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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2016年08月11日

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半

ヒット商品応援団日記No654(毎週更新) 2016.8.11

文化が経済を牽引する時代になった。その文化はすでに江戸時代に生まれている。それは今日からの「下りもの」として。そうした江戸と京が交差するところに新しい市場が生まれる。

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半


逆さ地図(環日本海・東アジア諸国図、富山県作成)


「パラダイム転換から学ぶ」

江戸と京

市場は2つ異質の交差から生まれる


上記の地図は日本を中心とした見慣れた世界地図とは異なる地図である。日本は大陸から遠くはなれた閉鎖された島国というイメージが作られてきた。しかし、地図を90°回転させると全く異なる世界が見えてくる。 日本列島が日本海という大きな湖をかこんで、ユーラシア大陸、朝鮮半島とつながる、環(わ)の一部のように見えてくる。
実は古来から日本海は北前船で知られているように交易の重要な海上交通路であり、樺太や朝鮮半島を通って人や物、あるいは文化がもたらされてきたことが、この地図によって一目瞭然となる。勿論、地図の右側には沖縄を通って東南アジアへと繋がっている。

前回「外」からのパラダイム(価値観)転換を迫った最大の出来事は明治維新であったと書いた。以降、どちらかと言えば「外」とは太平洋を越えた先にある欧米諸国となり、明治の文明開化は欧米化でもあった。しかし、それ以前はどうであったかというと、歴史の教科書的には「外」の中心は中国・朝鮮半島であり、ロシア、琉球、東南アジアであった。上記「逆さ地図」のように日本海という大きな湖を渡って、人も物も情報も流通していた。歴史の教科書にも出てくる北前船はまさに海道という中世日本の大動脈であった。
今回は日本の資本主義が誕生した中世から江戸時代にかけてどんな「外」からの変化が庶民の生活価値観の転換を促してきたか、特にこの海道を通じ、江戸時代にあってどんな変化がもたらされたか、日本列島を中心にその変化を見ていくこととする。そして、もちろんのこと、庶民の生活という視点からその受け止め方の変化を考えてみた。

前回の未来塾では「外」からの取り入れ方を衝突ではなくて、交差することによる融和、融合で、まるで渋谷のスクランブル交差点であるかのようだと、日本に於ける新しい価値観の創成を指摘した。実はこの「交差」という構図はいつ頃から、どのような「交差」によって、今日まで続く新しい「市場」として誕生してきたのか。勿論、歴史としての市場創成ではなく、交差という日本固有の市場経済・文化の構図を解き明かしてみたい。その構図とは、今なお課題としてある「都市と地方」という関係であり、より具体的に言うならば、江戸に於ける輸入を始め、「江戸と京」、あるいは「江戸と農村」、その関係の構図は今なお世界の多くを取り入れ、咀嚼し、エネルギーに変えている今日の日本に繋がっている。どこまで解き明かせるかわからないが、現在のライフスタイルの原型は江戸時代に作られており、今回はその序として考えていただきたい。

江戸が今日のライフスタイルの原型を作った

敢えて「江戸」という表現を使ったのは、江戸時代であることの意味と共に、「都市」としての在り方、徳川幕府といういわば中央集権という日本の統治機構が確立し、その上での庶民の生活が豊かさと共に行われた点にある。それは江戸の持つ豊かさに惹かれ多くの人が江戸に集まり、「人返し令」が出るほどであった。しかし、幕府は江戸への流入を押さえようとしたが、疲弊した地方・農村からの流入をとどめることはなかった。人、モノ、金、情報が江戸に集中し、その豊かさは地方の人間にとって極めて魅力的であった。一極集中というと全てその集中に問題があるかのように思われるが、集中することによって新たな魅力もまた生まれてくる。当時の世界都市にあって、パリを凌ぐ120万人もの人が集中したのは何故なのか、そして都市に住む人々、庶民のライフスタイルが作られていく。例えば、それまでの武家社会にあっては、日の出と共に起き、夕に眠ることが基本の日常であり、食事といえば1日の食事は2回であった。しかし、江戸は諸大名を統治する政治都市としてスタートしたが、同時に次第に関西をしのぐ商都として、更には軽工業都市としても発展していく。結果、1日の食事は3回となり、24時間都市の芽さえ出てきた。

封建制を壊した市場経済

江戸時代を封建社会と呼んでいるが、この「封(ほう)」とは領内という意味で、領内での自給自足経済を原則とした社会の仕組みのことである。鎌倉時代からの荘園経済、荘園と荘園との境に生まれた市場の先にある村落共同体をベースとした経済であった。しかし、度重なる飢饉と貨幣経済によって、天保の時代(1800年代)に大きく転換する。その転換を促したのが「問屋株仲間制度」の撤廃であった。今日でいうところの規制緩和で極論を言えば素人も参加できる自由主義経済の推進のようなものである。しかし、幕府は問屋株仲間からの上納金(冥加金)がとれなくなり、10年後に撤廃するのだが、この10年間によって市場経済は大きく変わっていく。

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半江戸時代の商人は、いわゆる流通としての手数料商売であった。しかし、この天保時代から、商人自ら物を作り、それまでの流通経路とは異なる市場形成が行われるようになる。今日のユニクロや渋谷109のブランドが既成流通という「中抜き」を行ったSPAのようなものである。理屈っぽくいうと、商業資本の産業資本への転換である。
実は、この「封」という閉じられた市場を壊した中心が「京都ブランド」であったことはあまり知られてはいない。この京都ブランドの先駆けとなったのが「京紅」である。従来の京紅の生産流通ルートは現在の山形県で生産された紅花を日本海の海上交通を経て、軽工業都市京都で加工・製造され、京都ブランドとして全国に販売されていた。ところが1800年頃、近江商人(柳屋五郎三郎)は山形から紅花の種を仕入れ、現在のさいたま市付近で栽培し、最大の消費地である江戸の日本橋で製造販売するようになる。柳屋はイコール京都ブランドであり、江戸の人達は喜んでこの「下りもの」を買った。従来の流通時間や経費は当然半減し、近江商人が大きな財をなしたことは周知の通りである。

江戸と京

江戸の人達はそれまでは京ブランド、「下りもの」を珍重していたが、次第に江戸固有、江戸ならではの主張が生まれてくる。前回の未来塾にも書いたが、京という「外」からの取り入れ方として、まず「食」から始まっている。
未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半当時の食の流通は行商人と屋台であった。この流通がそれまで無かった珍奇なものを流通させていた訳だが最初は庶民にとって何を売っているのか分からなかったと言われている。例えば、醤油の煮汁の中に入れた「つみれ」や「ゆで卵」→今日言うところのおでん、小魚を串でさして油で揚げたもの→てんぷら、小さなにぎり飯に安魚をはりつけたもの→握り寿司・・・・・こうした新しい、珍しい、面白い「食」を広めたのは行商人達で「名調子」「口上」という、いわば今日で言うところのイベント販売、バイラルマーケティングと同じ販売手法であった。そして、江戸の人たちを熱狂させた「初物」商品では、「初鰹」が一番の人気で上物の初鰹には現在の価値でいうと20~30万円もの大金を投じたと言われている。”初物を食べると75日寿命がのびる”という言い伝えからで、「旬」が身体に良いことは江戸時代から始まっている。こうした初物人気を懸念して幕府は「初物禁止令」を出すほどであった。やはり、顧客接点である「流通」が新市場創造のリーダーシップを果たしていたということである。

こうした江戸時代の自由な発想、自由な流通も実は「何か」に対しての「違い」を創ることから生まれたものである。今日の類似競争時代と同じで、江戸時代の違い創造の鏡となったのが「上方」であった。「上方」でつくられたものに対し「下りもの」(今日で言うところのくだらないもの)に一工夫、一アイディアを付け加えることにより「新しい、珍しい、面白い」世界の創造をしていた訳である。例えば、よく食べられていた豆腐料理の「田楽」などは、「上方」では股のある2本の竹串で白みそであったものに対し、江戸では1本の竹串で赤みそといった具合に小さな「違い」を創っていた訳である。米国のNYとシカゴのような関係と同じである。そして、前回の未来塾にも書いたように、全くの「新」については海外からの輸入品で、例えば「象」まで輸入していた。

エンターテイメント都市

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半ところで、当時の江戸は火事が多く、1日3回の食事をしないと力がでなかったためと言われるほどであるが、定かな研究をまだ目にしてはいない。推測するに商工業も発達し経済的豊かさが反映していた結果であろう。その食事回数の増加を促したのが庶民にとっては屋台や行商であった。新たな業態によって新たな市場が生まれた良き事例である。この屋台から今日の寿司や蕎麦などが進化していく、いわゆる今日のファーストフーズである。江戸時代こうした外食が流行ったのも今日とよく似ている点がある。大雑把に言うと、江戸の人口の半分は武士で地方からの単身赴任が多く、庶民も核家族化が進み、独居老人も多かったという背景があった。今日で言うところの個人化社会である。また、「夜鳴きそば」という言葉がまだ落語の世界では残っているように屋台や小料理屋は24時間化し、更には食のエンターテイメント化が進み、大食いコンテストなども行われていたようだ。つまり、生きるための必要に迫られた食から、楽しむ食への転換である。ちょうど生きるための食が楽しむ食へと変化したのは、昭和から平成へと変わるパラダイム転換に酷似している。
ところで江戸の後期には「冬場の焼き大福」「夏の冷水」「既に切ってあるごぼうや冬瓜」といった物にサービスを付加したものが売られ、幕府は自由で便利になりすぎたとして規制するまでになったと言われている。今日でいうところの小さなサービス付加・アイディアが、食ばかりでなくあらゆるところで行われていた。その中でも今なお伝えられているのが周知の越後屋(現三越)のアイディア商法であろう。当時掛け売りであった商売を現金売りにして薄利多売をしたことで成功したことは良く知られている。また、インポート物のさえたる商品である絹製品を反物ではなく、小さく切り売りして大評判を得たことが代表的なアイディアで、それら小さな絹は様々なアクセサリー小物に使われ、それを見た人がまた真似をするといった具合に小売業はアイディア業であることが江戸時代に存在していた訳である。
前回の未来塾で垣根のない「長屋社会」の暮らしについて書いたが、様々な商売の住民が集まっていた。ちなみに冬の間だけ江戸に出稼ぎに来る人々のことを椋鳥(むくどり)と呼ばれ、仕事はまき割りなどの雑用や駕籠かきまでやっており、重宝されていた。こうした多様な長屋住民に対し、生活の多くの物品やサービスを提供していたのが行商であった。売るものはと言えば、勿論鮮魚や農産物はもとより、金魚・こおろぎ・飴・かりんとう・お水・お団子・茶碗・しゃぼん玉・ところてん・ざる・箒・もぐさ・七味唐辛子・・・・・・そして、それぞれ長屋に来る曜日や時間がほぼ決まっており、これで生活するには十分であったようだ。

長屋住民の楽しみ

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半その代表的な楽しみが今なお続く隅田川の花火大会であろう。周知のように1733年から始まった花火大会であるが、前年は大変な凶作で数百万人もの餓死者が出てしまい。更に江戸市内ではコレラが大流行し、多くの死者が出た。8代将軍吉宗は死者を鎮魂するために水神祭を開催したのが始まりであると言われている。
こうした楽しみの他にも花見に月見、相撲、舟遊び、あるいは行商から購入するコオロギの虫聞きといった風流な遊びまであった。行商からコオロギを買うというのは、それまではどこでも聞けた虫が江戸が都市化されていくにつれ購入せざるをえなくなったということである。今日のカブトムシを買って夏の宿題の研究テーマとしていることと同じである。

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半そして、今日の楽しみを彷彿とさせるのが旅行である。江戸時代においては五街道というインフラが整備され、お伊勢参りは最大の旅行イベントであった。安全・安心の時代の楽しみは何と言っても観光である。生涯そこで暮らすという「居住」ではなく、自在に移動ができる「滞在」としてのライフスタイルとなる。長屋生活でも少し書いたが、モノはできるだけ持たないようにし、トイレや炊事場所を共同で使う。しかも、循環型社会として、トイレにたまる糞尿ですら近隣の農家の肥料として使う。そんな糞尿が年間で2両にもなったと言われており、町内施設の補修などに使われていた。江戸時代は「レンタル社会」で、貸本屋だけでなく、手ぬぐい1本から墓参りの代行までを引き受ける「損料屋」という商売があった。勿論、犬や猫のペットレンタルもメニューにあった。
現代においてはこうした滞在型、常に移動を繰り返す社会にあっては「向こう三軒両隣」的なコミュニティを形成することは極めて難しい。江戸においても引っ越しが頻繁に行われていたが「長屋コミュニティ」を運営する「人」(大家)と明確なコミュニティのルールがあった。また、趣味という分野においては「連(れん)」という身分・階級を超えて結びついたクラブのようなものが存在していた。今日に於いては、エリア(場)においてはそうした人もいなければルールもない。マンションを始めとしたデベロッパーはその開発コンセプトに”こんな考え方の人たちのマンション・エリア”という思想が欠けているのだ。江戸時代の住まい方では長屋はベッドルーム、銭湯や寄席がバス&リビングで長屋を中心としたエリア(町)が我が「住まい」であった。最近ではやっと「車好き」のタウン開発や「ペット好き」のマンション等が開発され始めたが、コンセプト無きマンション、コンセプト無きエリア開発が多すぎる時代にいる。

浮世という考え方

江戸時代、庶民のライフスタイル全般を表した言葉が「浮世」である。今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。

元禄バブルとその崩壊

今日のライフスタイルの原型は江戸にありその成熟した生活について書いてきたが、江戸時代にも好不況の波は存在していた。未だ記憶に残るリーマンショック以降の大不況について1929年に始まった世界恐慌の事例を持ち出す専門家もいたが、江戸時代の不況事例を持ち出す専門家、歴史研究者は皆無であった。勿論、日本一国の不況と市場が世界に広がる時代の不況とでは参考にならないということだが、当時の幕府(政府)がどんな改革という不況対策を採っていたか、奇妙に符号する点もあった。

江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。NHKの「天地人」ではないが、周知のように戦国の世は終わり、江戸時代は天下泰平の世となった。この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代である。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年~)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。
貨幣経済は地方へと広がり、前述の紅花や木綿なども各地で栽培され、瀬戸内の塩や京都の日本酒が全国各地へと流通する。鉱山(金銀銅)開発が積極的に行われ、それらを基に海外からどんどん舶来品を輸入していった。桜が盛んに植えられお花見が庶民の季節イベントになり始めたのもこの頃である。まさに「消費都市」として爛熟した文化を咲かせた時代であった。

しかし、元禄期の後半にはそうした鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、市場は競争市場となり、米価も下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。翌年行われたのが前述の両国の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。

8代将軍吉宗は老中水野忠之や江戸町奉行大岡忠相というブレーンと共に、江戸市民の声を聞く「目安箱」を置き、民意を生かした行政を行う。この目安箱に町医者が投じた意見書から生まれたのが小石川養生所である。貧しい町民の医療を含めたセーフティネットであるが、山本周五郎が描いた小説「赤ひげ診療譚」の舞台となった施設である。
こうしたセーフティネットの背景には吉宗の改革ポリシーが明確にあってのことであった。一言でいえば、元禄バブルによって、心が荒み、本来もっていた優しさを取り戻したい。財政の赤字改善だけでなく、「こころの優しさ」をもということになる。この吉宗のポリシーは、後の松平定信に引き継がれる。それは、「七分積立金」という寄付制度で、町会費を節約してもらい、その節約分の七分(70%)を小石川療養所の運営費に充当してもらう制度である。おもしろいことに、この制度は明治政府になっても「東京市立養育院」となって続き、水道や道路整備更に築地の埋め立てなどにも使われた。

未来塾(23) パラダイム転換から学ぶ (江戸と京)前半こうした吉宗による享保の改革はいわば社会福祉政策と呼ばれているが、そこには町民への明確な「権利と義務」を明らかにした上でのことであった。江戸は木造家屋であったことから火事は日常的にあり、安全・安心のための最大課題であった。当時の消防は、武士(行政)によるものであったが、町民自身も消防に参加すべきとし、「町火消し」制度が創られる。町火消しの番所建設費やその運営費は町民の負担とした。つまり、権利と義務を明確にしたのである。この延長線上に、災害時の食料を確保するための「囲い米」を保管する倉庫を作り、これも「七分積立金」の中から拠出させた。ある意味、不況対策は新しい町づくりとして、町単位での経済・社会運営をまかせ、世界に類を見ない都市国家を創ったと言える。

不況時の改革はこのように「町づくり」という市民参加によるものと併行して行われた。それは何よりも、市民の認識を変え行動することによってのみ変革は可能だということだ。そして、ある意味豊かな都市づくりが可能となったのも、江戸の生活が町単位という小さな単位であったからである。当時、江戸は「八百八町」といわれていたが、実際には1000以上あったようで、互いに「隣の町より良い町にしよう」と競い合っていた。お金を持っている人はお金を出し、力のあるものは労力を出す、経験ある者は知恵を出す、そんなことが当たり前のこととして通用する社会が実現していた。(後半へ続く)


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