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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2011年01月17日

昭和と平成のアイドル

ヒット商品応援団日記No480(毎週更新)   2011.1.17.

昨年ブレークしたAKB48やK-pop、あるいはおばさん達のアイドルである氷川きよしや天才女形である早乙女太一、最近では日本ハムに入団した齋藤佑樹もアイドルに入るであろう。過去も今もそうであるが、各分野、各世代、各エリア、といった小さな単位に時代の臭いをふんぷんとさせたアイドルが生まれる。
私の世代であれば、アイドルとして誕生し、アイドルとして舞台を去った山口百恵はアイドルの典型である。この典型という意味は、その後アイドルが担う役割の分岐点を見せてくれたという意味合いも含まれる。

山口百恵の風貌は素朴、純朴、誠実、といった言葉が似合う幼さが残る歌手としてデビューするのだが、そうした「少女」とは真逆な「大人」の性的さをきわどく歌い、そのアンビバランツな在り方が一つの独自世界をつくったアイドルである。確か週刊誌であったと思うが、百恵が歌っている最中、風かなにかでスカートがめくれたきわどい写真が掲載され話題となったことがあった。その時、百恵はその雑誌社に本気で抗議し、「少女」であることを貫いたのである。
そして、周知のように山口百恵は映画で共演した三浦友和と結婚するのだが、日本国中といったら言い過ぎであるが、その結婚に対して大きなブーイングが起きる。結果、「私のわがままな生き方を選びます」とコメントし、1980年に21歳という若さで引退する。百恵エピソードは数多く語られているが、1970年代という時代を駆け抜けた「少女アイドル」であった。

ところで、百恵は「少女」であったが、同時にそのきわどい写真の反響の大きさから、新たなビジネスチャンスとして「大人」としてのアイドルが生まれる。これが、後の「グラビアアイドル」や「萌え系キャラ」へと進化していくのである。面白いことに東京秋葉原には「少女」であるAKB48の常設舞台があると同時に、メイドカフェやコスプレといった「萌え系キャラ」を売り物とした店があり、時代の臭いを色濃く映し出した街である。ここ半年ほど秋葉原を歩いていないので食べてみたいと思うが、美少女イラスト仕様の稲庭うどんの店もあるという。「少女」と「大人」という2つの世界、私が昼と夜、明と暗、表と裏、日本と世界、・・・・・・・アンビバランツな2つの世界の坩堝となっている街、いつの時代もこうした一種猥雑さのなかから新しいエネルギーが生まれる。

実は百恵と反対の極にいたのが、宇多田ヒカルのお母さんである藤圭子であろう。その代表作が、大ヒットとなった「圭子の夢は夜ひらく」であった。百恵と同じように1979年に引退し、米国に渡り、その後表舞台からは姿を消す。「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞「15、16、17とわたしの人生暗かった。・・・・夢は夜ひらく」のように暗い鬱屈した歌である。年齢的には少女である圭子は、ドスの利いた声で暗く澱んだ「大人」の歌を歌う。百恵が表舞台であったのに対し、圭子は裏にある人生を歌いアイドルとは誰も言わなかった。時代とは必ず、少女と大人、表と裏、もっと極端なことを言えば聖と俗の世界によって構成される。まるで、秋葉原の街がそうであるように。

話を元に戻すが、若い世代のアイドルはというと、昨年のシングル売上TOP10は嵐とAKB48が独占したとオリコンから発表があったが、団塊世代である私の感性からすると、どこにでもいる性格のよい優等生、至極「普通」な少年、少女という印象である。ある意味、草食世代のアイドルとして象徴しているのだと思う。一方、どこまで売れているか分からないが、K-popの美脚路線や臍出しルックは「大人」的アイドルのポジションを得ているのかもしれないが、昭和の時代の藤圭子のような一種毒を含んだ倦怠感は無い。ハンカチ王子齋藤佑樹はシニア世代にとって子や孫のような存在である。つまり、昭和と平成の違いと言ってしまえば終わってしまうが、毒の無いいわば無菌社会のアイドルということだ。

芸能界についてはまるで知識もない私であるが、今なおお騒がせ女優としてマスコミのパッシングを受けている沢尻エリカがいる。沢尻エリカの本格デビューは確か井筒監督の「パッチギ!」で、その後2005年にはフジテレビ「1ℓの涙」のドラマであったと思う。難病で苦しみ21歳で亡くなるまでの日記を元に映画化、TVドラマ化されたものだが、亡くなられた木藤亜矢さん役を演じたのが沢尻エリカであった。ドラマのタイトルのように、意識は鮮明であるが身体が次第に不自由になっていく、しかし強く生きるために1ℓの涙を必要としたという実話である。沢尻エリカは難病である少女役を好演したと記憶しているが、その後例の舞台あいさつでの「別に!」発言により、一挙に悪役になったと思う。少女から大人へと脱皮・転換できなかったことによる。亀田兄弟や朝青龍もそうであるが、コトの本質は別にして、悪役、ヒール役は平成の時代にそぐわないということだ。

いずれにせよ、時代がアイドルを求めているとは、情報発信という視点に立てば、全てがメディア足りえる劇場がアイドルを求めているいるということである。明と暗、表と裏、日本と世界、あるいは正義のヒーロー役と悪役・ヒール役・・・・・・情報は劇場の境目を超えることによって、メリハリのあった異なる世界を溶解させてしまった。「私のなかだけにあるアイドル」として、俗的なるもの、日常的なもの、誰もが触れえるものであってはならなかったアイドル。そのように「私」という虚構に閉じ込めてしまうものがアイドルであったが、その虚構という境目も無くなり、「私」にとってアイドルは憧れではなく、友達や孫のような感覚存在になったということだ。

今、タイガーマスク運動が更に広がりをみせている。1970年前後に流行ったスポ根マンガであるが、主人公の伊達直人は表舞台はリングの悪役レスラー(正統派との間で苦闘するのだが)、裏舞台では生まれ育った孤児院に収入の一部を寄付するこころ優しい人物として描かれたマンガである。最後は、伊達直人は車に轢かれそうになった少年を助けるため自ら亡くなる。そして、最後の力を振り絞って虎の覆面を川へ投げ捨て、タイガーマスクと伊達直人が同一人物であることを誰一人知られないままマンガは終わる。ある意味、人知れず善行を行うという日本的な匿名の美学世界でもある。こうしたタイガーマスクの世界はポスト団塊世代以上の人は理解出来ると思うが、若い世代にとってはマンガを知らないこと以上に、「匿名美学」を理解出来ないと思う。
アイドルもヒーローもその時代を映し出しており、今という時代は無数の小さなアイドル、ヒーローを産み出すことはあっても、山口百恵のような時代を駆け抜けたアイドルは出てこないであろう。(続く)

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Posted by ヒット商品応援団 at 14:18│Comments(0)新市場創造
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