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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

2018年03月04日

昭和から平成へ、そして新元号の時代へ (前半)  

ヒット商品応援団日記No704(毎週更新) 2018.3.4.

来年5月には新元号の時代が始まり、平成が終わる。そして、新しい時代が語られると同時に、「平成」がどんな時代であったか、経済や社会だけでなく、消費においても多くの特集が組まれることであろう。今回のテーマである「新時代の迎え方」というそれまでのパラダイム(価値観)に大きな変化をもたらすものであるかどうか、昭和と平成の時代変化を今一度整理し、消費を中心にその変化の有無と方向を考えてみることとする。



ところで3年半ほど前に始まった未来塾では、「テーマの時代がやってきた」として、東京谷根千を始めとした多くの街やエリアにおいて、人を惹きつける「テーマ」の魅力について学んできた。何故テーマなのかはその都度明確にしてきたが、競争市場下にあって、テーマに沿った集積力は他社・他エリアとの比較で大きな競争力となることがわかってきたからであった。勿論、そのテーマに人を惹きつける魅力があってのことだが、よりわかりやすくするために、人が集まるという意味で、「観光地化」というキーワードを使ってきた。

例えば、都心の再開発によって子供相手の駄菓子屋が次々と無くなり、店先で売られていた「もんじゃ焼き」もどんどん廃れていった。そうした状況にあって中央区月島のもんじゃ焼きの店が裏通りの商店街に集まり「もんじゃストリート」と呼ばれるほとの街並みとなり、多くの観光客がもんじゃ焼きを目的に来街するようになった。テーマは昭和時代のもんじゃという商品・メニューであるが、他にも九州阿蘇の温泉街黒川温泉の再生も同じテーマ集積によるものであった。ゴーストタウン化した温泉街の再生テーマは「自然の雰囲気」で、そのテーマを生かすにはと考えたのが露天風呂で、全旅館がその露天風呂を造ることとなる。そして、「すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去する。その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には昭和の鄙びた湯の町情緒が蘇ったという事例である。そして、黒川温泉が一つのテーマパークとなった合言葉が「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」であることは、温泉旅館という業界を超えて広く知られるまでになっている。
(写真は黒川温泉組合のHP、季節の写真館より/冬には竹灯を川沿に灯す幻想的なイベントを開催している)
これが新しい時代をテーマを持って迎えた事例で、協力しあうことによってテーマ集積というより強い魅力を創ることに成功した良き事例となっている。このように100の町や村があれば、100の自然や歴史文化という資源を持ち、それらを再生、リノベーションし新たに構築していくことは100通りのテーマパークになるということである。「昭和レトロ」というテーマであれば、100の「昭和レトロ」があるということである。

豊かではなかったけれど・・・・・夢があった

戦後荒廃した昭和の日本、その時代の空気感を一言で言えば、「豊かではなかったけれど・・・・・夢があった」ということであろう。これは第29回日本アカデミー賞となった映画「Always三丁目の夕日」に描かれた昭和33年の東京を象徴した言葉である。西岸良平さんのコミックを原作にした昭和30年代の東京を舞台にした映画である。ここに描かれている生活風景は単なるノスタルジックな想いを想起させるだけではない。そこには物質的には貧しくても豊かな生活、母性・父性が描かれていて忘れてしまった優しさがあり、そうした心象風景で泣かせる映画である。

映画に描かれた集団就職、路面電車、ミゼット、フラフープ、横丁路地裏、他にも月光仮面、力道山、テレビ、メンコやビー玉、それら全てを含めた生活風景である。
そして、東京という都市ですらまだまだ荒れ果てた中にも自然は残っていた。都心から少し離れた郊外には田んぼや畑があり、クヌギ林にはカブトムシやクワガタが沢山いた。いわゆる里山があった。つまり、日本が近代化に向かって走る前、昭和30年代半ばまでの10年前後、団塊世代にとっての心象風景は、やはり路地裏にある生活の臭い、物不足の中にあっても走り回った遊び、少し足を伸ばせば里山があり、四季を明確に感じさせてくれる自然、そんな風景であったと思う。

闇市を母体にした商店街

戦後の物不足に対応した、いわば生きていくために自然発生的に誕生した市場で、公的には禁止された市場であることから「闇市」と呼ばれていた。実は東京銀座(三原橋辺り)もそうした闇市を母体とした街であるが、中でも戦後の雰囲気を色濃く残しているのが写真の上野のアメ横である。
その歴史を辿ると「自然発生的」という意味がわかる。終戦からわずか5日後に開かれたのが新宿マーケット(その一部が新宿西口の思い出横丁)。次には池袋駅西口、渋谷、新橋、神田、上野など、都心近くの主要駅周辺に続々と市場が開かれ、やがて郊外の駅前、道路沿いにも出現していく。赤羽、板橋、十条、吉祥寺、中野、荻窪、三軒茶屋、大井町、横浜伊勢佐木町・野毛・・・・・・・こうした闇市のほとんどが露天商によるもので、物の横流しといった犯罪や安全・衛生面などから1951年末までに規制が強化され、東京の場合は翌年からそのほとんどが消えていくことになる。こうした闇市は大阪にもあって、梅田には駅前のダイヤモンド地区や梅田裏の十三、あるいは鶴橋や西成にもあった。
しかし、露店は消えてはいくが、店舗を構えた恒常的な商店街、飲食街は残っていくこととなる。その代表例が前述の上野アメ横で近くの再開発ビルに露店は収容され、新橋であれば駅西側に再開発されたニュー新橋ビルへと移転していく。このように再開発の進行と共に闇市は商店街へと変わっていく。

こうした闇市のような商店街、横丁・路地裏の商店街に人が集まるのは、そこには売り買いの「やりとり」「会話」という「人」が介在する商売・消費の原型が残されているからである。欲しい商品は何か、何が安いか、その訳は・・・・・・・・パソコンで検索すればたちどころに「答え」が出る時代にあって、一見非合理にも見える商売に惹かれるのは何故なのか。それは上野アメ横の年末暮れの商売を見ればわかるが、何故この品物が良いのか、どこまで安くできるか、こうした「やりとり」の楽しさ、「買い物の楽しさ」があるからである。
商売の原型は大阪にあると言われるが、店頭の値段を見て「なんぼにしてくれる」とあいさつ代わりに聞くのが買い手で、「そんな無茶な」と答えるのが売り手のあいさつというやりとりである。露天商と言えば、映画「フーテンの寅さん」を思い浮かべるが、百貨店でよく行われている「催事販売」のような商売である。
もう一つが「規制」から自由であるということであろう。勿論、法に違反してはならないが、売り手・買い手共に自由に商売ができるということである。突き詰めれば、売り手にとっても、買い手にとっても、どれだけ「得」が得られるかということである。身近な例であれば、インターネット空間が誕生することによって、誰もが参加することによって新しい「何か」が創られ成し遂げられるオープンソースのような自由な試みが可能となる、それと同じような「自由な場所」ということだ。

再開発によって生まれた「昭和」

戦後の商業は闇市のような露店から新たな商業施設への移転、商店街の形成へと向かう。つまり再開発事業の進行と共に街がつくられて行った。映画「Always三丁目の夕日」が描いた「昭和」は、東京タワーに象徴されるような「夢」のある復興期の東京が舞台であった。周知のように数年後に行われる東京オリンピック開催を目指し、高速道路や新幹線などの建設が急ピッチに進む、そんな夢の象徴が東京タワーの建設であった。
こうした急成長はある意味「東京一極集中」の第一段階であったが、再開発事業から取り残された地域も出てくる。
平成の時代に入り、バブル崩壊によってそれまでの成長期から停滞期へと向かうわけだが、この取り残された地域の再生が始まる。その代表事例が東京の谷根千(谷中・根津・千駄木)と言われる下町の地域で、上野の西側の住宅地であり、寺町でもある地域である。上野の裏と言った方が分かりやすい地域で、都民からは桜の谷中霊園やツツジの根津神社のある地域程度の理解でしかなかった。しかし、戦災をあまり受けなかったことから古い木造家屋やアパートが残っており、また谷中銀座商店街も古き下町の商店が立ち並ぶまさに再開発から取り残された地域であった。実は取り残された分、「ザ・下町」とでも呼べるような昭和の匂いがする地域であった。この地域一帯を谷根千(ヤネセン)として注目を集めるようになったのは、4人の主婦による「谷根千」という地域雑誌創刊から始まる。(詳しくは未来塾「谷中銀座・下町レトロ」を参照)
この地域に残したいその理念として、「下町レトロ」というコンセプトによる小さな地域雑誌であるが、この考え方に共感した地域住民や寺の住職が再生へと向かう。ここで注目すべきは当時はリノベーションという言葉は一般化してはいなかったが、「既にあるモノを生かした町づくり」が行われた点にある。つまり、戦災に遭わなかった建物、街並み、そして住民自身・・・・つまり残すべき「下町」による町づくりが始まる。再開発から取り残された「昭和」が地域のコンセプトになったということである。
東京江東区の砂町銀座商店街や今回取り上げた横浜六角橋商店街も同じである。大阪で言うならば、通天閣・ジャンジャン横丁、あるいは梅田であれば高架下の新梅田食道街となる。それぞれ残すべき昭和あるいは下町の「何か」によってつくられ、その「下町レトロ」もそれぞれ異なってくる。実はその違いに「魅力」があり、人を惹きつける。
谷根千・谷中銀座商店街における残したい「下町」と大阪通天閣・ジャンジャン横丁における「下町」とでは全く異なる。下町とは、そこに住む人たちの息遣いや温もりが感じられる日常であり、生活のことであり、一言で言うならば地域固有の「生活文化」ということになる。その生活文化の象徴をビジュアルにするならば、谷中銀座商店街の場合は商店街に通じる坂の上「夕焼けだんだん」からみる商店街の風景であり、大阪通天閣・ジャンジャン横丁の場合はやはり巨大看板の向こうに見える通天閣のタワー風景ということになる。

吉祥寺ハモニカ横丁の場合

「昭和レトロ」というテーマで再生した成功事例の街の一つが吉祥寺ハモニカ横丁である。実はハモニカ横丁は前述の「もんじゃストリート」や「黒川温泉」のように一つのテーマ集積力によって再生した訳ではない。
その背景には吉祥寺という街の成長と衰退の歴史がある。吉祥寺ハモニカ横丁も戦後の闇市からスタートした小さな駅前商店街であった。実は日本の小売流通の変遷を吉祥寺も映し出している。そのドラスチックな変化をもたらしたのは「百貨店」であった。高度経済成長期、いざなぎ景気によって所得も増え豊かさを求めるようになり、その豊かさの象徴が百貨店という業態であった。そして、郊外である吉祥寺も例外でなく次のように大手百貨店が次々と進出する。
■1971年伊勢丹吉祥寺
■1974年近鉄百貨店東京店
■1974年東急吉祥寺店
この百貨店進出に一番影響を受けたのがいわゆる街の小売店で、ハモニカ横丁の小売店は次から次へと脱落して行く。闇市の跡地ということから八百屋や鮮魚店といった小売店だけでなく、衣料販売を始め当時人気のあった鉄道模型店や金魚屋まであった。そして、この百貨店自体も次のようにドラスチックに変わって行く。
□伊勢丹吉祥寺店→2009年コピス吉祥寺(ショッピングセンター)へ
□近鉄百貨店東京店→2001年吉祥寺三越+大塚家具→2006年ヨドバシカメラへ
■東急吉祥寺店→現在も営業

こうした変化はハモニカ横丁の店々にも押し寄せ1990年代末には退店もしくは業態転換して行く。バブル崩壊がこうした動きを加速させて行くのだが、業態転換の口火を切ったのは電気店経営から飲食店経営へと転換したカフェ「ハモニカキッチン」と言われている。そして、2000年代から若い世代向けのダイニングバーや日本酒の立ち飲みバーといった飲食店が増え、活況を見せるようになる。もう一つ見ておかなければならないのが、この横丁路地裏の「昭和」の風情を造ったのが新国立競技場の設計に携わっているあの建築家隈研吾氏をはじめとしたリノベーションによるものであった。谷根千の再生も4人の主婦による地域雑誌創刊があったように、ハモニカ横丁も「次」を目指した人たちによって「今」が創られていることが分かる。
ハモニカ横丁に一歩入るとタイムスリップしたかのような感がするのだが、そうした世界をOLD NEW(古が新しい)といった受け止め方がなされているのもこうしたリノベーションによるものであろう。
一種猥雑な空気が漂う横丁路地裏にあって、人の温もりがするどこか懐かしさのある路地裏飲食街である。こうした「昭和」もハモニカ横丁の隣には若い世代のトレンドファッションを集積するパルコがあり、周辺にはおしゃれな専門店が多く、こうした「新旧対比/昭和と平成」の面白さも提供している街である。そして、吉祥寺駅南側には武蔵野の自然が残る井の頭公園があり、ファミリーで楽しめる動物園・ミニ遊園地もある。10年ほど前から吉祥寺が「住んでみたい街No1」と言われるのも、こうした街歩き、回遊する楽しさのある街ということでもある。
このように再開発され平均化された街並みとは異なる吉祥寺ならではの横丁路地裏飲食街が生まれ、吉祥寺という街の魅力をつくる大きなアクセントとしての役割を果たしている。
ここにも100通りの「昭和レトロ」の楽しみ方があるということだ。

横浜六角橋商店街の場合

ところで横浜には特色のある3大商店街がある。1つは過去未来塾でも取り上げた興福寺松原商店街で「ハマのアメ横」と言われる元祖訳あり激安商店街である。2つ目が落語家桂歌丸師匠の地元で知られる横浜市南区の「横浜橋商店街」。3つ目が神奈川大学・横浜キャンパスのある東急東横線白楽駅前にある横浜市神奈川区の「六角橋商店街」。
今回はその六角橋商店街を取り上げることとした。この六角橋商店街のHPにはその商店街のコンセプトとして「ふれあいのまち」とある。ふれあうほど近い存在、売り手も買い手も、顔どころか気持ちまで分かる距離の地元に密着した商店街ということだ。

地元に愛されるわけ

六角橋商店街の歴史は古く戦前の東急東横線の開通(白楽駅)と神奈川大学の移転から始まる。商店街の位置を簡単にいうとすれば、白楽の駅前から神奈川大学へ向かう道筋約300mに170店舗が集まる連合商店街である。この商店街は大きな表通りの六角橋商店街大通りと並行した狭い道幅1.8mの仲見世通の2つで構成されている。歩けばすぐ分かるが、この仲見世は昭和の面影を残すレトロな商店街で、いわゆる全国チェーン店がほとんどない地場の商店構成となっており、谷根千の谷中銀座商店街や砂町銀座商店街とよく似た商店街となっている。
この六角橋商店街が注目されたのは、町おこしならぬ「商店街起こし」を次々と今なお実行してきた点にある。いわゆる売り出しやイベントで、その中でも早い時期から「ドッキリヤミ市場」というフリーマーケットを始め、「うまいもの市」やプロレスやジャズ演奏などのイベント、更には地域密着の小さなイベントである近隣小中学生を中心に募集していた「横丁アート」展示といったように地域に根ざした商店街である。特に、毎回2000人が訪れる「ドッキリヤミ市場」は21年目を迎え、六角橋商店街の看板イベントとなっている。
こうした個々の商店が協力し合うことと、神奈川大学の協力を得たイベントだけでなく商店街のアーチや街路灯などの環境整備事業に学生のデザイン力を借りるまさに地域密着型商店街として注目を集めてきた。ある意味、衰退していくシャッター通り商店街にあって、「生き残る術を持ったモデル商店街」と言えよう。

個性ぞろいの店々

六角橋商店街が注目を集めるきっかけとなったのは2012年TV東京による街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンタテイメント「出没!アド街ック天国」によるものであった。当時の放送を見て興味を思えたが、その後の商店街の「変化」はどうであるか今回の街歩きの目的の一つでもあった。
黒川温泉のテーマパークとなった合言葉が「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」であった。横浜六角橋商店街に当てはめると、「六角橋商店街全体が昭和の市場 通りは路地 商店は露店・屋台」となる。一つ一つの店舗は吉祥寺ハモニカ横丁の店舗と同じように小さな店舗がほとんどである。地場商店街ということで、近隣のお客さんはよく理解しているからであると思うが、各店定休日も違えば営業時間も違う。店舗構成も一通りあって、やはり神奈川大学生向けと思われるが家系ラーメン店が多くなっている。
狭い路地裏、昭和の雰囲気・・・・・・・こうした世界から想像されるのが街場の洋食店となるが、あのTV東京の番組「孤独のグルメ」にも紹介された「キッチン友」というご夫婦のお店がある。また、レトロな雰囲気の珈琲専門店「珈琲文明」にも立ち寄りたかったのだが、水曜定休ということで断念した。
個性的で面白い商店の一つにアンティークウオッチの「ファイアー・キッズ」という専門店がある。勿論高額なアンティークウオッチの代表格であるロレックスやオメガもあるが結構知らないブランドウオッチも多数あって、腕時計好きにはたまらない専門店である。
こうしたレトロな専門店と共に「ザ・昭和」とでもいうべき専門店がある。表通りにあるなんとも昭和な「柿崎水魚園」という写真の店である。昔風にいうならば街の小さな金魚屋さんである。確か以前には吉祥寺のハモニカ横丁にも金魚屋さんがあったと聞いているが、時代は水族館ブームとは言うものの、ここ六角橋商店街には今尚営業している珍しい専門店である。

昭和のコンビニ商店街

「昭和レトロ」な商店街というと、吉祥寺ハモニカ横丁を始め江東区の砂町銀座商店街、谷中銀座商店街、全て異なる「昭和」の魅力を発揮し、観光地化が進んでいる。この横浜六角橋商店街は同じ「昭和」であっても昭和の生活感が色濃く残っている商店街と言える。
今回味わうことができなかった店の一つが、おでんを売る「かずさや」という小さな店である。夕方近くになると店先のパイプ椅子に座っての居酒屋になる、そんな生活感を残した店である。

というのも商店街から一歩路地に入ればそこは住宅街で、六角橋商店街はそんな住民の「生活市場」になっていて、これも商店街生き残り策の一つであろう。それが可能となるのも、商圏が小さく同じ横浜の興福寺松原商店街のように広域で集客しなければならない商店街ではない。ある意味、小さな商圏内での「昭和のコンビニ」といった便利で使いやすい商店街ということだ。
こうした地元住民と生活を共にする商店街のこれからであるが、他の商店街と同じ様に空き店舗も出始めているようだ。課題は「後継者」の有無に尽きる。ここでも高齢化時代の問題が表へと出てきているということである。ただ写真の小さなカフェは芋の蜜からつくられたスイーツショップ「あめんどろや」である。
若い女性向けのおしゃれな和風甘味店で、推測するに最近オープンした店のようである。こうした「新しさ」も地元住民に応えたものであると言えよう。コンビニと同様、新陳代謝もまた必要ということだ。(後半へ続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 13:45Comments(0)新市場創造