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「人力経営」という本を書きました。ヒット商品の裏に潜んでいる「人」がテーマです。取材先はダスキン、エゴイスト、野の葡萄、叶匠寿庵、桑野造船の経営リーダー。ユニーク、常識はずれ、そこまでやるのか、とにかく面白い経営です。星雲社刊、735円、新書判。

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2015年03月18日

未来塾(15)「テーマから学ぶ」 地球の胃袋 上野アメ横(前半)

ヒット商品応援団日記No608(毎週更新) 2015.3.18.

3月14日北陸新幹線が開業し、その経済効果を始め北陸の豊かな食や文化に注目が集まった。毎年3月には鉄道を始めとした交通のダイヤ改正が行われるが、今年は北陸新幹線の開業と共に、首都圏では「上野東京ライン」という新しいダイヤが組まれ、新しい「移動」によって大きく街が変わっていく、そのスタートが切られた。前回の未来塾で取り上げた「谷中ぎんざ商店街」も地下鉄千代田線の開通によって近隣の顧客が他の街へと流出し、危機を迎えたように、大きな変化を与える。今回は「上野東京ライン」の開業によって、始発駅・乗換駅であった上野駅が途中駅・通過駅に変わり、今までとは異なる変化を上野の街にもたらすことが予測される。そんな上野の街の中心である「上野アメ横」がどんな変化を見せるか、生き残るテーマは何かを学ぶこととする。



2月の平日昼の上野アメ横


「テーマから学ぶ」

地球の胃袋
雑エンターテイメント

上野アメ横


思い出を語る駅

駅に関する歌は時代を映し出し、世代によって口ずさむ歌は異なる。出会いや別れの舞台となる駅であるが、そのなかでも印象深く歌われる駅が上野駅である。


戦後の高度経済成長を支えた団塊世代にとっての上野駅は、故郷を後にして集団就職列車から降り立った駅である。”どこかに故郷の香をのせて 入る列車の なつかしさ・・・・”  この世代にとって井沢八郎が歌う「あゝ上野駅 」(1964年リリース)は東北地方出身者の愛唱歌であった。集団就職列車は1954年(昭和29年)4月5日15時33分青森発上野行き臨時夜行列車から運行が開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。
1977年阿久悠作詞石川さゆりが歌い大ヒットした曲に「津軽海峡・冬景色」がある。上野駅から夜行列車に乗り、雪の青森駅で降りて、ボーディング・ブリッジを渡って北海道に向かうという歌であるが今な口ずさむ人は多い。実は同じ年にシンガーソングライターである中島みゆきがリリースしたなかに「ホームにて」という歌がある。実は大ヒットした「わかれうた」のB面に入っていた歌であるが、中島みゆきフアンには良く知られた歌である。

ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
走りだせば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる


中島みゆきの出身地は北海道で、上京し降り立ったであろう上野駅を舞台にした歌であると思う。こころの機微を歌う中島みゆきのことだから、「故郷に帰ろう、でも・・・」と迷い躊躇する気持ちを歌ったもので、やさしい駅長さんが”乗れる人は 急ぎなさい(がんばりなさい)”という応援歌である。
この「ホームにて」という歌は多くの歌手がカバーしている。例えば、自ら地方出身者で「ホームにて」を是非歌いたいとカバーしたシンガーソングライターの槇原敬之もそうした一人である。

記憶のなかにしかない上野駅

2015年3月13日(金)(始発駅基準)をもって寝台特急「北斗星」が運転を取り止めることになった。北海道新幹線開業に向けたもので車両の老朽化に伴いその役目を終えるのだが、既に上野の転換点はその駅舎の改修から始まっている。2002年2月アトレ上野がオープンし、旧上野駅の雰囲気を一部残しながらも、明るい都市型ショッピングセンターを併設した駅へと変わっていく。
そして、2015年3月のダイヤ改正によって更に変貌することが予測されている。それが「上野東京ライン」の開業で、宇都宮線・高崎線と東海道線が結ばれるほか、常磐線が品川まで乗り入れることになり、京浜東北線と山手線の混雑緩和と利便性の向上が見込まれている。

こうした直通あるいは相互乗り入れによって鉄道利用が活性化した例が東急東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転による変化である。横浜市の調査では、この新ダイヤによって横浜みなとみらい地区への訪問は過去最多の約7,200万人に及んだと。前年からの比較では約500万人が増加し、国の試算では経済効果は65億円と相互運転の恩恵を受けたと報告されている。

さて「上野東京ライン」によってどんな変化が上野という街にもたらされるか、極めて興味深いものがある。ただ言えることは、寝台特急「北斗星」の役割が終えたことに象徴されるように、上野駅は記憶のなかにしかない駅になっていくことだけは間違いない。勿論、新たな上野駅の出発でもあるのだが。

時の変化を映し出す駅と街

中島みゆきが歌う優しい駅長さんではないが、駅は人の移動という外側だけでなく、内側をも見つめてきた。JR東日本の1日平均の乗降客数第1位は新宿駅で 751,018人、池袋駅550,350人、東京駅415,908人、・・・上野駅は13位の181,880人である。仕事の場、学びの場、あるいは買い物や旅行といった観光など、人を移動させる「何か」によって乗降客数は変わってくる。こうした視点に立てば、上野の変化は小さいかもしれない。しかし、ある時期まで上野駅は始発駅であり、終着駅でもあり、途中駅ではない意味合い、こころのありようを担ってきた駅である。そうしたことを含め、他の駅と比較し上野駅・上野の街が特徴的なのは、新しさという変化だけでなく、「過去」、つまり大仰に言うならば日本社会の歴史と文化の痕跡が地表に出ている珍しい駅であり、街である。その象徴があの「アメ横」である。
そのアメ横であるが、台東区のJR御徒町駅から上野駅間の高架に沿って伸びる約400mの商店街。店舗数は約520店。戦後、バラック建ての仮設店舗や屋台からスタートし、生活必需品を売買する闇市から始まったのがアメ横である。


そして、アメ横と共にその上野駅利用客を見続けたのが聚楽台である。上野駅前のシンボル的存在であった「西郷会館(上野百貨店)」に居を構える「聚楽台」はファミリーレストランのいわば先駆け的存在であった。1959年から2008年まで営業していたが老朽化によって取り壊しに伴い、2008年4月21日で閉店する。その後リニューアルし、2012年9月に全面ガラス張りの建物「UENO3153」としてオープンする。東北や上越の出身者にとっては上野駅と共に思い出深いレストランである。今でも「じゅらく」で同郷の仲間との同窓会を行う人は多い。名物の「西郷丼」を食べることを通し、「遠い過去」「思い出」という記憶を生産するわけである。

闇市から一大商業観光地へ

アメ横はJR御徒町駅から上野駅間の高架に沿って伸びる約400mの商店街であるが、今では貴金属、輸入雑貨、食料品、衣料品、化粧品、ゴルフ用品やアパレル衣料、更には鮮魚、塩干物、珍味、海苔、菓子などを扱う店が軒を並べる、そんな一帯をアメ横と呼んでいる。

戦後の闇市は上野だけでなく、新宿にも池袋にもあった。そして、再開発の波は巨大なビル群として押し寄せ今日に至っている。アメ横商店街と再開発を進めようと計画を立てるJR東日本と意見の違いもあったが、駅と商店街は不可分な関係にあり、急激な再開発は見送られ、今では共存共栄の道が選ばれている。
そうして闇市から始まった商店街であるが、次第に正月食材の買い物、マグロやかに、たこ、新巻鮭といった魚介類をはじめ蒲鉾、伊達巻・・・・・更には菓子類までを店頭での「ねぎり」と「おまけ」で安く買い求めるといった商売が話題となる。そんな話題は年々広がり、年末恒例の風物詩として多くのメディアにも取り上げられ、一大観光地となる。普段は一日10万人程度の来街者は12月になれば50万人にも及び歩くにも大変な混雑となる。そんなごった返すような人出もまた恒例の楽しみにもなる、そんな年末の正月食材の買い出しという「商業観光地」へと変貌する。昨年末はどうかというと、12月30日は約57万人、27日から31日までの5日間で約200万人弱が訪れたという。ちなみに浅草と上野という2大観光地を抱える台東区には年間4000万人を超す観光客が訪れる。そして、観光都市への更なる変貌を期待している。

闇市の痕跡が残るガード下商店街


「闇市」とは何か、高齢化社会というシニア世代が多い社会とは言え、戦後の食糧難の時代に闇市で物を買い、そして空腹を満たした世代はどんどん少なくなっている。アメ横という名前の由来には二通りあり、一つは米軍払い下げの(アメリカ)衣料等を販売していたからという由来。もう一つは戦後間もない頃「アメ(飴)」のような嗜好品はほとんどなく上野に行けば手に入るということから「アメ横」という俗称がつけられたと。2つの由来に共通していることは、戦後の物資難にあって闇で手に入れることが出来た商店街ということである。特に、生命をつなぐ「食」を安く提供する飲食店、当時は屋台が多数あって、戦後庶民の「胃袋」を満たしてくれた街である。
このような「闇市」を象徴しているのが、上野ー御徒町間の高架下、ガード下である。

駅と食堂

昔から駅と食堂は密接な関係にあった。駅は多様な人々が集散する拠点であり、必ず駅前食堂はあった。外食産業にあって、大衆食堂という言葉が一般化するのは昭和初期と言われており、鉄道利用の浸透と併行して繁盛してきた。戦後も通勤通学客相手の大衆食堂は庶民の「日常食(ケ)」を提供してくれたが、戦後の高度経済成長と共に所得は増え豊かになり、「非日常食(ハレ)」が食の中心へと変化していく。
そして、日常食は日本マクドナルドや吉野家といったファストフード、あるいはコンビニエンスストアの浸透によって大衆食堂はどんどん減っていく。更に、本格的な美食・グルメや健康食への志向も強まり、非日常食が日常食を侵蝕し始めていく。結果、大衆食堂は更に減っていくことになり、今や駅前食堂という言葉は死語となってきた。
上野アメ横を歩き、やはりというか、そうだろうなと思ったことの一つがJR御徒町駅にあるガード下の大衆食堂「御徒町食堂」の閉店であった。
しかし、多くの駅前の飲食店とは異なり、上野アメ横ガード下にはアメ横ならではの固有な「食堂」が集積していた。

大衆食堂から「雑」食堂へ

自ら大衆食堂の詩人とする遠藤哲夫氏は「猥雑さ、いかがわしいのが大衆食堂の信頼の証明である」「気取らない庶民の味が今、懐かしくも新しい」と言い、そんな食堂の復権を詩っている。
しかし、後継者不足という問題もあり、上野にあっては駅の大衆食堂は「雑」食堂へと変化している。その「雑」とはどんな世界なのか、和洋中、韓国、台湾、インド、トルコ、・・・・・・地球の胃袋にふさわしい多様多種な飲食店があり、例えばトルコ料理のケバブなどがニュースとして取り上げられアメ横を代表する「胃袋」のように伝わっているが、そうした多国籍飲食もあるが、アメ横では次のような「雑食」の特徴が見られる。


・立ち飲み「たきおか」:立ち飲みのつまみとしてもつ煮が有名であるが、日替わりランチがなんと400円。他にも海鮮丼 450円など。
・肉の「大山」:店頭には立ち飲みコーナーがあり、コロッケとかメンチカツをツマミに一杯やれるようになっている。ちなみに「やみつきコロッケ50円」「やみつきメンチカツ100円」など。また、定食系ではステーキ、ハンバーグ、あるいは大山カレー400円。
・中華「珍々軒」:屋台からスタートし50年以上商売をしているアメ横名物の中華屋であるが、オープンカフェならぬオープン中華店。さすがに雨天のときは店内カウンター席のみとなるが、一番人気は、レバニラの具材をタンメンのスープで煮立て、麺と合わせたレバニラタンメン。ありそうでなかった人気のオリジナルメニュー。
・大衆酒場「大統領」:昭和25年創業。アメ横にガード下の酒場文化を生み出したお店である。朝9時の開店であるが、同時に注文が殺到するモツの煮込みは、馬の腸を使った人気の逸品。

通常の飲食店であれば、顧客を想定し、メニューや価格を設定、そして業態をどうするか、といった飲食店を考えるのだが、アメ横の基本は顧客の欲望任せ、顧客の求めるものが自然に生まれ定着し、看板メニューになるといった、これこそ欲望をストレートに満たす「闇市」的飲食、「雑」食堂である。そして、ストレートであるが故、外見はいかがわしい食のように見えるが、メニューや業態などにはアイディア溢れる「何か」がアメ横にはある。
こうした既成にとらわれない立ったままの飲食業態としては、銀座を中心に急成長する「俺のフレンチ」があるが、上野アメ横では何十年も前から「俺の雑食」が人気となっている。

ワンコイン食堂街


デフレ時代のキーワードの一つが「ワンコイン」である。100円の代表的業態がダイソーなどの「100円ショップ」であり、東京新橋のサラリーマンのランチとしてよく紹介されるのが500円ランチである。しかし、デフレ以前から上野アメ横ではワンコインが基本・スタンダードとなっている。
アメ横オタクや近くのサラリーマンは勿論のこと、上野駅から御徒町に向かうガード沿いの路地に入れば定番カツカレーの店として知られた「クラウンエース」がある。カツカレーは500円、ポークやチキンは400円、ビーフは450円。安くて分かりやすいカレー専門店である。
「雑」食堂の例として取り上げた「たきおか」や「大山」のランチメニューの多くは400円~500円となっている。また、中華の「珍々軒」はどうかと言うと、名物レバニラタンメンはチョット高めであるが、ラーメンは500円。

また、右肩下がりの居酒屋にあって上野の居酒屋「八起」ではランチの定食は全品400円。少し見にくいメニュー看板であるが、「かけそば+半カレーライス」や「かつおタタキ定食」などが400円。他に「大トロ刺身定食」が700円となっている。更に面白いことに居酒屋らしく5杯まで生ビールが1杯100円で飲めるメニューもある。更に、居酒屋「いかり屋」では時間帯の制限はあるものの11時45分までに入れば干物定食がワンコインという店もある。

そして、戦後間もない頃の「ごちそう」の一つがとんかつであった。ここアメ横においてもとんかつの名店は多い。御徒町を含めた一帯では「双葉」は閉店してしまったが、大正元年に屋台から始め、昭和3年にこの地に軒を構えて上野のとんかつ屋を牽引してきた「ぽん多本家」。あるいは「蓬萊屋」やカツサンドを初めて作った「井泉」など名店にふさわしくメニュー価格もそれなりとなっている。アメ横にはそうした老舗価格店とは異なるリーズナブルな店も多い。例えば、「山家(やまべ)」では1000円ほどでとんかつ定食が食べられ、更に路地裏にある「まんぷく」も同じような価格で満腹することができるそんなとんかつの店も多い。

「雑」食堂の中心は老舗飲食店


老舗の代表店舗と言えば、やはり上野藪そばであろう。明治25年に「藪安」の屋号で創業し、昭和41年に現在の屋号に変わったという老舗である。昭和3年に店を始めたふぐの老舗では「さんとも」、あるいは焼き肉であれば創業昭和38年の「大昌園」、前述の居酒屋「大統領」も老舗のなかに入るであろう。また、昭和30年、台湾・台北出身の上条さんが26歳のころに開いた台湾料理の店「新東洋」も老舗のなかに入る。焼き鳥の「文楽」も昭和33年創業であり、今なお特大餃子に行列ができる「昇龍」も昭和32年創業。他にも昭和30年代に創業した店が極めて多い。勿論、閉店した店もあるが、老舗は顧客が支持し続けることによって成立する。「食」の変化は凄まじいスピードであるが、こうした老舗市場もまた生き残っている珍しいエリアが上野アメ横である。


一方、新風の代表飲食となると、やはりラーメン専門店である。「蒙古タンメン中本」、「麺屋武蔵武骨」、「麺屋武蔵武骨相傳」、「青葉」、「麺処 花田」、あるいは二郎系では御徒町高架下秋葉原寄りに「希」、東上野に「麺徳」がある。しかし、吉祥寺や町田といった若い世代の多い街と比較すると、立ち飲みに代表されるようなオヤジの街アメ横としては少ないがそれでもラーメン市場は浸透している。

「雑」を創造する日本人

古くはアジア諸国、特に朝鮮半島や南は沖縄を始めとした東南アジア、北は樺太を通じて多くの人や物、文化が日本にもたらされた。江戸時代における「鎖国日本」というイメージが強いが、庶民レベルにおいては日本を囲む海は大きな交通路になっていた。室町時代には丸木舟を使って太平洋の向こう側南米ペルーまで渡っていたという史実が残されている。人の交流は物の交流であり、また文化の交流でもある。四方八方から様々なモノを取り入れ、咀嚼できない雑居的なこともあったとは思うが、生活のなかへと取り入れてきた。そして、五風十雨と言われるように湿潤で豊かな自然の恵みを生きてきた日本である。結果、明治維新における和洋折衷ではないが、「外」から取り入れることへのこだわりは少なく、雑種文化、雑食が定着する。


こうした歴史を遡るまでもなく、例えば中国から取り入れたラーメンは今や世界の「ラーメン」へと成長してきた。インド料理としての本格カレーもあるが横須賀海軍カレーではないが、ジャガイモの入ったカレーも庶民のメニューとなっている。そうした「雑」の根底には、新しいもの、珍しいもの、面白いもの「好き」があり、世界に例を見ない「雑」生活の国である。そのことの証明ではないが、周知のように主食の米の消費量は落ち続けている。現在と言えば昭和30年代の消費量の約半分ほどとなり、農水省の長期的予測においても減少傾向に変わりはない。つまり、雑食は日本人のスタンダードになっており、今後もそうした傾向は続くということである。


エネルギー溢れる「雑」エンターテイメント

「雑」の反対語や対義語などとして挙げられる言葉は「純」や「整」となる。「雑」を組み合わせた言葉となると、雑多や雑談といったように正式ではない、純粋ではない、整理されてはいない、・・・・ある意味いいかげん、曖昧な意味合いとして使われる場合が多い。しかし、人は時に構えた既成の中から離れ、自由気ままに、いつもと違ってチョット何事かをしてみたいことがある、そんな気持ちにフィットする人間の本性が持っている言葉だ。
そして、よく言われることであるが、例えば正式な会議での議論はつまらない結論しか出ないが、雑談の時の方が面白いアイディアが生まれると。雑談、雑種、雑草、あるいはオンタイムに対するオフタイム、既成に対する異端。エネルギー発生の源がこの「雑」にあるということは確かである。
こうした「雑」を商品の品揃えや陳列、あるいは価格にも反映させたのがあのディスカウントストアのドンキ・ホーテである。周知のように熱帯雨林のような圧縮陳列とブランド品から食品までの雑多な商品揃え、そして何よりも「雑」業態の原点は創業にあり、開業した小規模店舗は「泥棒市場」とネーミングされている。笑い話ではあるが、泥棒から仕入れるから激安で売ることが出来ると。そんな既成から離れた異端の店としてスタートした。
ドンキが「雑」業態店であるならば、上野アメ横は「雑」の街となる。戦後の混乱の中で、雑然、雑多、雑草のように逞しく生きてきた街である。闇市という言葉が使えるのもここアメ横だけである。「闇」とは法の届かない世界のことであり、違法な市場がひらかれる街ということである。勿論、そうした法やルールは守られた街となってはいるが、どこか法から外れたそんな雰囲気が残る街である。(後半へ続く)
  


Posted by ヒット商品応援団 at 10:05Comments(0)新市場創造