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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2009年11月29日

江戸時代の成長戦略

ヒット商品応援団日記No423(毎週2回更新)  2009.11.29.

前回江戸時代の不況対策、吉宗が行った享保の改革の概要について書いた。そして、好況と不況を交互に繰り返したとも。今回は好況を生み出した成長戦略について書いてみたい。
まず、江戸時代最初の好況期で元禄バブルと言われた頃の経済であるが、当時の経済を活性させたのはインフラとしての水上交通であった。海と川、これら水路を通じて多くのモノが流通していた。この元禄バブル期の象徴で伝説の人物が周知の紀伊国屋文左衛門である。紀州のみかんを江戸へ、江戸に集まった塩鮭を上方へ、といわば江戸と上方との価格差を巧みにビジネスに持ち込んで莫大な富を手にした商人である。幕府の側用人柳沢吉保に取り入り、賄賂政治、賄賂経済を行ったとされ、浅草吉原での豪遊ぶりが絵にも残っている。そこには吉原を一人で借り切り、豆まきの豆の代わりに金銀を蒔いて、幇間や芸者が競い合って拾っている絵であるが、拾った金銀は背後にいる役人に渡るという、官僚接待の構図である。一晩で千両、二千両がばらまかれたと言われている。しかし、バブル期にはバブルであると認識しないのが江戸時時代も今日も同じで、新興企業、新興商人の代表で江戸庶民のヒーロー的存在であった。

江戸に幕府が置かれ、1600年代〜元禄にかけて漠大は富を得たもう一人の人物に淀屋常安がいた。大阪の陣の時に徳川方を支援し、その褒美として米の相場を立てる「米市」の権利を得る。米の価格は仲買人によって無秩序に決められ、実はインフレ&デフレを起こすのであるが、その安定をはかる市である。淀屋は大阪中之島に市を立てる。その淀屋に行くために橋を架け、その地名は淀屋橋として今も残っている。
ウイキペディアによると、1620年当時米の収穫量は約2700万石で自家消費や年貢の分を除く約500万石が市場で取引され、その4割の200万石が大阪で取引されたと言われている。米市の取引は現物取引ではなく、手形の売買に発展するのだが、ある意味世界の先物取引きの起源とされている。米経済「=米の価格は他の物資の価格統制・安定につながる」という幕府の考えと、貨幣経済「=先物取引き・貨幣それ自体が富を産む」と考える商人、この2つの矛盾が次第に生まれてくる。今で言うところの実体経済と金融経済(投機マネー)という言葉に置き換えてもそれほど違わない。
そして、五代目廣當(こうとう)の時、「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」という理由で、実は諸大名への貸し付けが莫大になり、(ウイキペディアによると銀1億貫/現代では100兆円に相当)淀屋の全財産を没収する処分を行う。

少し短絡的な言い方になるが、貨幣経済が日本全国に浸透していくことによって、新たな産業も生まれ、経済は活性化する。この活性化を可能にしたのが前述の物流・水上交通であった。今日の高速道路に該当するが、江戸も大阪も水の都と言われるように、水路が張り巡らされていた。米価を決める大阪はいわば通貨政策を取り仕切る大蔵省や経済産業省であり、京都はというと皇室があり公家文化とそれに基づいた下り物商品の生産経済機能というある意味文化庁があり、長崎にはさしづめ外国との交易を含めた外務省がある、そして江戸は政治機能を果たす行政府や国会があり、それぞれの機能を果たす分散型国家がこの時代に出来上がりつつあった。
こうした政治機能以外は、幕府から認可され商人自らが実施する国づくり・町づくりであった。水上交通のみならず、陸上交通についてもこの頃五街道が整備され、ヨーロッパの街道が軍事道路であったのに対し、日本の場合商人によって街道は整備・発展した。この街道を天秤棒を担いで全国へと商売に出かけたのがあの近江商人であった。今日言われているような政官業の癒着といった問題や一人歩きしてしまう投機マネーといった問題をはらみながらも、商人を中心にした民に任せる民活戦略が江戸初期の経済を成長させた。

こうした元禄期のバブルを改革したのが、前回書いた吉宗の享保の改革であった。前回を少し補足すると、実は吉宗は5代将軍綱吉の重用によって幕府に参画しており、綱吉の頃の元禄政治を全否定することはできなかった。享保の改革は緊縮財政政策と社会福祉・保障政策を中心に行われたが、拠って立つ思想的裏付けをしなければならなかった。吉宗は幕府を開いた家康に戻る、いわば原点回帰を拠り所にした。キーワード的に言えば、元禄という華美で贅沢になってしまった風土に対し、「質実剛健」をポリシーとした。1990年代バブル崩壊後、多くの企業が危機に対処するために創業回帰、原点回帰に向かったとのと同じである。

話を元に戻すが、吉宗は倹約令を始めとした多くの禁止令を実行する。元禄期の過剰な遊び、物見遊山などは贅沢であると。歌舞伎、人形浄瑠璃の退廃的演目、特に「心中もの」を禁止。岡場所、賭博も禁止。以降、こうした政策は松平定信などへと引き継がれていくのだが、「毎日が節約」「まじめに働く」、そんな日々が長く続くと、楽しみがないと江戸市民は思うようになる。そんな江戸市民の気持ちを代弁するような歌が残されている。

白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

白河とは白河藩主松平定信を引っ掛けたもので、田沼とは賄賂政治の田沼意次のことである。田沼が明和・安永という元禄と同じバブル時代を作った世を懐かしむ、今一度バブル時代が来て欲しい、と歌ったものである。松平定信によるあまりに道徳的清貧的ばかりの世では窒息しそうだと、そんな歌である。ある意味、民意は右に揺れ、左に揺れる、いつの世も同じであるように思えてしまう歌だ。

この田沼意次であるが、新たな税収を求めるために、多くの成長拡大政策を民の力を活用実施した人物である。町人資本による印旛沼・手賀沼干拓事業や蝦夷地での新田開発・鉱山開発、更には長崎を通じた輸出の振興、株仲間への規制緩和・・・・こうした成長戦略を採ったが、賄賂政治を批判され、天明の大飢饉(冷害と悪天候で数万人が餓死したと言われている)によって失脚し、松平定信へと政権が移るのである。

江戸時代も、右肩上がりの成長期には「新(外)市場の開発」と「規制緩和」、それらを行うに足りる貨幣の流通と消費の促進、結果として生まれる「インフレ」によって成長してきた。前回、260年ほど続いた江戸時代には好況期3回、不況期3回存在したと書いた。ほぼ40年サイクルで好不況の波があった訳である。1955年保守合同によって自民党政権が誕生した。54年ぶりに民主党に政権が移行した訳だが、まるで享保の改革を思わせるような動きに見える。
このブログを書いている最中にドバイ発の金融ショックがあり、円高へと大きく振れた。勿論、輸出企業にとって大きな痛手となるが、更に海外現地生産が加速されるであろう。仕事の場が国内には少なくなっていくということである。既に、数年前から技術を持った中高年のリストラがあり、仕事の場を海外に求め、中国を始めとしたアジアへと向かっている。大学生には少し困難さが伴うが、アジアに就職の場を求めるという発想の転換は必要である。

今、緊縮or成長、規制強化or規制緩和、公的支援or市場解決、消費で言うと低価格or適正価格、セルフ解決orプロ解決、・・・こうした二項対立的な発想・論議からの転換が必要ということだ。実は吉宗は元禄バブルの後始末として緊縮財政、社会福祉といった政策だけを採ってきた訳ではない。成長政策も同時に実行してきた。漢方薬の国産化や米に頼らない他の農産物の開発、あるいは江戸市民の華美な娯楽の禁止に代えて、健全な娯楽場所として桜の名所づくりを行った。つまり、吉宗はバランス感覚のある政治家であったということだ。
もし、江戸時代の好不況から学ぶとすれば、この大転換期への一つの視座は「バランス感覚」、あるいは「第三の道」ということとなる。(続く)

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