変わる。

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)新世界;
通天閣とルナパークを中心とした一帯のテーマパークは新世界と呼ばれてきたが、その歴史を辿ると各施設は隆盛から衰退へとその変化は激しかった。そのルナパークの構成は浅草とほぼ同じで、遊園地、演芸場、写真館、音楽堂、動物舎、サウナ、これら娯楽施設は1925年に閉館する。ただ、浅草と同様、大衆演芸場の「朝日劇場」と「浪速クラブ」は今も存続している。実は漫才などの芸人が所属する新花月は新世界ジャンジャン横丁の温泉劇場としてあった大衆演芸場が活動の場であった。つまり、新天地は浅草と同様大阪における大衆芸能の発祥地であった。しかし、浅草同様娯楽施設はTVを始め多様な楽しみ方へと変化し、衰退へと向かう。

2、遊園地

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)浅草;
浅草寺境内の西側に日本最古の遊園地「花やしき」がある。開園は江戸時代寛永6年(1853年)で、牡丹や菊の花園から「花屋敷」とネーミングされた。明治時代に入ると見世物娯楽を取り入れ、関東大震災以降は子供を対象とした娯楽を取り入れ、虎なども見世物としていた。
戦後には日本最古のローラーコースターやメリーゴーランド・観覧車など施設面のアトラクションが行われ、東京ディズニーランドの開演までの間は、ハレの日のファミリー行楽地として活況を見せた。ところで、花やしきは日本最古の遊園地であるが、日本最小面積5700平方メートル(1860坪).の小さな遊園地でもある。こうした花やしきも入園者が減少し破綻の危機が訪れる。そして、後述するがバンダイナムコグループに支えられながら、「古い」「狭い」を逆手に取りさまざまな工夫により東京近郊のファミリーを楽しませ存続している。

新世界;
戦後の新世界はまずジャンジャン横丁の復興から始まり、1956年の2代目通天閣の誕生によって本格化する。しかし、1970年の大阪万博開催に向けた建設労働者が新世界南側にある西成地区に集まり、新世界は「労働者の街」へと変貌する。そして、建設労働者による釜ヶ崎暴動もあって、結果、ファミリーは勿論のこと、若者もミナミ(難波)やキタ(梅田)へと遊び場が移動する。遊園地がわりでもあった通天閣の入場者数も1975年には20万人を割り低迷状態が続く。
そして、新世界復活の期待のもとに1997年に大型娯楽施設としてフェスティバルゲートとスパワールドが市電車庫跡地に開業する。フェスティバルゲートには建物を貫く迫力あるジェットコースターや入園料が無料であったことから初年度の入園者は831万人に及ぶ。しかし、アジア通貨危機による不況から徐々に入園者は減り、2004年には経営破綻する。
そして、今や新世界を支えているのはジャンジャン横丁の「食」で、浅草花やしき同様ハレというよりケの日の楽しみとなっている。

3、動物園

浅草とは少し離れてはいるが、上野には上野公園内に動物園がある。開園は、1882年3月20日で、日本で最も古い動物園である。そして、日本一の入園者数を記録する動物園である。10年ほど前に復活した旭川市旭山動物園と共に年間入園者数300万人を超える入園者となっている。
一方、大阪新世界の東側には天王寺動物園がある。天王寺動物園も古く1915年(大正4年)1月1日に開園した。1972(昭和47)年度から中学生以下が入園無料になったことで有料入園者は減少したが、翌1973年度の総入園者は335万人を数えた。しかし、以降減少し続け、2013年度には約113万人まで落ち込む。
上野、天王寺共に都市型動物園として戦後のファミリー行楽地として集客してきたが、その入園者がパンダをはじめとした人気の希少動物次第ということから脱却しきれてはいない。しかし、戦前、戦後を通じ都市の子供達にとって楽しい行楽地であったことは事実である。

4、遊郭跡地 他  

ところで浅草、新世界という2つの歓楽街の周辺には吉原、飛田新地という2つの遊郭があった。吉原は江戸時代、飛田新地は大正時代に誕生し、物的消費や飲食といった欲望とともに2つの欲望を満足させる「場」であった。その2つとは性的欲望とギャンプルである。現在では違法もしくは公営ギャンブルのように管理されているが、戦前までは歓楽街集客の2大キラーコンテンツとなっていた。そして、今なおその跡地にはそうした風俗という欲望施設が吉原や飛田新地には存在している。
浅草六区や新世界が観光地という表、昼、の歓楽街であるのに対し、吉原や飛田新地はアンダーグウランドな街、裏、夜、の異端世界である。但し、例えばこの異端世界の周辺には料亭での「お座敷遊び」があり、そうした芸者遊びといった古き文化は今後注目される可能性もある。
また、もう一つの欲望である公営ギャンブルについても浅草六区には場外馬券売り場があり、新世界からは少し歩くが難波にも場外馬券売り場がある。

実は浅草と新世界には、ある意味遊郭などと同様「裏」の地域が歓楽街周辺に広がっている。それは「ドヤ街」と呼ばれた季節労働者の簡易宿泊施設が密集した地域である。しかし、今やそのドヤ街も東京東浅草(山谷)では宿泊費が安いことから訪日外国人旅行客・バックパッカーの利用施設として人気となっている。一方、大阪西成(釜ヶ崎)ではそうした建設労働需要が少なくなったもののドヤ街の一部は今なお残っているが、東浅草同様バックパッカーの宿泊施設になり始めている。そして、以前のような「怖い街」からは抜け出ていて、後述するが新世界・ジャンジャン横丁には新たな顧客層が現れ始めている。
ところでこのドヤ街から生まれたヒーロー「あしたのジョー」(ちばてつや作)の舞台となったのが山谷の泪橋であった。漫画「あしたのジョー」の連載は1968年からはじまっており、まさに高度経済成長期の時代であり、矢吹ジョーが拳一つで山谷から世界チャンピオンへと成り上がっていく物語である。
一方、新世界ジャンジャン横丁のヒーローは元プロボクサーで今はタレントとして活躍する赤井英和である。その赤いがジャンジャン横丁串カツ「だるま」の危機を救ったと言われており、この物語を知らない大阪人はいないと言われている。
また視野を少し広げれば周辺地域には「一大市場」が隣接している。浅草の隣接地域である上野にはアメ横があり、歳末の一大観光地となっているが、最近では訪日外国人のエスニックタウン化しており、特に「夜市」が人気となっている。また、新世界から北へ少し離れるが、日本橋黒門市場も築地市場と同様観光地化が始まっていて、若い世代の「食べ歩き」が人気となっている。浅草、新世界といった観光地と連動した回遊観光メニュー化が待たれている。

歓楽街から、「遊びの街」へ

浅草と新世界の街を観察するまでもなく、大正から昭和にかけて「歓楽街」の概念が変わってきたということである。その象徴が大衆演芸場であり、映画館といったそれまでの娯楽施設の衰退であり、簡略化した表現をすれば大衆演芸場はTVに移り、映画館もTV以外シネコンやDVDへ、さらにはスマホへと変化した。時代を俯瞰的に見るならば、戦後の高度経済成長期を経て収入も増え生きていくに必要な消費支出から、生活を楽しむ選択消費支出へと変化したことによる。つまり、豊かさとともに、多様な楽しみ方へとパラダイムが転換してきたということである。そして、歓楽街という言葉が死語となったのは、やはり昭和31年に施行された売春防止法であった。つまり、キラーコンテンツ無き歓楽街になったということである。

生活という視点に立てば、特別なハレの日の娯楽であった歓楽街は、豊かさと共にどんどん日常化したケの日の娯楽へと変化してきたということであろう。結果、娯楽を求めて街に出かけるのではなく、手軽に身近なところである家庭内での娯楽へと変化していく。一方、そうした豊かさは新たな刺激、新しい、面白い、珍しい楽しさを求める「出来事」へと向かう。その代表的な楽しみが「旅行」であり、ハレの日の旅行は海外旅行へと向かう。1976年には海外渡航者数は300 万人を超え、以降女性がその中心になっていく。
生活への「刺激」という視点で言うならば、歓楽から遊びへの変化であり、ハレからケへの変化、更にはそれまでの男性中心から女性中心へと向かうことになる。

しかし、こうした「変化」も1990年代初めのバブル崩壊によって大きく変わることとなる。(このバブル崩壊による生活価値観の変化については未来塾「パラダイム転換から学ぶ」をご一読ください。)
このバブル期に向かって1987年に制定されたのが、いわゆるリゾート法であった。国民の余暇活動の充実、地域振興、民間活力導入による内需拡大を目的としたものであったが、バブル崩壊と共に全国各地のテーマパークやリゾート施設は崩壊する。そのほとんどは再生することなく、廃墟と化し放置されたままとなっている。そして、バブルというカネ余りは企業ばかりでなく、生活者にとっても同様の「リゾート」が消費されることとなった。その象徴が都市近郊の「別荘」であった。それまでの行楽地に出かける楽しみではなく、「自分の別荘で休日を楽しむ」ことへの変化であったが、バブル崩壊と共に開発業者の破綻だけでなく、別荘所有のローン破綻もあり、荒れ果てた別荘地が今なおそのままとなっている。

このバブル崩壊後、どのような「娯楽」を生活者が求めるようになったか、これも未来塾「パラダイム転換から学ぶ」を一読いただきたいが、収入が増えずデフレの時代へと向かう。ハレの日の旅行はそれまでは海外旅行であったが、次第に欧州や米国から近場の東南アジアやハワイ、グアムとなり、更に国内旅行が増えていく。いわゆる安近短が旅行のスタンダードとなる。こうした傾向を節約生活を踏まえ「内向き」心理として表現した。「外」から「内」へ、ハレからケへの変化である。その海外旅行の推移、しかも「今」という時代を表しているのが次のグラフであろう。

未来塾(28)「テーマから学ぶ」 浅草と新世界編(前半)



グラフを見てもわかるように、日本人の海外旅行者数は1980年代後半以降年度の増減はあるものの
ほぼ横ばいとなっているが、逆に2015年には訪日外国人が日本人の海外旅行者数を超え、周知のように2016年には2400万人を超える。これが日本をめぐる観光の「今」である。(後半に続く)

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